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【歴史探訪】牛窓神社の勧請元 宇佐八幡宮と石清水八幡宮 和気清麻呂・広虫とのつながり

 日頃参拝客の絶えない牛窓神社。大晦日から三が日は氏子が次々とお参りします。岡山県神社庁のHPによると「土地の神霊及び祖先の神霊をまつっており、牛窓明神と呼ばれていたが、長和年間、教円大徳によって豊前(大分県)の宇佐八幡宮から応神天皇・神功皇后・武内宿禰命・比賣大神の御神霊をお迎えして牛窓八幡宮となり、明治6年郷社に列せられ牛窓神社と改称した。」とあります。「明神」の最も古いとされる記録は731年に『住吉大社神代記』に記されたもので、仏教的な神様のこと。さらに遡ると「大神」という呼び名もあったそうですので、(記録にはない)「大神」→「明神」→長和年間「八幡宮」→明治6年「神社」へと変わっていったようです。

牛窓神社の神主さんメッセージから、びんびんと“気”が伝わってきます

 まず時代考証からとりかかりましょう。
 長和年間は1012年から1017年です。少し遡って、986年に花山天皇が19歳で突然出家。7歳の一条天皇が即位し、長い治世ののち1011年に崩御。それを受け、一条天皇より4歳年上の三条天皇が即位。さらに1016年には三条天皇が後一条天皇に譲位しました。いわゆる摂関政治の真っただ中、摂関家の思惑で大きく生活が変わってしまうのは、皇統にある貴人はもちろん、貴族もです。余談ですが、のちに一条天皇の中宮定子に仕える清少納言は、974年、父・元輔の周防(山口)守赴任時に船で同行して、少女時代4年を鄙で過ごしました。瀬戸内海を渡った記述が「枕草子」290段に「泊りたる所にて、舟ごとにともしたる火は、またいとをかしう見ゆ。」とあり、牛窓の港も、少女・清少納言の印象に残ったかもしれません。
 次に、人です。教円大徳は貴族伊勢守藤原孝忠の子、1038年59歳で28代天台座主になっています。1014年に藤原南家の出身慶円が24代天台座主に任ぜられて以来、この後貴族出身の座主が続くので、継ぐべきポストがない皇族・貴族のいわば「天下り先」のようですね。教円大徳は花山院とも仲良しだったようですが、いかんせん、長和年間の神社仏閣の記録が少ないのが残念なところ。宇佐八幡宮からの勧請が何に記録されていたのか、疑問は残ったままです。

 実はもう一つ、牛窓神社の勧請には保元年間石清水八幡宮からの説もあります。牛窓神社と石清水の関係の記録は……ありました。保元の乱の直後、保元3年(1158年)の記録に石清水八幡宮の所領の中に「牛窓別宮」が見られます。保元年間は1156年から1159年。1156年保元元年には前の崇徳天皇が権力抗争によって、讃岐に流罪になりました。天皇だったほどの貴人が流刑になる前例は、その400年も前で、出家すれば許された時代でしたが、保元の頃は上皇になり出家しながらも院政を行って権力を手放していない人が何人もいましたので、「出家をするから許して」は通用しなかったのです。崇徳さんは数人の女人を伴って、粗末な網代車で都を追われ、讃岐に流されました。『風雅和歌集』にある崇徳上皇の歌
  狩衣 袖の涙に 宿る夜は 月も旅寝の 心ちこそすれ
  浜ちどり 跡は都へ かよへども 身は松山に 音のみぞなく

もの哀しい歌ですね。少女清少納言の記したものと比べると、やはり悲哀の深さがひしひしと伝わってきます。
 この崇徳さん、菅原道真、平将門と並んで「日本三大怨霊」と言われています。3歳で即位、18歳で退位させられ、天皇時代も上皇時代も実権を持ったことなどありません。それどころか、父鳥羽さんからは“叔父子”(鳥羽さんの父白河さんと、鳥羽さんの中宮璋子との密通の子)と疑われていたという説もあり、誰もの心の中に崇徳さんへの同情があり、世情が不安になると「崇徳さんを手厚く祀らねば」という雰囲気に包まれるのかもしれません。

