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不動産女子が過ごした20年_マンデベ編

こんにちは、前回のnoteリリースで初めて100いいねを超えさせて頂いたチャーです(普段どんだけおもんないねんw)
「抱き屋」の元彼に会いたくて入った不動産業界
なのに業種は商業不動産仲介
普通思いますよね?「え、もっと手っ取り早く売買行けばいいのに」
はい、みなさんのおっしゃる通りです

最初の会社で師匠に叩き込まれたこと

おっしゃる通りなんですが、この商業不動産仲介の社長がこれまためちゃくちゃ(いろんな意味で)かっこよかったんですよ
身なりや仕事ぶりは言うに及ばず、不動産業界のことも、営業のイロハもなんにも知らない「ゆるふわお嬢ちゃん」だった私に叩き込んでくれた人生訓は数知れず、今でも自分を奮い立たせるときの自己暗示は、社長に教えられた「契約なんか成功体験じゃない、それよりも毎日『自分との約束』を守れ」です。

「契約なんてやることやってりゃ誰でも出来る。毎日自分に「30件訪問する」って決めたら30件行け、「100件のクライアントに物件提案する」って決めたら100件電話しろ、自分との約束守られへんやつに他人と約束する契約なんか出来るか」

ノルマはありません、自分で決めるスタイルですって入社の時の説明は確かに正しかったのですが、成約までの工程を分解して、それぞれの工程での歩留まりを分析したうえで「今の自分ならこれぐらいはやらなきゃいけない」、自分であらゆる数字を「自分と約束する」というのがその真意だったわけです。
そしてその約束をコツコツ果たしていくことの先にあるものの得難い経験は、「元彼と契約する」という恋愛感情をちょっと横に置いておくには十分でした。

しかし、前回の終わりで触れた母親とのお別れで事情は変わっていきます。

労働時間…今とは比べ物にならない

自分との約束を果たそうにも、まだ手探りの時間が長かったわたし。
そう、当時の会社は終電デフォルトで22:00より前に会社を出るのは飲みに行くときだけ、という時間感覚に私の仕事観が徐々に侵されていきます。

当時はまだまだ夜中まで働くことへの抵抗感なんてほとんどなく、若くて体もなんとかなるので「不動産業とは夜中まで働くもの」という誤った(←はい、ここ重要)価値観に染まっていってしまった私の前に立ちはだかったのが、急に母を亡くした父と、やっと某公務員試験に合格した弟の存在でした。
「実家に帰ればいいやん」ということは頭ではわかっていたのですが、不動産屋の元彼と出会う前に私は家族を巻き込んだ婚約破棄の憂き目にあっており(失恋ネタばかり目立つな…)、当時まだ親と100%生活を共にする、というハラが括れずにいたのです。

そんな私に「分譲マンションの企画職」という求人が目に入ってしまったのも、何かのタイミングだったのかもしれません。
「事務職っぽくこの業界にいられるのなら、もうちょっとプライベート優先で仕事選んでもいいかも」なんて、せっかく師匠に鍛えてもらった営業脳からまたもやスイーツ脳に逆ブレしてしまった私は、お世話になった師匠と先輩と何度も相談して、分譲マンションのデベロッパーで「企画職」という名の内勤に転職することになりました。

分譲マンションデベでぶち当たる壁

さて、ここでちょっと当時の新築分譲マンションの供給と価格の推移を見てみましょう
時期としては2005年ぐらいですかね

2000年代初頭、供給めちゃくちゃ多いな…
大阪の新築分譲マンションの坪単価平均130万前後!やっす!やっす!

当時、大京OB(が目立ってた)の販社から分マンデベへの転身ラッシュでした
ちなみに勤めていた会社は大京OBデベではありません(今はもうないけどね…)

こうしてみると在阪分マンデベで生き残ってるの少なっ!

