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菅原圭「ミラ」 歌詞 ・ MVの意味を考察してみた

基本情報

「ミラ」ってどんな曲?

 2022年2月2日に配信リリースされた曲だ。
作詞・作曲・歌唱は菅原圭、編曲はTOOBOEが担当している。
歌詞とリンクして動く可愛らしいMVも必見だ。
このMVが四次元空間を表していると感じるのは私だけだろうか。
下にYoutubeを貼っておくので、まずは聴いてみて欲しい。

⚠︎歌詞の考察……その前に!

 この考察はいちファンの個人的見解です。
私の考察を読む中で「ここは違うな〜」となる箇所があるかもしれませんが、そこは自分の解釈を優先して頂ければと思います。もし良ければコメントやTwitterなどであなたの解釈も教えて下さると喜びますので是非。
 また、歌詞考察は歌詞との主従関係が逆になるので、歌詞の引用が(無料では)出来ない場合があります。noteはJASRACと契約しておらず色々ややこしいので、どうしても必要な部分以外の歌詞を掲載しておりません。自分で検索して見比べて頂ければ幸いです。


歌詞の考察

歌詞全体を見て

 これは菅原圭作詞の楽曲に共通して言える事だが、歌詞に抽象的な表現や比喩を多用している。
語感やリズムが大切にされており、言葉遊びのような韻の踏み方も相まってオリジナリティ溢れる世界観が表現されている。
そのため、一見して何を表現しているのかの核心が掴みにくい。
それこそが菅原圭の作詞の魅力だろうし、何度も聴き直してしまう所以だろう。
この「ミラ」に関しては、MVの描写が歌詞と非常に密接に対応しているのでそこを少しばかり含めつつ考察していきたい。

SNSの虚しさ

 MVにはまず、青い色の鳥が登場する。
鳥が見つめている先はおそらく何かのチャット画面。
SNSで青い鳥と考えた時に思い付くサービスは一つしかない。
そう、Twitterである。
モチーフがTwitterだとすると、MV中でのチャットはDM(ダイレクトメッセージ)だろうか。
相手を思いやる気持ちのない、他愛のない会話が虚しいと感じる。
サービス自体の使い方には決まり事や仕様はあるが、相手に気持ちを伝える明確な仕様や方法はない(ネチケットなど様々なマナーはあるが)。
また、「仕様もない」は「しょうもない」と歌っているようにも聞こえる。
SNSを利用して次々と無料で送られてくる価値の無い薄っぺらい文字に、ただ踊らされている。

深く考えてなんかいない

 何がゆらゆらと揺れているのかを考えたとき、これははっきりと自分の芯を持たずに周囲の意見に流されている人の事を表しているのではないかと考えた。
MVには鳥が3羽。これは人々を示しているのではないだろうか。
「ネオンサイン」が何を指すのかは難しいが、MVに林檎が出てくることと鳥が消えていく事を併せて考えて、この部分はインターネットに時間を割いてのめり込んでいく状態を表す歌詞なのではないかと思う。
「ハンドサイン」はおそらく絵文字だったり、Youtubeなど各種サービスの高評価・低評価ボタン(あるいはいいねボタン)を示しているのだろう。
自分の言葉で気持ちを表現した訳ではないから、その反応をどのような気持ちで付けたのか受け取り手には分からない。
いやむしろ、付けた側すらも分かっていないのかもしれない。

死ぬ訳ではないけれど

 相対性理論の元々の意味は詳しくはここでは述べないが、空間と時間の概念や性質に関する物理の理論体系である。
しかし、この歌詞をその意味で捉えると意味が分からない。
それでは他に意味の取り方はないか、と考えると「相対」する「性」質をもつ「理論」と捉えることができるだろう。
向かい合ったりあるいは対立する性質をもっているインターネット空間の中を指していると読み取れる。夜はブラウザのダークモードを表しているのではないか。
「ベンチ」は文字通りの「ベンチ(=休息所)」と「弁知(=思慮分別があること)」のダブルミーニングだと推測した。
常に誰かがアクセスしているインターネットでは、心休まる時間もない上人々のマナーも悪くなっていく。
「四角の毒林檎」はおそらくスマホの事を指していると考えられる。
あえてここで切れたのが指であるのは、小さな傷付きを表現する為ではないだろうか。
決して死に繋がるような傷ではない。しかし、だからと言って無傷でいられる訳でもない。
それがSNSを通した画面越しの人間関係であろう。

