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黒山羊の家の紡ぎ歌 8/8

第8章 大かがり火 


…今日は大かがり火だ!
興奮したささやきが、あちらからこちらへと伝わっていった。
…今日は大かがり火だぞ!
ささやきが繰り返されて、隅々まで広がっていった。
<黒山羊の家>では年に一度、春の訪れを祈って大かがり火が焚かれる。
家の外に要らなくなったものを積み上げて燃やし、ついでに家の中も掃除して、一年の汚れを落とすのだ。

その日は朝から、家じゅうがゴトゴト、バタバタ、慌ただしく活気に溢れた。
グレゴールもせっせと働き、壊れた家具を運び出し、天井のクモの巣を払い、床の埃を掃き清めたりした。
夕方近くになると、運び出されたがらくたが雪の上にうずたかく組み上げられた。
グレゴールの部屋の窓からそのようすが見えたが、ふと彼は
「…ん?」
と違和感を覚えた。
少し家に近すぎる気がする。
…だが、昔から毎年行われている習わしだ。自分がとやかく言うようなことではないだろう。
そのうちに、がらくたの山のまわりにテーブルや椅子が出され、料理が運ばれ、人々が集まってきた。
うきうきとした祭りの空気。
日が暮れるとテーブルにランプが灯された。

薪の山に火がつけられるのに、グレゴールはちょうど間に合った。
明るい炎の舌が山の底を舐め出したかと思うと、やがて勢いよく燃え上がった。
みんなはかがり火のまわりに集まってがやがや語らい、飲み食いし、楽しくやっている。
クラッシェルの小さな姿もあった。
テーブルには、ストーブの間から運ばれてきた葡萄酒、肉の串焼きやエンドウ豆のスープ、焼きジャガイモといったふだんの食事のほか、<金の雄鶏亭>の人たちのテーブルも出ていた。例によって、見た目では何だか分からない、さまざまなエキゾチックなメニューが並んでいる。
エドモンドの大きなマント姿もあった。彼は人々の間をまわって、あれこれに目を配っている。

グレゴールは、ゲオルクの姿を見つけると、その隣に腰を下ろした。
「やあ」
ゲオルクは彼を認めると、黙って頷いた。
盃を飲み干すと、
「宴もたけなわ、だな」
人々は今やかがり火のまわりで歌い、踊っていた。
その姿が影絵のように炎に浮かび上がり、その影は長く雪の上に伸びて、人々と一緒に跳ね回っている。
風が出てきて、かがり火の炎も一緒になって踊っているように見える。
炎はほとんど家の屋根に届きそうなくらいまで、高々と燃え盛っていた。

「ちょっと火が近すぎると思わないか」
グレゴールはやはり気になってきて言った。
「実は俺も気がかりなんだ」
ゲオルクは同意した。
「何もなければいいが…」
そのとき、ふいにレマの姿が目に入って、グレゴールは口をつぐんだ。
なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。
彼女は、あの背の高い石の椅子に座ったまま、鎖で幾重にも縛りつけられていたのだ。
その顔はいつにもまして青白く、こわばっていて、その瞳は踊り狂う炎をまっすぐに見つめていた。
「おい」
グレゴールはゲオルクをつついた。
「あれ───あそこ」
そっと向こうを指し示した。
「あれは何だい?」
「ああ、あれか」
ゲオルクはためらいがちに口を開いた。
「前に一度、ちょっとした騒ぎがあってね。
もうずいぶん昔のことになるが、ここでこうしてやはりかがり火を焚いていたときのことだ。
あいつ、突然走ってきて、火の中に飛びこんだんだ。もう少しで焼け死ぬところだった。みんなで引っぱり出したんだが、まるで鉄みたいにすごい力だった。泣きもしなければ、叫びもしない。ただ、ひどく辛そうでね」
「なぜ、そんなことが…」
「それ以来、かがり火の日にはあの女を外へ出さないようにしようとなったんだが、クラッシェルが反対してね。ひとりだけ閉じこめておくのは可哀そうだと言い張るんで、苦肉の策で、ああいうことになってる」
「そうだったのか…」

