性表現をどの位置から、どの位置について論じるか――一緒くたに「表現の自由」の問題にする前に

性表現において、
①見ること-見られること、対象化すること-対象化されること、描写すること-描写されること
②(1)その表現の名宛人でない者が、その表現を見ること、その表現・制作の場面を見ること
②(2)その表現の名宛人でない者が、見られる対象に同一化させられること

このどの位置から、どの位置について論じられているのかがしばしばごっちゃにされて「表現の自由」が語られる。

①において権力関係の非対称性がなく、右項の者に対等性、主体性、自己決定性が確保されているか又は右項の者にとっても表現行為であるかがまず第一。

①において問題が認められないとしても、②において性差別のメッセージが発せられる/受け取られる又は性差別の効果を生じるのであれば、性表現の開示、使用等において適切なルール(状況に応じて任意的又は強行的)が必要になる。

また、②(1)において性表現の攪乱性、抵抗性、反権力性といったものが認められるとしても、それが同時に②(1)や(2)の水準で性差別の効果を生じることや、そもそも①の水準で権力性、強制性、性差別性等の問題が起こっていることがある。著名芸術家、作品でもしばしばこの問題があった。

そして、
③性表現の享受者が、表現者あるいは表現の視線に同一化すること又はその享受を通じて自身の視線・信念を確証・強化すること
という水準がある。もちろんここには攪乱性があるため、性差別への反対を惹起する可能性は封じられないが、性差別的効果を発揮することが多い。

③の水準に関しては、特に子どもに見せる、見せないということについてパターナリズムの問題が生じ、慎重さが求められるが、性教育を含め対抗的な、多様な情報に接していないままに、性差別を孕んだ情報、偏った情報に一方的に晒される問題を考慮せずに、自由、自己決定の問題にしてはならない。

以上の整理において、性道徳、禁欲、性嫌悪といったことが全く登場しないことに気づかれただろうか?問題は、性表現やその表現者、利用者が性差別・ジェンダー非対称性の秩序・規範を前提化又は内面化・内在化していないか、なのだ。


自民党青年局懇親会の「セクシーダンサー」問題で特に女性から上がる不快感の声に同じような反撃が起こっているが、構造は同じなんだよね。男性議員らが女性を性的対象物として、性的眼差しで見て、扱っていることが露わになった。それをあの場限りのことと考えろと言う方が無理。

そして、そのことはダンサーが「表現者」であるかということとは関わりがないし、批判は彼女たちに向くものでもましてや「職業差別」するものでもない(そういう人がいることは否定しない)。あくまでも男性議員らの性差別意識、その性的眼差しが問題。

男性議員が「キモい」等と言われるのは、彼らが女性をどう眼差しているか、どういう存在として扱っているかに関わるから、いわゆる「お気持ち」とは違う。むしろ、これまで社会的にも法的にも優先され保護されてきたのは男性の「気持ち良さ」、その感情。それをまさに男性議員が体現したのがこの問題。

仁藤夢乃さんの「キモいおじさん」もそうだが、このように男性に向けられた「キモい」にまさに〈感情的〉、〈衝動的〉反発が起こるのは、対象となった言動が「大したことない」「わかる」と思うから。自明視、当然視していたから。その自らの性差別意識を否認し、逆に被害者意識を持っての反発。

こういう時って、「キモい」が向けられた男性を直接知らない男性も即座に反発するから、想像的に作用するホモソーシャリティってすごいなと改めて思う。そうやって同一化することで自分の男性アイデンティティを確認している面がある。だから厄介。

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