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黒山羊の家の紡ぎ歌 1/8


ときが来た 炎の乙女
身を起こせ 光を放て
愛する者のもとへ発て

第1章 旅人 

おそろしく古ぼけた、真っ黒い小さな汽車が、山あいの雪原をふうふうあえぎながら登ってきた。
あたりは見わたす限り、白山羊山脈のけわしい峰々が、ただどこまでも連なるばかり。
空ははがねのような薄灰色。
聞こえるものといえば、ゴットン・シュッシュ…というそのひびきだけ。

汽車の中はほとんど空っぽだった。
こんな山里に用のあるものは多くない───あらかた、どこかしらで降りてしまっている。
いちばんしっぽの車両の窓際に、グレゴールはひとり、うとうとと居眠りをしていた。

いま、汽車は急な土手を下って峡谷にさしかかる。
赤レンガ色の鉄橋が一本、向こうとこちらを繋いでいる。
渡りざま、汽車はみじかく汽笛を鳴らす…
グレゴールは薄目を開けて、外を眺めやる。と、心臓が───急にひやりとして、足の力がすうっと抜けてゆく…
雪も積もらぬ岩壁が、地球の中心に向かってほどんとまっすぐに切れ落ちていた。まるでこの世のものとは思われない。
───そう、他ではとっくの昔に滅んでしまった生き物が、どこかでひっそりと生き延びているとすれば、それはきっとこんなところででは。

それにしてもずいぶんと古そうな橋じゃないか。たった今、ここで崩れ落ちたら…
グレゴールはぞっとして身震いした。
しかし、幸いにそんなこともなく鉄橋を渡りきると、やがて小さな集落が見えてきた。
ほどなく汽車はふもとの駅に停まる。すすけたドアががたつきながら開き、グレゴールとその荷物をぽんと放り出す。

クグノー…。
ようやく読み取れる、古看板の文字。
屋根のないプラットフォーム。
しんかんとして、凍りついた雪の上には足跡ひとつない。
でも、ここでいいはずだった。
グレゴールはコートのポケットから一枚の紙きれを取り出して、確かめた。

駅舎に足を踏み入れると、分厚いガラス窓の向こうで、駅員がひとり、ストーブで手を焙っていた。
「あのう、すみません」
グレゴールはコツコツとガラスを叩いた。
「<黒山羊の家>っていうのは、どっちの方向でしょうか」
駅員は、ひどく大儀そうにのろのろと立ち上がって出てきた。
「ええっ」
明らかに怪訝な顔だった。
「黒山羊? お宅さん、そんなところに何の用があるの」
グレゴールは当惑した。
「電報を受け取ったんです。至急のようで…」
「やめといたほうがいいよ」
「え?」
「行かない方がいいよ、帰りなよ」
「いや、しかし…」
「いろいろと悪い噂があるんでな。次の汽車は、3時間後だよ。寒いから、中で待っていてもいいよ」
「はあ、どうも…」

当惑しながら駅を出ると、道に沿って低い石垣や柵がつづき、役場や教会らしき建物も見えていた。
このあたりが村の中心のはずだ。しかし、見渡しても、人が死に絶えてしまったようで、誰もいない。
しばらくうろうろと歩きまわって、ようやく、納屋の軒先で薪割りをしていたひとりの老人を見つけた。
彼は斧をもつ手をとめると、珍しいキノコでも見るような顔でグレゴールを眺めた。
「すみません、<黒山羊の家>というところを探しているのですが」
それを聞くと、老人の濃い灰色の眉の片方がゆっくりと吊り上がった。
「わしは知らんがね」
眉の吊り上がったほうの目で、グレゴールを探るように眺めまわした。
「あまり芳しい話は聞かんな。いろいろおかしなものが住み着いているそうじゃないか」
「ええ…?」
「わしなら近づかんが。どうしてもというなら」
追っ払うみたいな手つきで方向だけ示すと、それなり老人はもくもくと仕事に戻ってしまった。
「あ…ありがとう…」
当惑しながら、グレゴールは口の中でつぶやいた。

その道は村をひとり離れて、猫の背中みたいな起伏の向こうへのびていた。
雪がぜんぜん踏み固められていなくて、石垣が途切れ途切れにあるのでようやくそれと分かるほど。
まもなく村の家々は道の向こうに見えなくなった。
淋しくてひねくれた道だった。

