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五輪塔の女 【短編小説】

 男は一日の仕事を終えて、リュックを背負い駅から自宅に向けて歩いていた。彼は本当は帰宅は気が進まず、初秋の曇った夕方の灰色の空気に漂うように、住宅に町工場の混在する裏通りをふらふらと歩いた。
 そこに細い路地から灰色の和蝋燭を思わせる背の高い女が、彼同様の正体のない様でふっと出てきた。街灯のない道の薄暮の中、三十歳を越したばかりと見受けられる女の姿がモノクロームで次第に見えてきた。黒髪をふっつり首筋で揃えて、白のタンクトップを纏った湿気をたっぷり帯びた肌の華奢な骨格の女が、長い灰色のスカートの裾を揺らしながら彼の前を横切った。
 彼はその女に誘われるように、進路を変えて、女が消えてゆこうとする左手の路地に入った。彼の記憶ではその路地は行き止まりのはずであったが、彼の前には卒塔婆の並ぶ墓地が開けた。
 女はゆらゆらと墓地の奥に進んでゆき、やがてとある五輪塔の前で立ち止まった。彼は通り過ぎてしまうのが惜しいような気がして、女と十メートルほどの距離のところで立ち止まった。
 女はやがて人の高さほどの五輪塔に顔を寄せ、頬を擦り付けると、両腕で塔を抱き、両脚を基壇部に預けて胸から下腹部までを塔に密着させた。
 彼が気がつくと、自身はその五輪塔となり、女が自分の黒光りする花崗岩の体にすがる感触に驚いた。そして女を限りなく愛しく思う気持ちがどうしようもなく沸き起こり、自分の体の下の方から塔の頂点に向けて衝き上げる稲妻の束を感じた。彼は意識が光の中に融けて遠退くのを感じながら、これが俺の最期なのだと思った。
 夜回りの巡査が路地の行き止まりで初老の男の遺体を発見したのはその深夜のことであった。

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