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無のための描画まとめ

去年夏から始めて、意外に面白いんで断続的に続けている作業をまとめてみます。noteってこういう使い方もあるんだなー。

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ほんの思いつきで始めたのだが、まず写真を撮り、コントラストを思いっきり上げて白と黒をきっかり分ける。そすと黒が固まってぺたーんとする。それをペイントかなんかで白く塗りつぶす。それをコンビニでプリントして、白く飛ばした部分を今度はわざわざボールペンで塗りつぶしていく。暇だったからとしか言いようがない。

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しかし、これからは自分のお作品を自分で解説する能力が必要だ、あるいは自分のお作品にコンセプトを持たないのはただの怠慢だという意見もそれなりに受け止めてはいるんですが、じゃたとえばこれは幼少期の閉鎖的な家の雰囲気を再現したものです、とか言ったら信じられてしまうんだろうか。恐ろしいのは、作った本人が言ったことで真実となって、もはやそういうものとしか見てもらえなくなることだ。それは私があなたから想像力を奪うことに他ならないし、私は見る人それぞれに好き勝手考えてほしいのだ。としかし、焦ってそう言うのはやはり筋の通った理屈を持っていないからであり、それをごまかそうとしているだけとも言える。……

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あるいは……光が強まるほど影も強まるものだ。白い壁に友人の影が伸びて、何倍もの大きさで彼を見つめていた。"闇の中は 居心地がいいけど───醜いものが 見えないだけだ"……と誰かが歌っていたように、そこに何か、平たく塗った黒だけでは表せない何かが渦巻いているのを感じたのだ。だからこうして取り組んでみたのだ。と言ってみると、なんだか意味のあることをしているようで悪くないですね。

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まじめに、強いて言うなら「何もない感じ」を表すにはちょうどいいんだろうなとは思う。「何もない」のを黒一面で表すより粋、粋というのか分からないけど、面白いじゃないかとは思う。霧のような、煙のような……それも実際は線を引くという行為でしかないものが、意図しない形で浮き上がってくるのが当人としても「無私」に近づけるような気がして心地よいのだ。持っていてつらい、投げ出してしまいたい自己顕示欲を、イヤミでない形で解消してくれるのだ。

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じっさい、諸行無常や般若心経など仏教についての講義を流しながら描くことは多い。もっと言うと「描」くというより、写経なんかを書いてるのと心持ちは少しも変わらない。仏教の教えと、俺の表そうとするものがリンクしてくるように感じられてくるのだ。十牛図なんかを初めて見たときは8つ目の空白にぶったまげるあまり意味もなく屋上に出て座禅を組むなどしてみたが、ああいうものに俺は感動してしまうのだ。ちまきに恨みはないのだが、ちまきってあれ誰が食うんですか?ちまき。ちまき知ってます?考えてみると同世代にも知らない人がいておかしくないと思うんですよね。「もち米やうるち米、米粉などで作った餅などを三角形に作り、ササなどの葉で包み、イグサなどで縛った食品」と書いてはあるんですが、考えてみるとちまきというものが現代まで生き残ってきたこと自体がなかなかの奇跡だと思いまして、というのはちまきって家で食べないじゃないですか。かといって外に食べに行くものでも絶対にないじゃないですか。おせちのように定期的に思い出されることもなければ───おせちもそのうち原型を留めなくなるんでしょうが───人からお土産で貰うようなものでもない。百歩譲ってとんだ好事家が家でちまきを作ろうとしたところで、わざわざ何の葉っぱか知らないが、笹ですか、取ってこないかんのですよ。運良く笹の葉をとって作り上げたところで、何よりあれってそんなにおいしいですか?自分はおそらく、産まれてこのかたまともなちまきを食ったことがありません。それもフカヒレを食ったことが無いのとは訳が違いますからね。で、特別でもないから食べたところで多分覚えてないし、「誰か知らないけどなんかずっといる町内会のしゃべらない人」みたいな感じ……絶妙な無名度のままかいくぐってきてんなぁという、逆に褒めてあげたい気分です。下書き供養のコーナーでした。

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