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黒山羊の家の紡ぎ歌 7/8

第7章 去りゆくものたち 


次の朝、グレゴールが目を覚ますと、ジーホはいつものようにラジオの音楽をかけながら、何やらバタバタと忙しかった。
藤籠の中に敷いていた毛布を窓へ持っていって埃をはたき、きれいにたたんで棚へ収めている。
「何やってるんだい? 大掃除?」
「違うよ、帰るんだよ。休暇は終わり! 日常に戻るんだ」
不意を突かれて、グレゴールは思わずベッドの上で起き上がった。
「もしかして、夕べ狩りに行ったことで、気を悪くしたのかい」
「違うよ、そんなこと、僕にとっちゃ関係ない。ただ、帰るんだよ。いつまでもここにいるわけにはいかないだろ」
言われて、グレゴールは考え込んだ。
「でも、ここの山が君のふるさとなんだろ? 別に町へ帰る必要はないんじゃないの?」
「必要はないさ」
ジーホはあっさり言った。
「でも、古道具屋の親父が淋しがるんでね。僕がいないと話し相手に困るからな。ラジオも返さなくちゃいけないし」
「ふうん…」
「あんたはいつまでここにいるつもり?」
身の回り品を手早く包みにまとめながら、ジーホは尋ねた。
「さあね…」
言われて、グレゴールは、休暇願いを出したきりの事務所のことや、オルドリアのことを考えようとした。だが、何もかも霧がかかったようにぼんやりとして、現実味を感じられなかった。
彼はただ正直に言った。
「僕はまだ、突き止められていないんだよ」
ジーホは彼の顔をじっと見た。
「突き止められると思うのかい?」
「正直言って、分からないな。だけどとにかく、今はまだ帰れない。ここまで来たんだ。僕は見届けなくちゃいけない」
「見届けるって、何を?」
「分からないけど…」
どうしてそんな言葉が出てきたのか、自分でも分からなかった。
「ふうん、そうかい。まあ、あんたが何を待っているのか知らないけど、見つかることを祈るよ。それじゃあ、もう行くよ」
ジーホは来たときと同じように、布包みをぶら下げた棒をひょいと肩に担ぎ上げた。
「世話になったな。元気でな」
グレゴールは言った。
ジーホは頷いた。
「あんたもな」


ジーホが去って、それから狩りの日以来、隣人のゲオルクと口をきくこともなくなり、グレゴールはひとりで過ごすことが多くなった。
今となっては、大叔父がもうこの家にいないのはほぼ確実だった。今では彼はこの家の住人をたいてい知っているし、何がどうなっているのかもだいたい分かっている。
これ以上、何を待っているのだろう?…
小さいころ、各地を放浪しているという大叔父に漠然とした憧れを抱いていた。そのことを思い出すようになったのは、こっちに来てからだ。
そういえば少し大きくなってから、大人たちに大叔父のことを色々聞いてみたことがある。
しかし、大した答えは返ってこなかった…というのも、大人たちも、彼がどこで何しているのかほとんど知らなかったのだ。
それから長いこと、そんなことは忘れていた。
しかしあの日、電報を受け取ったときから、彼の中に眠っていた子供の頃の思いが呼び覚まされたようだった。
それはまるで、雪の丘で背中を押された遠い日の記憶のようだった。
「しっかりつかまって!…そら、行くぞ!…」
あの日ひとたび押されたそりのように、以来彼は別の時間の流れの中に放り込まれて止まれないまま、どこへ行き着くのかも分からない。…

それからほどなくのことだった。
犬ぞり隊のリーダー格の一頭の<月かがみ>がどうもおかしいという。
「急に食べなくなってね」
スープ番が、困った様子で言う。
ストーブの間の、野菜くずを入れる大きな箱のわきに古毛布が敷かれ、<月かがみ>はその上に大きな図体を横たえていた。
ふだんは犬たちが入れてもらえないスペースだ。
「どうした、おい」
グレゴールがそばにしゃがみこむと、<月かがみ>は生気のない目を上げた。
「水しか受け付けないのさ。薬を煎じてやったんだが、だめでねえ…」

日に日に<月かがみ>はやせ衰えていった。誰かに声を掛けられると愛想よくしっぽを振るのだが、やはり何も口にしようとしない。美しかった白銀の毛皮には、今や肋骨が浮き出ていた。
ゲオルクは<月かがみ>のところへたびたび顔を出し、かいがいしく世話を焼いていた。
グレゴールと顔を合わせることもあったが、しばらくの間は彼のことなど目に入らぬふうに、無視を決め込んでいた。
だが、あれこれの作業をするうちに結局そういうわけにもいかず、そのうち二言三言、ぼそぼそと言葉を交わすようになっていた。
ときどき、どさくさに紛れてほかの犬が部屋に入りこんでくることもあった。彼らもやはり心配なのだった。
見つけ次第、すぐにスープ番が追い出すのだが、しばしば戸口のところにやはり心配して見に来た仲間たちがいて、ちょっとした混乱になるのだった。

その朝、グレゴールが朝食を取ろうと階段を下りていたときのことだ。
だしぬけに、誰かがえらい勢いですっ飛んできて、すれ違いに三段飛ばしで駆け上がっていった。
びっくりして振り返ると、エドモンドだった。
何だかいやな予感がした。
急いでストーブの間へ行ってみると、野菜箱のわきに<月かがみ>の姿はなかった。
「…死んだのか?」
スープ番は頷いた。
「昨日の晩か、明け方ごろだったようだ。朝っぱらから<山かげ>のやつがそこの戸をガリガリやってるから、何かと思ったら…」
「…そうか」
「いま、裏庭に埋める準備をしているよ。今は雪が積もっていて分からないけれど、あそこは代々の犬の墓になっていてね。すばらしい犬が、たくさんいたものさ…」

部屋に戻る途中で窓の外を見ると、エドモンドとゲオルクが雪の中に穴を掘っているのが見えた。
曇り空の、凍てつくように寒い日だった。
ひと掘り、ひと掘り、ひと掘り。
スコップが代わる代わる突っ込まれては、雪を放り出してゆく…
グレゴールは、真っ白な景色のなかのその一点をじっと見つめた。

その晩のこと、彼は、それまでに聞いたどんな遠吠えとも違う声を聞いた。
長く引っぱった、胸をかきむしられるように悲しげな叫び。
ベッドから這い出て窓のそばに行ってみると、ぼんやりとした月の下に、特別なものは見当たらない。
が、じっと目を凝らしてみると、雪に落ちた<黒山羊の家>の陰の中に、犬の形をした、殊更暗い陰が見える気がした。
<月かがみ>のよき相方だった誰かに似た…。
「…そうだよな、我々なんかより、あいつの方がどんなにか…」
グレゴールは首を振り振り、ベッドに戻った。
その叫びは、さらに幾晩か続いた。
そして一週間後、ふつりと止んだ。

つづく→


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