見出し画像

ハトシェプスト女王葬祭殿、 王家の谷、 メムノンの巨像 ー 世界遺産古代都市テーベと墓地遺跡

ナイル川によって東西にわかれている古代都市テーベと墓地遺跡(ネクロポリス)。ナイル川西側は死者の街と言われています。

ハトシェプスト女王葬祭殿

ハトシェプスト女王が 自らの権威を示すために 自身が在位中に築いたもの。切り立った岩壁を背景に 三層のテラスの両側に柱廊が伸びる壮大な葬祭殿。

ハトシェプスト女王はトトメス一世の娘であり、トトメス二世の王妃。夫の死後 側室の子トトメス三世が即位すると、ハトシェプストは摂政となり王位の権力を独占。やがて 幼い王を押しのけ 自らをファラオと名のり約20年王権を掌握。公式の場では あごひげをつけ男装で通ほど権力がありました。

ハトシェプスト女王の死後、トトメス三世は長年の怨みから、葬祭殿の女王の立像を破壊。 葬祭殿内部の彼女の名前や浮き彫りの全てを削りとって 存在を抹殺‼️ よほど嫌いだったのでしょうね。王権争いってたいへん😖💦

画像1


画像4

ハトホル女神礼拝堂にある ハトホル女神をかたどった柱。女神はテーベ西岸の守神ともいわれています。


王家の谷

紀元前1520年頃、トトメス一世が王墓の造営したのが始まり。王家の谷と名付けたのは ヒエログリフの解読者、フランスのシャンポリオン。

トトメス一世以降 王たちは 人里離れた岩場に穴を掘り 自らの墓を築きました。墓を荒らされるのを恐れての行動だったのでしょうが、願いむなしく ほとんどの王の墓は盗掘者に荒らされてしまいました。その中で ツタンカーメンの墓だけは荒らされた形跡がなく発見されました。

画像8

手前の黄色い乗り物に乗って 王家の谷見学へ出発

ツタンカーメンの墓

ツタンカーメンの墓は 1922年 イギリスのハワード・カーターが発見。ツタンカーメンは突然亡くなったため 墓を準備する充分な時間がなく 他の王たちの墓に比べてかなり小規模。しかし その小ささ故に ツタンカーメンの墓は盗掘者に見つからないで 非常に良好な状態で発見されました。

カーターは「ツタンカーメン発掘記」の中で 墓から見つかった沢山の財宝とともに 棺の上にあった枯れた一束の矢車草の花束について触れています。おそらく王妃がツタンカーメンの死を悼み手向けた花束。ツタンカーメンは波乱万丈の短い生涯だったのでしょうが、最愛の王妃に愛されていた幸せな時もあったと信じたい逸話ですね💐

ツタンカーメンは20年足らずの短い人生で 以前は暗殺説もありましたが、近年のDNA調査で死因はマラリアと骨折の可能性が高いと言われています。

ツタンカーメンのミイラは想像以上に小さかったです。棺は美しく 女神たちにに守られているように見えました。

王家の墓では入場券とは別に、自分で撮影する場合には カメラチケットを買う必要があります。カメラチケットがあっても ツタンカーメンの墓は撮影禁止でした。

ツタンカーメンの黄金のマスク等豪華な副葬品の多くは、カイロのエジプト考古学博物館に保存。 因みに エジプト考古学博物館も、内部を撮影するには、入場券とは別にカメラチケットが必要。カメラチケットがあっても 黄金のマスクは撮影禁止でした。


メムノンの巨像

アメンヘテプ三世の像。かつては アメンヘテプ三世が建設した葬祭殿が後ろにありました。 昔は 地震でひび割れた像がきしんで音を出していたといいます。

その音がギリシア神話のエチオピアの英雄メムノンがトロイ戦争で亡くなった後に 嘆く母に呼び掛けている声と伝説になり、メムノンの巨像と言われるようになったそうです。しかし 像の修復後に音はしなくなったそうです。

画像7



紀元前1570年頃から約150年続いた新王国時代の都テーベ。 古代都市テーベと墓地遺跡は、1979年世界遺産に登録されました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?