ポップな仇討ちはつづくよ。
noteをはじめて今日でちょうど1年になる。
最初に書いたnoteのテーマを「ポップな仇討ち」だった。
ぼくには、どうしても助けたかったけど助けることができなかった大切なひとが何人かいる。
ちなみにきょうはそのうちひとりの誕生日ね。
今でもそのひとたちのことを心のどこかにおもいながら、世の中に「ポップな仇討ち」をしかけていきたいとおもうようになった。
ぼくらが世の中にポップに仇討ちをするに至るきっかけになった存在がいるのね。仮に、Kくんとしようか。
1年たった今日もまた、Kの誕生日なので、すこし彼のはなしをしようかとおもう。
「ゆうすけさんと話すと安心します」
「ゆうさんは、なんか安心感がありますね」
最近、そういってくれるひとがいる。とてもありがたいとおもう。
ひとに安心を与えられる存在になりたいとおもって積み重ねてきたものがあるから、そう言われてすごく嬉しい。
反面、ちょっと可笑しくなってしまう。
「どの面下げて」感がまだ拭えないのだ。
昔のぼくを知るひとがいたら同意してくれるとおもうけど、たぶん大学生くらいまでは、「安心・安全」とは真逆の人間だったのね。
「人気者」であることに固執した、派手好きでワガママなナルシスト。
人間理解力や想像力が全く足りない、なかなかに残念なやつだった。
一方で、ぼくととても近い存在だったKは、みんなから一歩引いて、優しく微笑んで、サポートするタイプ。
適度にじぶんに甘く、他人にもっと甘い。
決してひとを傷つけまいとする、繊細な優しさの持ち主で、まさに「安心」そのものだった。
今でも、ぼくの「安心」なんて、Kの足元にも及んでないとおもう。
それでも、ぼくに安心を感じてくれるひとがいたとしたら、それがKが持っていたものが、ぼくインストールされているのかもしれない。
そう考えると胸熱なので、そう考えるようにしているんだ。
RPGで、仲間と死別するとき、そいつの能力が受け継がれる胸熱展開あるよね。あんな感じだ。(例:バランの双龍紋、セーニャの賢者化)
「Kの能力が、じぶんに宿っている」
これが、ぼくなりに喪失につけた意味だ。
Kの喪失の影響を受けて、じぶんはこう変わった。
じぶんなりの納得を得るために、見出したストーリーだ。
年末に命懸けの関わりをした子と、濃すぎた一年を振り返る会をしたのね。
それはそれで、ここに書ききれないほどの想いがあるのだけど、ただ、何よりも嬉しいのが、その子が生きていること。
それ以上に素晴らしいことはないよね。
「命は連鎖するもの」
それを、最近とても強く感じている。
きっと、Kの喪失がなければ、彼女に関わりきることはできなかっただろう。
そして、彼女に関わりきることがなければ、彼女がぼくにもたらしてくれた学びや成長は無く、いまのじぶんで生きていられてはいない。
そうなると、いま向き合っている子たちの命にも、力が足りなくて、関わりきれていないだろうな。
Kが、いまぼくが大切でたまらないとおもえる存在に巡り合わせてくれたとしかおもえない。
そういう、「命のリレー」みたいなものを感じている。
最近ディープめなやり取りが多いから、もしかしたら、Kが生きてた頃よりも豊かになってるかもしれないとというと、怒られるかもしれないけど(笑)
毎年、Kの命日と誕生日には、ぼくとKの共通の親友である盟友Iくんと、Kが好きだったラーメンを食べたり、Kの好きだったカルピスの酒で乾杯したりしている。
Kが亡くなったとき、Kの最後の姿を見届けたあと
「ぼくらは二人で、三人分幸せになってやろう」と誓った。
あれからもう十年以上が経ち、もう平成も終わろうとしているんだなあ。
それなりに起伏に恵まれた人生ではあるけど、「二人で三人分以上の幸せ」は、量的には十分確保できているのかもしれないな。
喪ったことで得たものがあり、それを活かして、別の命にかかわっていく。
大きな生命のネットワークにうすく参画しつつ、自らを豊かにしてくれるような "濃い命のつながり" をつくり、自らの物語の糧にしていく。
無理せずに、ゆるく。
でも、わりと命をかけて。
ポップな仇討ちは、まだまだ続くよ。
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