かがり火のまわりでは、次々と色んな歌が歌われた。
どれもグレゴールの知らない歌ばかりだった。この地方に伝わるものなのだろう。
と、ふいにグレゴールは耳をそばだてた。
「これは聞いたことがある…」
どこで聞いたのか思い出そうとした。
…あっ、これはレマがショウのときに弾いていたメロディーだ。
そのあとクラッシェルが歌ってくれたやつだ…

ときが来た 炎の乙女
身を起こせ 光を放て…

「紡ぎ歌だな」
ゲオルクが言った。
「あれは、どういう意味なんだい?」
「ああ、あれは…」

そのときだった。突然ごうっと火柱が上がり、その場が明るく照らされたかと思うと、一瞬ののち、どよめきと悲鳴が上がった。
彼らが振り返って目を上げると、すでに屋根の三分の一ほどが炎に包まれていた。
積み上げた薪を最後まで燃やそうと、弱まってきた炎に誰かが灯油を注いだようだ。折しも吹きつけた突風に乗って、あっというまに建物に燃え移ったのだった。
「早く! 火をとめろ!」
人々は口々に叫んで、駆け出した。
ゲオルクは椅子を蹴倒して、立ち上がった。
「井戸の水だ! 汲めるだけ汲むんだ!」
と怒鳴った。
それから、
「犬たち!」
と叫ぶと、犬舎に向かって走り出した。

グレゴールは家へ駆け寄り、どんどん燃え広がっていく様を呆然と見守った。混乱しながらも、必死に何か考えようとした。
気がつくと、エドモンドが傍らに立っていた。
「あの、クグノーに消防隊を頼めませんか! 電話は!」
主人は腕組みをして、しばらく眺めていたが、やがて静かに言った。
「…どっちにしろ無理でしょう、残念ですが」
「そんな…!」
「この回りの速さでは無理だ。この家はほぼ完全な木造建築です。火にかかってはひとたまりもない」
「…!」
グレゴールは言葉を失った。
「幸いいま、この家の住人たちはみな外へ出ている。犬たちはゲオルクが放しに行ったし、ほかの生き物たちはなんとか自力で逃げられるでしょう」
主人のマントのポケットがもぞもぞと動いて、ブリュイックが顔だけ覗かせた。
あの日と同じようにぶるぶる震えている。
主人は指でそっと触れた。
「大丈夫、大丈夫…お前は何も悪くないのだからね」

燃え盛る炎がまわるにつれ、<黒山羊の家>に住み着いていたものたちが次々と外へ飛び出してきた。
走るもの、飛ぶもの、這うもの、くねるもの…
最初の日に見かけたアルマジロもいた。
クラッシェルが世話していた水槽の魚たちも、三々五々、煌めきながら夜空へ散っていった。
こんなものが住み着いていたのかと、驚くような変てこな生き物たちも。
雪の表面が炎の熱で溶けて流れ落ちるなか、みんなして慌てふためき、雪原の斜面を四方八方へ逃げ去っていった。

ふと、視界の端に激しい動きを感じて目を向けると、さっきまで微動だにせずにいたレマが、鎖の中で激しく身をよじり、もがいている。
人々の間を押し分けて、クラッシェルが駆け寄ってきた…レマに身を投げかけ、しっかりと抱きしめた。
それから椅子の背にまわると、しずかに鎖を解いたのだ。
レマが走り出したのと、グレゴールが叫んだのと、ほぼ同時だった。
「クラッシェル!…何をするんだ!…」
レマは走っていって、燃え盛る炎の中に飛び込んだ。
と、その瞬間、家全体が炎に包まれて、ごうっと燃え上がった。
「みんな下がって! 危ない!…」
エドモンドが叫んだ。

グレゴールは振り返って、主人の横顔を見た。
彼は炎のようすをじっと見つめていた。
その頬には涙が流れ落ちていたが、そのことにさえほとんど気づいていないように見えた。
やがて彼はグレゴールの方を向いて、微笑んだ。
「ご覧なさい、炎の乙女が、愛する者のもとへ発ちましたよ」
「えっ…!」
グレゴールが絶句するうちに、<黒山羊の家>の切妻屋根が火の粉を巻き上げ、音高く崩れ落ちた。
と、その中から突如、流れ星か、かがやく隕石のような光が現れた。
みんなが呆然と見守るなかで、それは燃えながら、輝きながら弧を描いて天駆けて、たちまち夜空の彼方へ、吸い込まれるように消えていった。

(終わり)


あとがき→


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