しばらく進んだころ、唐突に、陶器でできたような小さな建物が現れた。ぽっつりと柔らかな灯りがともり、<カフェ・モア・モア>という看板が出ている。
扉を押して入ると、カランコロンと銅色のベルが音を立てた。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
グレゴールはほっとして、カウンターの席に腰を下ろした。
「何にしますか。熱いコーヒーは?」
「はい、お願いします」
カウンターの奥にいた主人は、すぐに、コーヒー差しに温まっていたコーヒーをなみなみと注いでくれた。
凍えた体が少しずつ溶けて、ほぐれていく。生き返ったような心持ちで、グレゴールは店の中を見まわした。
鳥かごの中では、一羽の小さな紅雀が飛び回っている。暖炉の前では、狐が一匹、まるくなって鼻づらをお腹の中にうずめていた。
「この土地、初めてなんです」
グレゴールは思いきって言った。
「実は、親戚のものが電報をよこしまして。こちらの<黒山羊の家>に至急来るようにと」
「そうでしたか」
主人は言って、茶色いめがねを指で押し上げた。
「…ですが、いまは正直、どうしようかと…」
「村の人たちから、何か聞きました?」
グレゴールは曖昧にうなづいた。
「いったい、どういう場所なんです?」
「私もよくは知りません。…でも、人はたいてい、自分の知らないものについてはいろいろ言うものですから。せっかく来たのなら、行ってみられては」
「はあ…」
コーヒーを啜りながら、グレゴールは逡巡した。
「ここから、まだけっこうありますか?」
「まだけっこう遠いですよ。でも少し急げば、暗くなる前には着くでしょう」

道は相変わらず、細々と続いていた。どことも知れぬ地へと向かい、あちこちで今にも消えそうになりながら、くねくねとどこまでものびている。
まわりはお化けの群れのような、雪をかぶった針葉樹林だ。
登りがしだいにきつくなって、じわりじわり、靴の中まで雪が滲みてきた。すでに膝はがくがく、足は棒のよう。
林はまばらになってゆき、そしてついに尾根をひとつ、その裾の方を超えた。
このとき、急に視界が開けて、はるか地の果てまで連なる白山羊山脈が、その全貌が姿を現した。
折しも雲の切れ目からうすい西日が射して、一瞬、峰々は巨大なオパールの原石のように輝いた。
グレゴールは息をのんだ。
何という光景、そして───何という静けさ。

それから先は下りだった。しだいに青いうす暗やみが、雪原の上へゆっくりと這い出してきた。
そしてまた少し登りになった。

疲れきって目を上げたとき、ふいにそれは見えた。<黒山羊の家>だ。間違いない。
中世そのままのどっしりとした、真っ黒い木造の一軒家。
土台部分は石を組んで築かれ、その後ろに急な斜面が盛り上がっている。
その姿は待ち伏せする獣のように、不気味な雰囲気を湛えていた。

近づいていくと、しんとして人影ひとつない。
ときどき遠くの方で、犬が吠えるのが聞こえるだけ。
なのに、たくさんある窓から息を殺した無数の目に見つめられているような気がして落ち着かない。
ノックしても返事がないのでそっと扉を押してみると、訳なく開いた。
「すみません」
グレゴールはそっと呼びかけた。それから、大声で
「ごめんください!」…反応なし。
中は真っ暗で、ところどころぼんやり灯るランプが吊ってあるだけだ。降り積もった埃とカビの匂い。
グレゴールはためらったが、思い切って足を踏み入れた。
廊下を歩くと、そこかしこに何かの気配が感じられる。しかし、近づくとさあっと潮が引くように散っていった。
視界の端で、ひょろりと長いしっぽが壁の穴に消える。
と思えば隙間から何かが這い出してきて彼の前を横切り、あっというまに反対側の壁を登って姿を消した。どうやらトカゲのようだった。紫と緑色のトカゲだ。
「いろいろとおかしなものが…」
グレゴールは村で会った老人の言葉を思い出した。
と、そのとき、彼は一瞬、向こうから一本の赤い蝋燭が歩いてくるのかと思った。
それは奇妙な人影だった。
長い深紅の衣を着た、背の高い女で、火のような色の髪を後ろに結い上げている。
すれ違いざま、グレゴールはふしぎな衝撃を覚えた。
ちょうどカットグラスのドアを押し開けたとき、世界がその模様の境目で切り替わって見えるように、目の前で時代が切り替わった気がした。
そこにあったのは想像を絶するような太古の時代だった。
それは人というより、大理石の彫像を思わせた。長いこと埋もれて忘れられていた彫像、人の手によらず、この世ならぬ美しさを具現したような彫像。
この人はかつてノアの大洪水をも見たのではないだろうか。
その瞳は、炎のようにまっすぐ前を見つめていた。

