見出し画像

SNSという名の教室

SNSは教室みたいだ、と思う。
あっちでは誰かの失恋を慰めてて、こっちでは誰かが付き合った報告で盛り上がっている。
ふざけて面白いことを言う人もいれば、ひとり鬱々と過ごしている人もいる。
そして、そんな様子をただぼんやりと眺める自分。

私は小学生の頃から教室が好きではなかった。
「自分の席」に固定され、居場所がないのにどこにも行けない恐怖心があった。
「あなたはこのクラスに属さなければならない」と、勝手にグループを決められるのも好きではなかった。
気が合うかもわからないのに一致団結を求められ、否応なしにコミュニケーションをとらされるのも嫌だった。
別に、いじめられていたわけではない。外面はいいのでクラス替えごとに少数ながらも友達はできたし、ひとりぼっちで過ごした記憶はない。
だけど。
教室の中で過ごしていると、例えようのない不安に襲われる時がある。急に逃げ出したくもなる。
誰かの声が、言葉が、自分の耳に強制的に入ってくる。会話に参加していないのに、聞き耳を立てているわけでもないのに。
聞こえてしまってごめんなさい、という気分になる。そして、その会話に入ることのない自分がひどく可哀想で、いたたまれなくなる。
(そんな私が教師になろうとしたのは本当に謎だが)とにかく、SNSをやっていると、ふとした瞬間にあの記憶が蘇り心がざわざわするのだ。

実を言うとTwitterのアカウントを一度消したことがある。そして今、やっぱりアカウントを消したくなることがある。

私に全く話しかけて来ない人。私が話しかけたら返事はしてくれるけど、そういえば向こうからは話しかけて来ないなぁという人。
もしかしたら、私がなにか気に触ることをして、その人は私をミュートしているのかもしれない。
それは別にいい。全員に好かれるとは思っていないから。でも、だったらいっその事リムってくれればいいのに。
私だけがその人の会話を見続けなければいけない状況が苦痛だ。
おめでたい話題が流れてきたらやっぱり「おめでとう」と言いたいし、でも、その人が私のことを嫌いだったら、「おめでとう」と言われることすら嫌かもしれない。
その判断がつかないから、私はその人の会話が流れるたびに「反応していいのか」「反応したらいけないのか」とストレスを感じるようになった。

教室に、私の居場所はなかった。
そしてやっぱりSNSにも私の居場所はない。
でも私はもういい大人だから、自分の心を守るためにもミュートのボタンを押すのだ。
「ごめんね、私はあなたのこと嫌いじゃないんだけど」と思いながら。

表面上の付き合いかもしれないけど、私のことを大事にしてくれる人を大事にしたいと思う夜なのだった。














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?