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【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part5【「第1章 基礎原理」p15 28行〜p20 8行】

本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第1章の基礎原理 p15 28行〜 に入っていきます。


第1章 基礎原理 (p15 28行〜)

今回の三行まとめは以下のとおりです

・「特別に作られた固定された発声器官」があるのではなく、様々な役割を兼ねている器官や筋肉たちが、歌う時に「歌う楽器=発声器官」を作り上げるのだということ。

・「話すこと」は知性的な行為、「歌うこと」は感情的な行為で、別物であるということ。

・ただし、「音楽」は知性的な行為であるため、感情的な行為の「歌うこと」とは対立すること。

前回は17番まで番号づけしておりますので、今回は18番から始めていきます。


18.科学的に「特別に作られた発声器官は無い」ということ。(p16_1行〜p17_14行)  

最初に前回最後のおさらいです。
今回は第1章区分5に入っていくわけですが、こちらは「ここまでに述べてきた「声の訓練の基礎」に対して、質問が出そうな内容、用語についてもっと明確に述べていく」といった内容です。

そしてこの冒頭で述べられている内容は、初学者の方にはびっくりすることかもしれない、とフースラーも述べています。

これまで散々「発声器官」という言葉が用いられてきましたが、ここでフースラーが述べているのは、簡単に言ってしまえば「発声専用の器官という固定されたものは存在しない」ということです。

「呼吸器」「喉頭」および「喉頭を吊り下げている筋肉の組み合わせ」は、いろいろな目的で役に立っており、目的に応じて色々異なった気候に結合する。
ということが3〜5行目に述べてあります。
すなわち、「発声専用の器官という固定されたものは存在しなくて、呼吸や嚥下、咳、くしゃみ、etc…いろいろな機能を行う筋肉たちが、発声する時に「一時的に発声器官を作り上げる」のだ、ということがここで述べている肝要な部分です。

そして「声を作るのに役立つ器官は、初めから音声以外の生理機能を持っている」「発声は二次的な機能的適応であって、発声のためにあらかじめ用意されたのでない器官に、多少とも突然に無理強いさせられたものである」という主張には注意が必要といった旨の内容が述べられています。

これは、ここで述べられている「初め」が「人類がまだ地球上に現れる以前ということを意味しており」これに意味はないと述べています。
云々述べておりますが、結論としては、今現在話題としているのは「現在の安定している人間」だからということです。(p17 3行まで)

フースラーの主張は一貫して、「人間は生まれつき歌手である」ここにあり、
ここでも
’声を出す機構が、もって生まれた仕組みによって、考えることなしに組み立てられうるという事実は、前記の他の数々の機能性過程を果たしているそれぞれの機構と同じく、まさに生得のものであるということを意味するだけである’
と述べています。
この周辺は少しわかりづらい文が多く続きますが、意訳すると

①「声を出す機構が持って生まれたものだ」というのは、事実だ。

②それはこれまでに述べてきた様々な人間の動き=機能(嚥下やくしゃみ、あるいはさらに戻って赤ちゃんの生まれてすぐの泣き声)が、様々な筋肉が共同で、必要に応じて「器官」を作り上げることからも明白だ。

③そして、「自然歌手」=「一度も習わずに歌える人」という存在がいることもこの事実を証明している。

④以上のことから歌うことは自然の設計したものなのだ。

といった内容です。

おそらく読まれている方は④の部分でつまづくと思われます。
邦訳版の「もし歌うことが、自然の設計したものの中のひとつでないとすれば、明らかな不可能性しかないはずだ。」といった文です。

これについては解説版がわかりやすい表現を用いているので、説明させていただきます。

例えとして「歩くこと」は自然が設計した機能です。
人間が命令されずとも歩くことを覚えることからもそれは明白と言えるでしょう。
つまり人間は「歩くように作られている」ということになり、最初からそのように自然が設計しているということは「生理的なもの」です。

そして、「生理的なもの」だからこそ、
「歩く」という機能を正しく使えていれば、「生理的に正しい」といえますし、
「歩く」という機能を正しく使えていなければ、「生理的に誤っている」といえます。
つまり生理的なもの、自然に設計された人間の機能=能力だからこそ、そこに「正しい」「誤っている」の概念が生まれるということです。

逆に考えてみましょう。
人間の「歩くこと」その能力がが自然が設計していないものだとしたら、それは不可能なことであるということが明らかです。

ここまでは例え話、これを先ほどの話に当てはめると、「歌うこと」が自然に設計されたものでないのであれば、不可能なことであるのが明らかでしょう?
これがフースラーが「明らかな不可能性」という表現を用いている所以です。

