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東大日本史過去問解答例(2009~2011)

第三弾です。そもそもの難易度が高い問題(どう考えても試験場で十全な答案が作れないだろうと思うもの)以外は、「書けそうかつ、十全な」答案を目指して作成しました。表現があまりかっこよくなくとも、日本語として不自然でなく、書くべき内容が反映されていれば満点は来ると考えるためです。

東大日本史の解答は割れるものです。他の解答例も参照してみてください。塚原先生「東大の日本史27ヵ年」、野島先生「東大日本史過去問題集」(note)がおすすめです。

2011年度

第一問

A天皇の指揮の下、西国の地方豪族とその支配下の人民からなる。(30字)
B百済から亡命した人々のうち、百済貴族は戦後の中央集権化政策の一環として朝廷に登用され、西日本の防衛施設建設を主導した。百済僧侶は地方での寺院建立を指導し、地方への律令制支配浸透の土壌を作った。唐・新羅間の関係が悪化すると新羅との関係改善を行い、新羅を経由して得た大陸の情報は律令国家構築に寄与した。(150字)

第二問

A管領や所司に就く有力守護は三管領四職と呼ばれ、畿内周辺の国を含む三か国以上の守護職を兼任していた。(50字)
B大内氏は九州探題に代わり九州の治安維持を、今川、上杉氏は幕府に反抗する恐れがある鎌倉府の監視を幕府から期待されたため。(60字)
C有力守護を挑発して討伐することで、その勢力削減を図った。(29字)

第三問

A城普請役は平時の軍役として、知行している土地の石高を元に負担が決められ、将軍は大名に、大名は家臣に負担を割り当てた。それは幕藩体制初期において、主従関係を確立する意味を持った。(89字)
B資材調達のために整備された海上・陸上交通は物流に利用され、全国の藩に共有された治水技術は耕地の拡大に寄与した。(56字)

第四問

A産業革命と企業勃興により軽工業の職工需要が高まったが、国際競争力確保のため低賃金であり、出稼ぎ労働者である小作農の子女が従事した。男性は重化学工業に従事したが、当時は低調だった。(90字)
B1910年代は大戦景気により造船業や化学工業など重化学工業が発展した。1930年代は高橋蔵相の積極財政、満州事変による軍需の増大、日中戦争の経済統制により重化学工業が産業の中心となった。(90字)

2010年度

第一問
奈良時代は昇進・給与面で官僚制が機能していたが、摂関政治期には昇進が固定され、位階に基づく給与体系も不安定になり、地方の経営に大きな裁量権がある受領が、安定した収入が得られる職だった。受領就任のため、中下級貴族は人事に裁量権を持つ上級貴族に仕え、事務的な奉仕や軍事的な奉仕を行った。彼らは上級貴族のもとで、受領として富を蓄積し、軍事貴族は地方への進出を図った。(180字)

第二問
A荘園領主が住む京都に近い畿内、瀬戸内海の海運が利用できる九州は米が、陸上輸送中心の関東は重量の軽い繊維が中心だった。(59字)
B多種多様な現物で納めていたが、鎌倉後期には銭で納められた。(30字)
C代銭納の普及に伴い品物は現地で換金され、年貢は銭で納められたが、旧年貢品目が商品として大消費地である京都に運ばれた。(59字)

第三問
A山師は経営能力が求められたため、京都・北陸の豪商関係者や中国地方の鉱山経営経験者が採用され、職人は、銀の精錬には特別な技術が求められたため石見銀山での経験者が採用された。(86字)
B国内に市場を形成し、藩が独占的に年貢米を販売することで、航路未発達の中で大坂に年貢米を輸送する手間を省くことができた。(60字)

第四問
政府は鹿鳴館建設や外国人判事任用を含めた条約改正交渉、西洋美術の工部美術学校開設を行った。これに対し、政治面では民権派が外交失策の回復を唱え対等条約の締結を求めた。文化面では伝統美術中心の東京美術学校が設立されたほか、徳富蘇峰は井上の欧化を貴族的欧化と批判して一般市民の生活を重視した平民的欧化主義を唱えた。対して政教社は国家の独立を重視する国粋主義を唱えた。(180字)

2009年度

第一問

7世紀前半は新羅に優越するため、隋と高句麗の対立を背景に隋の冊封を受けない関係を築く役割を担い、天皇号創設の契機となった。東アジア情勢が緊迫した7世紀中盤は外交関係の調整を担った。東アジア秩序が安定した8世紀には朝貢を再開するが冊封は受けず、新たな国号を認められたほか、僧や官僚が遣唐使として唐の律令制や仏教思想を学び日本の律令制の進展や仏教の発展に寄与した。(180字)

第二問

A領地の境目を巡って戦乱が起きていると考えた秀吉は、戦を解決手段とすることを否定し、秀吉が裁定することで解決を図った。従わない場合は武力で制圧し、後に従った場合、処遇に差をつけた。(90字)
B関白の地位に就く秀吉の意向は天皇の意向でもあるという論理。(30字)
C従った大名には、その全国統一への貢献に応じて領地を与え、大名は与えられた領地に応じて軍役を負担し秀吉に奉仕した。(57字)

第三問

A⑴の時期は生糸を輸入し、銀を輸出していた。しかし⑵の時期以降は金銀の枯渇による貿易額制限に伴って生糸の国産化が進み、輸出品も銅や俵物が主となって蝦夷地の漁業が盛んになった。(87字)
B中国の書籍、宗教、文化、芸術が流入したが、書籍はキリスト教に関係がないものの流通、有識者は長崎への来航のみが許された。(60字)

第四問

農村は稲作と養蚕が中心だったが、植民地からの米移入、昭和恐慌によるデフレ、豊作によって米価が下落し、恐慌下のアメリカへの生糸輸出が激減したことで繭価も下落した。翌年には凶作で自らの食糧の確保も難しくなった上、都市の失業者が戻り、農村人口が増加した。これにより欠食児童や女子の身売りが増加した。(146字)

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