Das ist Schicksal. oder Dein Silbergarten.

ドイツ語にすればカッコよかろう(ハートをつければかわいかろう みたいに言うな。)。

芸術というか娯楽というか、という問題がうるさいので、一回「表現」という言葉に止揚するわけだが。

表現に客観的、絶対的正しさなんてものは端から求めていない。
というか、もしそんなものがあるとしたら、さらに「正しさ」が求められるはずの、たとえば技術の世界には、目的に対してただ一つ正しいプロダクト というものが存在するはずなのだが、結果としてそうなっているものをほとんど見たことがない。

まあ絶対的に正しい唯一のプロダクトは特許でガチガチに固められてしまうので他所は他の方法を取らざるを得ない、と言う話はあるわけだが。
それよりも同じように見えるプロダクトでも根本にある技術思想が違ったり、または妥協の産物であっても結果こっちでいいんじゃね?みたいな話だっていくらでもあって。

創作の話に戻しても、例えば「音楽はバッハの平均律で完成している。」って言う話をどっかで聞いたことがある。
俺ごときが知ってるってことは、かなり人口に膾炙した言い回しなんだろうし、俺ごときが上辺だけで理解しているのとは異なる深ーい深ーい意味があるのだろうけれど。

完成するってことは、そこから変わる必要がない。と言うことだ。
それはある意味での静止や終わりも意味する。
では。音楽は静止して終わっただろうか?
この論の進め方自体が盛大な誤読なんだから、当然そんなことは起こらなかった。

時代性や土着性……聴衆やモチーフの変化や異なる技術体系……と結びつきながら、または圧倒的個性……着想や技術や表現欲求が埒外にある人たち……による変異を経て、音楽はその後も変わっていった。


圧倒的個(ソロ)性……?


どうやらここまでが前振りのようである。
(どっちかと言うとキーボードの暴走みたいな文章なので。)

これは1月23日に行われた、アイドルグループRAYの4thワンマンライブ"PRISM"に関する、とてつもなく迂遠な個人的総括である。
もはや感想の体すら為していない。

そう。だから。音楽は変わるのだ。
音楽は、と言う言い方が適切でないならば、表現は、と言う方でもいい。
それは先ほど書いたように外的要因にもよるし、表現者本人の変化……単純な成長とか、偶然の気づきとか、このままではダメだという無根拠な焦燥とか……によっても。

(ここで夏目漱石とかパブロ・ピカソとかジョルジョ・デ・キリコの話を始めて、修善寺で苦いコーヒーと便利なツルハシで拷問されて血を吐くのだな。そのキリコじゃねえよ。)

メロンちゃんの音楽に対する想い(過去からの連続性の中に自分の表現がある。という。)は、過去の発言からも垣間見えていたし、それがあのセットリストを経て"Rusty Message"に結実する流れには非常に納得感がある。
それをあのようにプレゼンテーション(この場合は料理のそれ)したことについては正しかったか、と言われれば、冒頭から縷々述べたように俺別に正しさとか求めてないし、という話になる。
正しくなくていいのだ。表現という歴史の中の無数のチャレンジの一つ一つは。
むしろただ一つ、主観的必然性があれば良いし、それはあの空間に満ち満ちていたと思う。

そして何よりもあの場所で褒め讃えるべきは、それを真芯で捉えて打ち返した、ステージの上のRAYである。
リキッドルームという歴史的にも空間的にも巨大な空間に立って一歩も引かず、音響も照明も味方につけながら、ダンスと歌声と楽曲に合わせた表情と、そして何よりもその存在の「確度」(相対性理論によれば全ての存在は確率的にしか観測できないとか何とか)であの表現をやり遂げた彼女たちが、他に言いようもなくRAYであった、という以外の結論に、俺は至り得ない。

または、あの確度を手に入れた彼女たちには、それに相応しい強度のある表現が必要だった、という見方もできるのだろう。

優雅に水面を滑っているように見える水鳥が水面下でめっちゃバタ足してる、という「白鳥の水掻き」論は表現活動にどこまで必要なのだろうか、という話は横に置いておくとしても。

「アイドル」という表現が、ほっといても変化が多い少年少女から大人になる時代を主たるカンバスとする表現様式である、という実態に立てば、そこに音楽や作家や観客のさまざまな視点や想いという情報の奔流を注ぎ込まれた彼ら・彼女たちがそれらをしっかりと受け止めるならば、当然の帰結として、彼ら・彼女たちの在り方とその表現は、我々の想像を超えるスピードで変容するのである。
言い換えれば、我々はその変容そのものを見ている。

簡単に言えば、月日が「月一年ボイス」で、また内山結愛が「南波一海のヒアヒア」で、異口同音に語ったように、「ライブ中は普通だと思ってたけど、後から観たらこれは見てる人驚くわ」という感覚の地平に、もはや彼女たちは立っていて、そこでこちらに手を伸べている。

それを抜きにしても、彼女たちはこれからも変容するだろうし、変容していい。
変わりゆくことも恐れることも恐れずに。
光速度は不変だ。それでも変わらないものは必ずある。

だから俺は、次に出会うRAYの表現にこそ、焦がれている。

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