そしてp17_15行から23行までは別の段落になっていますがここの続きの内容が述べられています。
先ほどまで述べてきた部分の補足的な内容です。

・『発声器官全体にわたって、「ある種の確かなリズム」=(例えるなら歩行のようなリズム)が現れるならば、歌うことは自然に設計されたものだとわかるだろう。』

ある種の確かなリズム、が一体なんなのか難解ですが、
私たち人間にあらかじめ備わっている能力、例えば歩行、もっと無意識下に行われる運動で言うならば嚥下、呼吸などがありますが、こういった運動、能力は、すべて「専用の器官」だけではなく、その運動のために、他の運動も兼ねている筋肉たちが「パッ」とその一連の運動をリズミカルに行います。
(嚥下をする時に「喉のここを締めて食べ物を送って、次にここの部分を締めて送って…」なんて考えなくても、体は勝手に順番に筋肉を動かしてくれますよね。)
そういったリズムが発声する際にも起こっているということ、そしてそれが起こっているということは、前述の「歌うことは自然に設計されたもの」だという主張の裏付けとなるだろう、といった旨の内容がここで述べられています。

『バラバラに分かれている筋肉たちが一瞬で統合され、発声器官を作り上げる。
すなわち、バラバラだった筋肉たちが「あらかじめ定められていた形」=「発声器官」に変わり、根本的なまとまりをもって、歌声の美しさを作り出すのだ。』

先ほどのリズム、が理解できればあとは簡単です。
発声のために、他の運動も兼ねている様々な筋肉たちが共同で、まとまって、「発声」という運動の状態を作り上げる、それをまとめて発声器官と呼んでおり、そうやってまとまっているから歌声の美しさが生み出されるというのがここでの記述内容です。


19.「話すこと」は知性の創作物であり、考えることと同様に「知性的な行為」である。(p18_3行〜13行)

本文では少し飛びますが、そこはこれから述べる主張の前段です。
「話す時」と「歌う時」はいずれも「脳」を使っているが、どちらも同じ方法で関与しているというわけではないのだ、というのが飛んだ部分の主張です。
そしてそこからまずは「話す」時の話。

『科学は「考えることと話すことは全く同じ」(ヘルダー J.G.Herder)だと主張する。
これは知性の発達によって生まれた行為である。
発声器官は言葉の出現より遥か以前からすでに備わっていたことからも、発声器官は話すために備わっている能力ではない。
考えることが言葉の第一義的な本質の部分で、知性が発声器官を支配…いってしまえば横領し、「意図していないやりたくないサービス(努め)」を強要されているのだ。』

というのがこの部分でのフースラーの主張です。
では一方歌うことはどうでしょうか?


20.歌うことは本源的に感情の流出であり、「本能的な行為」なのである。(p18_14〜25行)

先ほどの「話すこと」が「知性的な行為」であったのに対して、
「歌うこと」、歌うことそれ自体は本来本源的に感情の流出、感情的衝動だというのがフースラーの主張です。
私の読解として、知性的な行為との対比で本能的な行為と表現しています。

もし感情的な衝動がまったくなければ、先ほど述べた「筋肉が共同して発声器官を作り上げる」というところもうまくいかないというのが、ここでフースラーが述べている内容です。


21.ただし、本能的な「歌うこと」と、音楽における「歌うこと」は「別物」である。(p18_26〜p19_7)

そしてここで出てきます、おそらくフースラーメソッドの初学者の方にとってややこしい部分です。

まず「歌うこと」は感情的で本能的な行為です。
歌声自体は、音楽用に使われるまでは音楽とはなんの関係もありません、というのがフースラーの主張。
続けて、「この説に不賛成の人でも、鳥は歌うけれども音楽は作らないと言う事実は考慮しなければならない」と述べています。
ここまでのフースラーの主張を読んでくれば、この説については比較的理解しやすいかと思います。
鳥の鳴き声、声、さえずりは「歌声」とよく比喩されるように、人間にとっては鳥の声は「歌っている」と受け取れるものなのです。
しかし鳥は音楽を作っているか?と聞かれればみなさん「No」と答えると思います。

では音楽とは?となります、それが次へ続いていきます。

一方、音楽、音符の音楽的配列は、言葉と同様に知性的な行為であり、音感覚と音楽性は根本的に別のものだ。
これがこの段落でフースラーが主張したいことと読み取れる内容の肝と言えます。
そして「少し誇張をくわえる」としつつも
「本当の歌う感覚は、少なくとも和声的要素においては、音楽と対立することができる。」
と、「本能的な人間の歌」と「音楽における歌」は全く別物、対立すらすると述べています。

私はこの点を、第1章基礎原理の中でも特に重要と考えています。
フースラーメソッド初学者の方にとってはパラダイムシフトが起こるポイントと言えます。

・歌うことは本能的なこと。

・人間は歌う属性を持っている。

・人間は生まれつき歌手である。

・がしかし、「歌うこと」は、「音楽において歌うこと」と本質的には別物。

神経支配が悪かった発声器官が活力を取り戻し、柔軟さ俊敏さ機敏さを備えた本来の「歌う能力」すなわち発声器官を解放する。
これが人間という歌う楽器ができる過程を指していると私はフースラーの述べている内容から考えております。
そしてその楽器を用いて「音楽を歌うこと」は、知性的な行為であり、混同しないようにしなければならないと考えられます。

そしてこの区分5の記述は「要約」で締まります。


22.区分5(本投稿の範囲の)要約(p19_8〜p29_15)

