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タイガー・カット

 ユウイチは、明後日に中学校の入学式を控えていた。
 彼はけさもおつかいでパン屋に行く途中に、自分が入学する予定の中学校の正門に、
「昭和五十一年度 入学式」
と大きく毛筆の楷書で書かれた看板の前を通ったのだが、その看板を正視したくない気持ちがして、往復とも前を足早に通り過ぎたのだった。
 彼が入学式の前に心が浮き立たないのは、散髪をしたくないからであった。
 地域の中学校は、男子が入学の時には、丸刈り、当時の言葉ではぼうずにしなくてはならない決まりであった。
 ユウイチの父親は、散髪の代金を彼に渡して、床屋に行くように言ったが、彼は家を出て床屋のリボンが回転する看板を見ると、入る勇気がなくて、そのまま引き返した。
 彼はその後も二度ばかり床屋に足を運んだが、やはり二度とも引き返してしまった。
 彼は、床屋に行ったことがなかった。
 彼の家は小さな婦人服の店で、お客は女性ばかりであった。
 ユウイチは小さいころから、女性の常連客にかわいがられた。
 ユウイチの母親は、彼の目鼻立ちが女の子のようにやさしいのが自慢で、彼の二歳上の姉のお古の女の子の洋服を多少仕立て直して彼に着せた。
 そして、母親は、洋服の裁ちばさみを器用に使って、彼の髪を、姉を同じように首筋が見えるおかっぱに整えていた。
 小学校でも、ユウイチはいつも女の子の遊び仲間に入っていた。同級生の男の子が野球やサッカーに興じるのに、彼は砂場の隅で女の子たちとままごとをしたり、シロツメグサの花で飾りを作ったり、折り紙を折ったりして遊んだ。
 ユウイチが床屋に行くのをためらったのは、今まで行ったことがなくて勝手がわからないという理由もあったが、仲良しの女の子たちと明らかに違う容姿になることで、仲間外れになってしまうことを恐れる気持ちが強かった。
 彼は、女の子は髪を切らなくていいからいいな、と思った。