グレゴールはしばらくの間ぼうっとしていたに違いない。
振り返ると、その姿はもうなかった。
夢か、幻か…彼は自分の感覚が信じられなくなってきた。
身震いすると、やにわに足を速めた。
廊下は迷路のようにややこしく入り組んで、枝分かれしたり、狭い階段を下りたり昇ったり、とめどなく続く。
とある部屋の前で、彼はようやっと、足をとめた。
扉が開け放しになっていて、中で誰かがせっせと壁の色を塗り替えている。黒い壁をオレンジに塗っているのだ。
塗りながら、何やら不機嫌にぶつぶつ言っているのが聞こえてきた。
「あのう」
おっかなびっくり、グレゴールは声を掛けた。
ペンキの主は手をとめて、振り向いた。
「すみませんが、こちらにフレデリック・ヨハンセンという者はおりませんか」
「いや、知らないが。あんた、新顔かい」
「あ、いや…まぁ」
「隣の部屋が空いてるから、使えるよ。何か不都合があったら主人に言うといい」
「はぁ、ご親切にどうも。…ちなみに、その方はどちらに?」
「さあね。俺も知らん。でもそのうち出くわすよ」
「そのうち…」

その部屋は、がらんとして、やはり真っ黒で、埃とカビの匂いがした。
やれやれと、グレゴールは荷物を床に投げ出して座り込んだ。ともかくくたびれていた。ぼうっと上を見上げると、天井には分厚い蜘蛛の巣がいっぱい。
一応のベッドや机のほか、ガラス戸の壊れた食器棚や、ポスト、骨の壊れた傘、ダチョウの羽の扇子、壊れたランプシェードなどのがらくだが、壁の一方にまとめて積み上げてある。
窓を開けてみて初めて、かなり上の階であることが分かった。三階か四階だろうか。夕闇の中に、遠く白い峰々を望むことができた。
暖炉に火を入れようとすると、灰がごっそり積もっていた。明日にでも、少し掃除しなきゃあ。火かき棒で突っつきながら、彼は思った。

ひと息つくと、急にげっそりと空腹を感じた。
またあの暗い、ややこしい廊下をうろうろするのか。…考えると思うと気が滅入るが、ほかにどうしようもない。
再びうろうろと彷徨って、彼はやっと、ふいにあたたかな光の中に出た。しゃれた看板が出ていて、

金の雄鶏亭 エスニック料理専門店

とある。
「こんなところにレストラン…?」
ためらいながら扉を押すと、中は別世界のようだった。明るく、こぎれいで、ウェイターは礼儀正しい。テーブルクロスは真っ白でしみひとつなかった。
「いらっしゃいませ」
案内された席につき、メニューを受け取ったグレゴールはしかし、言葉を失った。

カンガルーのしっぽのステーキ ポテト添え
ヒトデのストロガノフ クリーム添え
ルーマニア・ドラゴンの串焼き BBQ仕立て
火喰い鳥の卵のグラタン 黒コショウ風味
シーラカンスのシチュー オレガノ風味…

「な、なんだこりゃ…」
メニューをひっくり返してみたが、グレゴールの知っているような料理はひとつもない。
「その、独特なメニューが多いですね…」
ウェイターは慇懃に応じた。
「さようでございます。当店はエスニック料理専門店ですので」
「こんな山の中で、大変ではないですか?」
ウェイターはうなづいた。
「素材の確保は大きな課題です。しかし、当店のシェフは厳しい舌と固い信念を持った人間ですので。お客様方のために、妥協はいたしません」
「なるほど…では…お勧めは?」
「こちらの、カンガルーのしっぽのステーキが本日のお勧めでございます」
「ではそれで…」

食事を待つ間、グレゴールは店の中を観察した。
かなり時間も遅いせいか、客はちらほら。いずれもこの家の住人だろうか。
カンガルーの肉はかなり筋張っていて固かった。けれど、味は悪くなかった。

店を出がけに、グレゴールはウェイターに尋ねた。
「お手洗いは?」
すると、「係の者がご案内します」と扉を示された。
廊下に出ると、グレゴールはぎょっとした。
暗やみの中に緑色の目が二つ、光っている。
猫?… と、そいつの目が瞬きした。そして、何やら先に立って進んでゆく。
…案内してくれているのか?
半信半疑でついていくと、やがてそいつは、ひとつの扉の前で止まった。
グレゴールはそっと扉に近づいた。
と、中からジャーっと流す音がして、扉が開いた。中から一匹のアルマジロが出てきて、ごそごそと暗やみの中へ消えていった。

部屋に戻ったグレゴールは、埃っぽいベッドに倒れ込むように眠りに落ちた。
夢の中でも、彼は暗い廊下をえんえん歩きつづけていた。
と、6匹のしっぽのないカンガルーが現れて、手をつないで彼を取り囲んでポルカを踊りながら、だんだんその輪を狭めてくる。
汗びっしょりになって跳ね起きると、窓から月の光がわずかに射しこんでいた。

つづく→


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