商業不動産の世界から、分譲マンションデベロッパーという、またもやディープ(今から思えば)な世界に飛び込んだわたし。ドラスティックに動く業界動向だけでなく、配属された「総合企画部」って何するの?ってわくわくしてたはずなんですが、このデベロッパーでぶち当たったのが「女の子」という扱いでした(しょんぼり)。

商業不動産の世界から実需のデベへの転職、今思えば「若かったからこそ切れた舵」でしかなく、ほぼほぼやることなすことゼロからと同じ。
不動産の仕事をもっと深くやりたかったはずが、「女のコどうしのほうが仕事しやすいと思うから」と当時まだ黎明期だったマンションコンシェルジュの業務企画や、管理組合とのコンシェルジュ勤務時間の折衝、研修企画、モデルルームでのイベント企画etc「うん、やるけど、やるんだけど、なんか…思ってたのと違う」という違和感がムクムク育ち始めます。
そして仕事の要求はそのうち会社絡みのお酒の席への急な呼び出しも加わり、
「あれ?家帰る時間変わらなくね?(てか帰れなくね?)」
「あれ?わたし、今日は自分に何を約束したっけ???」…アカンやん

もうね、今思うとほんと恥ずかしいんですけど、事業計画もろくに立てられないままその場所でずるずる絡めとられていく時間を自分で止めることができなくて、そのうち取引先でもない単なる紹介先の会社の社長に酷い目にあったりと、目の前が暗くなっていくような日々を過ごすことになります。

だけど周りの景色は変わっていく

そして私個人の悩みとは別に、会社はIPOに向けて走り出します。
この時期、深キョンの彼氏の杉本宏之氏が創業したエスグラントコーポレーションがセントレックス市場に上場したんですよね(その後はみなさんご存じなので言及しません)。
若くしてイケイケだった最年少上場は当然多くの不動産会社の経営者層のプライドを刺激したのは間違いなく、在阪デベもあっちこっちで「上場準備に入るんだー」みたいな話をよく聞くようになって、当時勤めていた会社もあれよあれよという間に定期的に監査法人さんが事務所に来るようになりました。

し・か・し!です
「今週●●日に××さんがこられます」のあとに、細かく指示されるのが「書類は□□さん(全くの別部署のひと)のキャビネットにしまってください」→要は書類を見せるなと

上場準備でテンションアゲアゲどころかピリピリする社内、そして仕入れる物件はマンション用地だけでなく1棟収益も買うようになって、会社の都合?だったのか、金融機関や他社不動産業者さんからバンバンおじいちゃん社員が入社し、クルクル入れ替わる上司に振り回され、気が付いたころには、転職のともとの目的だった「プライベート優先」なんてまったく実現出来ないどころか疲弊しまくっている自分がいました。

「このまま居てても不動産の仕入れどころか元彼と契約なんて絶対できない」

こんな素人の自分にも曲がりなりにも仕事を与えてくれ、お給料を支払ってくれた会社は本当にすごいと今なら思えるのですが、今でもこの分マンデベ時代は自分の仕事の歴史の中でも「仕事が不完全燃焼過ぎて恥ずかしい」時期でした。
ちょこちょこお声のかかる若手業者会でも、私はほとんど話の輪に入れず「世間ではどうやらファンド物件なるものがブイブイ言わせてきているらしい」「分マンよりも1棟っしょ!」みたいなノリの言葉をちょこちょこ耳に挟みながら、自分の行く道が完全に迷走していて、どこで何をすればいいかを見失っていました。

そんなとき、業者会に来ていた新顔のメンバーとの会話で何気なく「ここ(デベ)の前は商業物件のリーシングしてたんだー」と自己紹介したことが、次のご縁に繋がっていくことになります。

すみません、まだ元彼は出てきません(連絡も全く取らず)が、今日はいったんこのへんで締めましょうかね
ここまでラーメンでいうところの天一「あっさり」だった不動産業界人生が、つぎの不動産資産管理会社で一気に「超こってり」まで振り切ります

元々の目標だった「元カレと『契約』をするまで」あと9年(ぐらい)!!


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