 さて、牛窓八幡宮を勧請したという宇佐八幡宮(大分県)と石清水八幡宮(京都府)ですが、どちらも「日本三大八幡宮」です。(※ちなみに、日本三大八幡宮はもう2つあるそうですが、3つ目は場合によって変わるようです。)前述のとおり、宇佐八幡宮の方が古く、全国4万4千社ある八幡宮の総本社ですので、辿れば結局本家本元は「宇佐八幡宮」です。この宇佐八幡宮は、奈良時代に道鏡事件で和気広虫(姉)の代わりに和気清麻呂(弟)が宇佐神宮に神託を確かめに行って皇統を守ったという歴史的神社です。独身女性の称徳天皇は「わらわの病気を平癒して以来、僧道鏡を誰よりも信頼をしているけど、さすがに皇位につけるのは……すんなりとはいかないわね。そうだ!宇佐で確認してもう一回そういう結果ならいいんじゃない?広虫、あなた行きなさい、え?体が弱いから、弟を行かせる?まあ、いいわ。すぐよ!すぐ清麻呂を行かせなさい!!」道鏡から清麻呂には「良き託宣を持って帰った暁には、貴殿に素晴らしい地位を約束しますよ」という甘言というか脅し。つまり宇佐八幡宮とは、歴史上最高にやっかいなミッションを姉と弟が背負わされ確かめに行った先なのです。清麻呂は急かされて都から九州に行き、足を患ってしまう、それをイノシシが助けてくれたなどの言い伝え(だから和気神社には駒猪がいる)もあるのですが、なんでわざわざ宇佐なの?九州?遠いでしょ?いえいえ、宇佐は当時の第一級の神社。大事な神託ですからね。宇佐じゃないとだめなんですって。(結果はご存じの通り、道鏡は天皇にはなれませんでした。そして姉と弟は名前も侮辱的なものに替えられ、流罪になりました…しかし、のちに名誉回復していますので、ご安心ください。)

和気神社の駒猪は着物を着せてもらっていました

 では石清水八幡宮はというと、859年に都での八幡信仰の拠点として宇佐八幡宮より勧請されました。都の裏鬼門にあたる南西に位置し、もともとこの場所には清麻呂の墓もあったといわれる、和気氏の氏寺「神願寺」ではないかなどの説もあるようです。またしても、和気氏……というか、逆に和気氏の氏寺だからこそ、ここに八幡宮を作ろうとなったのでしょう。

 それからおよそ300年。1135年には平忠盛が海賊を捕まえた!と都に凱旋するほど、瀬戸内海は無法地帯に近く、その後、平氏も源頼朝に追い詰められ、勝利に乗じた頼朝軍が瀬戸内海のあちこちで狼藉を行っていましたが、1185年正月の書簡に頼朝は「牛窓別宮は石清水八幡宮の所領として保障する」という意味あいのことを書き記しています。牛窓神社は東向きの宿井の浜(神の居場所を宿院ということからつけられた名前とか)のすぐそばから階段を上ります。砂浜の南は前島との間に渦潮が巻く難所、超えればにぎやかな港町です。南風が強いときは、北に回って錦海湾に。そもそも社殿は364段の階段の上、海からわらわらと登ることなんてできません。海賊対策には最高の場所であり、あの源頼朝にも一目置かれた存在だったのです。

宿井の浜には東風が寄せる

 長い目で見れば、天平時代に和気(藤野)の土豪の娘和気広虫が幼くして吉井川を下って瀬戸内海を渡り、都に上がって女官となり、弟清麻呂とともに誠実に仕え、一時は逆境にあっても信を曲げずに仕事にあたった、その和気氏の氏寺に、因縁の深い宇佐八幡宮から石清水に八幡宮が勧請され、直接か間接かは不明ながら、さらに牛窓明神にも八幡宮を勧請されて、牛窓八幡宮となり、石清水の領地となり保護もされた…時代は超えつつも、場所としては近くお隣さんと言ってもいいほどの和気氏の恩恵を牛窓の我々が今も享受しているのではないか……と思われるのです。

 ついでに清少納言の乗った船のことをもう少し。「わが乗りたるは、きよげに造り、妻戸(つまど)あけ、格子上げなどして、さ水とひとしうをりげになどあらねば、ただ家の小さきにてあり。異船(ことふね)を見やるこそ、いみじけれ。遠きはまことに笹の葉を作りて、うち散らしたるにこそいと能う似たれ。(中略)はし舟とつけて、いみじう小さきに乗りて漕ぎありく早朝(つとめて)など、いとあはれなり。」 貴族なので、家のような立派な船に乗っていたようですね。朝早くから「はし船」という小さな船は何かしら載せてあちこちに向かっていたようです。そうそう、石清水八幡宮と言えば枕草子124段に「八幡の行幸の還らせ給ふに、女院の御桟敷のあなたに御輿とどめて、御消息申させ給ひしなど、いみじくめでたく、さばかりの御有様にてかしこまり申させ給ふが、世に知らずいみじきに、まことにこぼるばかり、化粧じたる顔、皆あらはれて、いかに見苦しからむ。」とあります。帝の素晴らしさに感動して、涙がこぼれ落ちて、化粧が全部落ちて、あたしって、すっごく見苦しかっただろうな~と書いてます。昔も今も、女心は変わらないですね。

参考文献:牛窓町史、人物叢書『和気清麻呂』、『慈愛の人 和気広虫』、『枕草子』」(岩波文庫)
参考HP:岡山県神社庁、ノートルダム清心女子大学
監修:金谷芳寛、村上岳
イラスト:ダ鳥獣戯画
文と写真:田村美紀

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