なんとなくのススメ。
「なんとなく」を大事にしたい。
宣言のようで、願いにも似たような想いです。
日々の些細なことやものに、「あっ、なんか気になる」ってことに、心を向けたいのです。素直に。
教育に関心を持ち続けてきました。高校生くらいから、でしょうか。大学卒業後も教育関係の仕事をして、教員に転職して、今もなお教育のことを考えて、動いています。
教育は、強く「誰かのため」の力が働きます。こどものための教育、大人のための、新入社員のための、未来のための。。。これがモチベーションになることが多いので、例え自分がヘトヘトになっても、最後の最後の「誰かのため」が本当に叶えば、その全部が報われたと感じられます。
いや、それは教育に限らず、仕事というのは、そういうものなのでしょうか。
30代、それをとにかく沢山やってきました。楽しいし、面白いし、やりがいもあります。嬉しいことに、繋がりも増えて、お声かけしてもらうことも多くなりました。でも、このままどんどん掛け算的に広がったり、どんどんスケールが大きくなるのはどうも難しい局面になってきました。
不惑の40を間近に控え、疾走するような自分のワークスタイルに、「待った」をかけようとしています。教育に関心がなくなったわけではありません。付き合い方を再構成する時なのかもしれません。
「誰かのため」ももちろん大事にしたいけど、「自分のため」ももっと大事にしていいんじゃないか。「誰かのため」にがんばって、満足感を得ることが「自分のため」でもあるので、切り離したり、二項対立させるわけではなく、少し違う意識で「自分のため」に心を向かわせたいのです。
ここで思い切り「自分のため」に向かいすぎると、「人生とは」「幸福とは」「好きとは」とか、深い自己分析みたいなことになってしまいます。それが望みではありません。
(そういうの嫌いじゃないので、ライトに普段から自己対話してる気もします。)
そこで、「なんとなく」の登場です。
「なんとなく」を理由にしていいじゃないか。何となく気になる。何となく思う。理由なんて分からない。キュッと心を呼んでる何かに、素直に応えたい。
「なんとなく」では生きづらい世界でした。ちゃんとしないといけない。理由はなに?論理的に、客観的に、言葉を使って伝えて、それでちゃんとしてきました。ん。ちゃんとするってなんだろう。ちゃんとする、ってなんだったんだろう。
「なんとなく」が悪い方に作用すれば「自分勝手」なのでしょう。意識的に「なんとなく」を探す意識的無意識みたいなものは「ありのまま」のような言葉になりそう。「わがまま」って言葉もありますね。「なんとなく」も深く考えると難しい。
でもそんなのいいんです。「なんとなく」ですから。そういえば、ドラゴンボールに「身勝手な極意」なんていう技があるとか。やっぱりそういう方向なのです、きっと。
「なんとなくの極意」を探していきたいのです。
日々の些細なことやものに、「あっ、なんか気になる」ってことに、素直に立ち止まれて、心を向けられる。その精度や深度を上げていく。
なんとなく嫌なものは嫌なんです。そういうのはそっとどかして、自分の心が向かう方に行く。
例えそれが「学校」や「教育」とは違う方向だったとしても。
その練習がInstagramで公開してる観察スケッチなのだろうと思っています。
https://www.instagram.com/tottorie/
今は散歩と観察が気になります。これに素直に寄り添ってみよう。
「なんとなく」を大事にしたい。
宣言のようで、願いにも似た想いです。