好きでもないのに使っている

 林檎、齧るのフレーズから「林檎」のモチーフはApple製品であることが推測される。
好きでもないのに、スマホを開いてインターネットを使っている。
その理由は、SNSをもしやっていなかったとしたら恥ずかしいと思ってしまっているからだ。
MV中では青い鳥が鏡を覗き込んでいる。
相手が見えず、自分の姿しか分からない関係を表しているようにも思える。
他人を傷つけて、それをしょうがないと表現する加害側の不自然さ。被害側はそれに対して「傷ついた」と訴える。
MVでの包丁に乗った鳥は心ない言葉で傷つける側、逃げている林檎は傷つけられる側を表しているのだろう。
しかしながら、ここではただ加害側を訴えてそれで一件落着とはならない。
うざったいと感じるほど大袈裟に訴えているのだろうか、大量に降ってくるコメントたち。
その傍観者である自分たちには、どちらの言い分も理解できない。

自分さえも、 見失う

 上半分は1番と同じなので割愛する。
分からないことに対して悲しい(哀しい)と感じない「君」。
「漂ってる」は「ただ酔ってる」にも聞こえる。
「インターネット空間を漂う」という意味と「自己陶酔している」という意味が重なっているのでは無いだろうか。
「面目ないと思ったから」のタイミングでMVに登場した林檎と鳥の入った鞄がここで再登場し、原型を留めないような形になって消えていく。もはや自己を見失っているのだろうか。
その次に出てくるシーンは、透明なコップの中に水を入れているかのように見える。
そしてそれも、最終的には消えていく。
インターネットを使うことで賢くはなるけれども、自分を見失い自我すらも消えてしまうことを表しているように思える。

周囲の評価に左右されている

 ミラーボールは球の周囲に鏡を貼った飾りだ。周囲から光を当てて部屋中に反射する光を楽しむ。決して自力で輝いている物ではない。
これはまるで、SNSでは自分本来の才能なんかでなはく周囲の評価に左右される事を表しているかのようだ。
MVの中では黄色で表されているが、これはどこか月のようにも見える。「相対性理論の夜」の歌詞に合わせているのだろうか。
理由は分からないが、泣いている「君」がなぜか輝いているように見えてしまう。
インターネット空間の中、休憩する場所にも気づかないし、自分の身の程もわきまえられない。
休息するなら簡単だ、画面を閉じればいいのだから。
それを忘れるほど、いつの間にかのめり込んでしまっている。

決してただの他人事ではなかった

 1番と同じ歌詞ゆえ省略、と行きたい所だが、ハモリで入っている歌詞についてのみ述べたいと思う。

しょうがないの 傷害罪 心の傷を訴えて

菅原圭「ミラ」

の裏で「キラキラキラキラ 泣いてる君は」、

訴えてんのうざったいの 誰も理解ができないだろう

菅原圭「ミラ」

の裏で「ゆらゆらゆらゆら 揺れてる君は」とハモリとして入っているように聞こえる。
ここから「君」、つまりSNS上で会話している相手が何かに巻き込まれて傷ついていたことを示唆していると考えられる。
決して、いざこざは遠い世界の他人事なんかではなかったのだ。
それでもまだ、自分は好きでもないSNSを「使っていないのが恥ずかしい」という感情だけで使ってしまう矛盾。
私も若干の心当たりについ目を逸らしてしまう。


終わりに

 今回は、菅原圭の「ミラ」の歌詞とMVを考察してみた。
題名「ミラ」は「ミラー」、つまり鏡を表しているのではないかという考察をいつかどこかで見かけてなるほどなぁ、と思った記憶がある。確かにMV中に鏡が出てくるし、「ミラーボール」という歌詞も登場する。
 決して難解な言葉を選んでいる訳ではない。
しかし、綺麗な、そして素敵なワードチョイスによってふわふわとして掴みどころのない歌詞に仕上がっている。
それでも何故かスッと頭に入ってくる菅原圭の楽曲はリピート必至だ。
この記事で菅原圭に興味を持って頂けたら、是非他の楽曲も聴いてみて欲しい。



 初の歌詞考察記事でしたが、どうだったでしょうか?
非常に言い訳がましいことを言うと、菅原圭さんの歌詞考察は非常に難しいです。
気になる方は「エイプリル」の歌詞と、菅原圭さん自身がインタビューで答えていた歌詞のテーマを参照して頂けると分かると思います。
インタビューを読むまであの解釈には辿り着けなかったです。辿り着けた方はむしろ教えて下さい。

インタビュー該当部分↓


 今後も不定期で何かしら歌詞考察を上げていくと思いますので、温かい目で見守っていただければと思います。
それでは、ここまで長々とお付き合い頂きありがとうございました〜!

2023年7月5日 薄あさぎ

何かあればTwitterまで。
Twitter:@usu_asagi3