ある意味本投稿がすでに要約であり、特に目次を見ていただければそれが要約ともいえるのですが…ここでフースラーはこの区分5の要約を述べます。
箇条書きで述べていき、補足が必要と考えられる部分は補足を入れていきます。

①発声器官とされているものは、様々な用途のある多くの器官、筋組織が組み合わさることで出来上がる。

②発声器官としての体の使い方は、嚥下や呼吸などの自然なものと同様、その中のひとつであって、しゃべるための道具としての使い方のように「後から付け加わった負担」とは違う。

③歌うこと(感情的、情緒的)としゃべること(知性的)、音楽を作ること(知的)は同義ではない。しゃべることにおいても、簡単な歌であっても、声は知的な支配の元で従事させられている。
→ここの最後、従事ではなく邦訳版ではサービスとなっていますが、ニュアンスとしては強制的に働かせられているような文脈となっているので、従事と、解説版と同様の日本語を用いました。

ここまではこれまでの要約としてわかりやすいです。
ここから先は難解で、生物学、ダーウィンの進化論や哲学のような話が続きます。
邦訳では一体となっていますが本ブログでは別項目とします。


23.専門家(音声専門医など)たちは「歌う器官」をダーウィンの進化論を用いて科学的に説明した気になっている。(p19_16〜25)

ここはフースラーが何を言いたいのか難しいポイントです。
解説版の考察がわかりやすいので、少し日本語を簡単にしつつ説明します。

音声専門家たちはダーウィンの自然選択説を用いて、ややこしい発声現象について科学的に説明したつもりになっている。
その態度はまるで、「原子説で物質の成り立ちを説明しようとしたデモクリトス」が「自分は鳥から歌を習った」という態度のように、論理の明解さを追求するあまり「物事の真の意味」を見出していない。

というものです。
少なくとも私の読解力では苦労する表現です。

この記述から考察できるのは

・デモクリトスは原子説で「物質の成り立ち」を明解に説明した。
・しかし一方で「鳥から歌を習った」と思っていた。

原子で物質が成り立っているという説明は物質世界を説明するのに確かに明解な表現です。
その実際の内容は難しくとも、目に見えない小さな原子が集まってできているのが物質なのだ、というのは1+1=2である、のような単純な説明といえます。

これに対し、「鳥から歌を習った」というのは「人が歌う能力を有している」ことに対する説明に全くなっていない。
それと同じようにダーウィンの自然選択説を用いたところで、人が歌うことの説明ができていないだろう、というのがここでフースラーが述べたいことだと考えられます。

ではフースラーは人が歌うことをどう考えているのか?それは次の項目になります。


24.今わからないからといって「ただの自然の気まぐれだ」と決めつけるのではなく、「歌声」の真に意味を未だ見出していないと考えるべきではないか(p19_26〜p20_2)

偶然説であれ自然選択説であれ、人に「歌う」という属性が備わっている以上、「何かしらの理由があるはず」。
自然界には説明不可能なものも多くあるが、必ず論理的なものに落ち着く必然性を内包している。
現時点でわからないだけでそこに意味をまだ見出していないのだと考えるべき。

というのがここのフースラーの記述を解説版が読み解いた内容になります。

そしてフースラーはここで、
歌うという機能は複雑で精妙で理詰めさを持ち合わせている。
なのにもっぱら「美」を作り出すために歌声を作り上げる。
これは物質主義の信条に対して、比較考慮するための「肉体的なシンボル」とみなしても良いと思う。
といった言葉でこの話題を締めくくります。

この23、24の一連の話題については当時の音声専門家たちに対するフースラーのアンチテーゼと取れる内容です。

私の中でのここの理解としては、
「物質主義のように排他的であってはいけない」
「意味がないと思うものならまだ意味を見出せていないだけかもしれないよ?」
「決めつけるのはよくないのでは?」
といったことを主張しているのだと考えています。

25.それはとにかくとしても目の前には「生徒の持つ楽器(=発声器官)があり、それは何かしら抑制されてしまっているのだ。
発声訓練教師は、その「楽器(=発声器官)」をあらためて作り出すにはどうしたらよいかを知らなければならない。

それた話から戻るように、目の前の生徒の発声器官と向き合い、その生徒の中にある「本来の能力を使えていないだけの素晴らしい楽器=発声器官」を、
どうしたら解放できるかを知らなければならない。

これで第1章 基礎原理は終わりとなります。


さて、第1章の基礎原理では多くのフースラーにとっての基礎とも原則とも、世界観ともルールとも哲学とも言えるような原理が述べられてきました。

これらの考え方は人によって受け取り方が異なると思います。
「なんかよくわかんなかったな」
「考え方変わったわ」
などなど。

どういった感想を抱くにしろ、現代におけるフースラーメソッドの元となったフレデリックフースラーにとっての原理原則がこういった内容であって、まず「うたうこと」を知っていく上ではこれらの内容を頭の片隅に置いておく必要があります。

次回以降は第2章に入っていきます。

第1章を土台にしてどのようなことを述べていくのか、解説していきますので、次回の更新までお待ちください。

以上、よろしくお願いいたします。

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