 洋品店には、サトミという、女子の店員が働いていた。
 サトミはユウイチにとっては遠縁にあたり、地元の高校を卒業してすぐに洋品店で働き、この春で四年目に入っていた。
 彼女は、店が閉まると、ユウイチの母親と台所に立って、料理を教わり、夕食を共にしてから、しばらく談笑してから帰宅した。
 サトミは食後の時間に、ユウイチの宿題の手伝いをしたり、彼からその日にあったことの話を聞いたりした。
 街灯のスイッチを入れるのは、町内会の決まりで輪番になっていて、ユウイチの家が輪番に当たっているときは、サトミはユウイチの手を引いて外に出て、街灯のスイッチを入れた。
 ある初夏の晩、サトミは街灯のスイッチを入れて店の勝手口に帰る時に、
「ユウくん、おんぶしてあげようか?」
と言って、小学校三年だったユウイチを背負った。
 サトミの汗でやや湿った背中には、天花粉がほんのり匂い、その匂いが蕃茉莉の花の香りを混じった。サトミの長い髪は一つに束ねられて、ユウイチの頬を撫でた。
 その情景は、ユウイチの印象に深く残った。彼の記憶では、サトミにおんぶしてもらったのは、そのとき一回だけであった。
 サトミは、ユウイチが中学校の入学式を控えて、浮かない顔をしている理由はよくわかっていた。
 入学式を明後日に控えた晩に、いつものとおり夕食を済ませると、サトミは何事かユウイチの父母と話を交わした後、ユウイチに言った。
「ねえ、おねえちゃんが散髪してあげようと思うんだけれど、どう?わたしのうちには、兄さんが使っていた散髪の道具があるの」
 サトミはこう言うと、にっこりとユウイチに笑いかけた。
 ユウイチは、ふいに耳まで真っ赤になって、小さく頷いた。
 彼は、サトミについて、路面電車で隣駅の近くのサトミの家に行った。
 サトミの家は、木造の長屋であった。玄関を開けると、ユウイチが何度か会ったことのあるサトミの両親が、居間でテレビを見ていた。
 サトミは、自分の両親にわけを話すと、奥の自分の部屋にユウイチを案内した。
 四畳半の和室は、塵ひとつなく掃除が行き届き、部屋の隅には赤い和服の帯の端切れらしい布のかかった鏡台があった。
 サトミは、鏡台の布をとり、その前に座布団を敷いて、ユウイチを座らせた。
「正座しなくていいのよ。らくにしてて」
 サトミはそう言いながら、道具を取りに部屋を出た。
 鏡には、ユウイチの見慣れたおかっぱ頭の自分の姿があった。
 部屋は、かつて彼がおんぶしてもらったときの天花粉の匂いに、化粧品の匂いが混じっていた。
 やがて、サトミは氷の入ったカルピスのグラスと共に、白いシーツと手動式のバリカンを持って戻ってきた。
 サトミはユウイチにカルピスを勧め、彼が飲み終わってから、シーツをユウイチの首の周りに巻き、それから彼の髪を二、三度ゆっくり撫でた。
「ほんとうに、きれいな髪。女のわたしでも、うらやましいわ。でもね、わたし、頭を刈ってかっこよくなったユウくん、見てみたいと思ってたの。髪は放っておけばまた元のように伸びるのよ。一度試してみると思って、やってみましょうよ」
「ぼくが髪を切っても、おねえちゃん、ぼくのこと嫌いにならない?」
「まさか!もっと好きになっちゃうかもよ」
 ユウイチはまた耳まで赤くなった。
 サトミは、実はバリカンを使ったことがなく、自分の親が兄の頭を刈るのを横で見ていただけだった。
 彼女は、慣れない手つきでバリカンを首筋から入れていったが、長い髪にバリカンの刃が負けて、引っかかってしまった。
 彼女がバリカンを引っ張ると、その部分だけ地肌が見えるほど白い切れ込みが入った。
「痛くなかった?下手でごめんね」
 やがて、彼女の手つきが少しずつ慣れてきて、ユウイチの後頭部、側頭部と刈り上げて行き、そして額から頭頂部にとりかかり、半時間近くかかって、やっと丸刈りが完成した。
 ユウイチが瞼にかかった髪を払って、鏡を見ると、刈った後の濃淡が一様でないために、スイカの模様のような太い筋が頭に何本も入って見えるのが目に入った。
 彼はそれを見ると、急に笑い出した。
「おねえちゃん、やだ、トラガリになってる!」
「床屋さんみたいにきれいにできなくて、ごめんなさい・・・・・・」
「いいんだよ、中学に行くにはこれで大丈夫。ありがとう」
 サトミは、ユウイチの首の周りからシーツを取り除くと、彼の前に回って、両方の掌で刈ったばかりの彼の頭を撫でた。
「手触りはいいわ。ユウくん、さわってごらんなさい。タイガー・カットよ!」
「タイガー・カット?」
「トラは英語でタイガーだから、タイガー・カット」
 ユウイチは、そう促されて、おそるおそる自分の頭に掌を当てた。
「何にもないのって、気持ちがいい」
 サトミは、箒でざっと畳を掃いて後始末をした。そして、彼女はユウイチが家に帰るのに付き添った。
 今年は早かった桜の花が、まだ葉桜で残っていて、街灯に照らされる道を二人は歩いた。
「ユウくん、覚えてる?一度ユウくんを、おんぶしたことがあるの」
「うん、覚えている」
「それがもうこんなに大きい、かっこいいお兄さんになっちゃって」
 サトミは少し言葉を切ってから、続けた。
「あのね、ユウくん。わたしね・・・・・・お嫁に行くことになったの。お店は四月の終わりでやめるの」
「えっ、そうなの・・・・・・遠くに行っちゃうの?」
「うん、東京に住むことになるの」
「そうすると、もう会えなくなるの?」
「お手紙は書くけれど・・・・・・」
 昼間よりもいっそうしょげた様子のユウイチに、サトミは道端の住宅の塀越しに枝をさし出した葉桜を指さして言った。
「ユウくん、ほら、桜だって、いつまでも満開ではないわ。でも、それは悲しいことではないのよ。新緑になって、サクランボが実って、葉っぱが真っ赤になって・・・・・・すっかり葉を落として、そしてまたつぼみをつけて・・・・・・わたしたちも同じ。ほんとうは、誰も一瞬だって足踏みできないことになってるの。入学とか、結婚とか、節目の行事の意味って、きっと時が流れてゆくことを思い出すことなんだわ。だから、わざわざ、きのうとは違った形に変わらなくっちゃいけないの」
「ぼくの入学も、そういうことなのかな?」
「わたしの結婚も、そういうことなの」
 ユウイチはしばらく黙っていたが、やがてサトミの手をつかむと、言った。
「わかった。おねえちゃん、これから幸せになるんだもんね」
「そうよ、ユウくんもよ」
 人通りのない路地の街灯の陰で、サトミと今やほとんど背の高さが変わらないユウイチが、サトミの肩を抱いて、彼女の首筋に顔を埋めた。
 サトミは、ユウイチのトラガリの頭を、何度もやさしく撫でた。
                  完

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