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黒と白のフーガ

 染井吉野が葉桜になって、マンションの玄関に植えてある早咲きのつつじが真っ赤に開き始めたある晩、シュンは、会社の帰りに東京駅の構内の和菓子屋であんみつのカップを二つ買って帰ってきた。
 私は勤め先からの帰宅がシュンよりも一時間ほど早かったので、夕食のハヤシライスを作って待っていた。
 そこにシュンが帰ってきて、いきなり
「マキ、あんみつ買ってきた。食べないか?」
と言ったので、
「先にハヤシを食べてよ」
と答えると、彼は
「ハヤシはできてから蒸らしたほうがうまいじゃないか。先にあんみつ食べようよ」
と言って、あんみつのカップのビニールを剥き始めた。
「もう、言い出したら聞かないんだから」
私はもう彼と暮らして三か月、彼が言い出したらば聞かないことはもうよくわかっている。
 彼は東京駅の近くのオフィスに勤めるサラリーマン。私は美容師。彼は私の勤め先の美容室のお客だった。
 カップの中には、あんこや黒豆や牛皮の入った容器と、賽の目の寒天の入った容器とが入れ子になっていて、シュンは器用に材料を組み立てて、黒蜜の容器をつまんで、ぷしゅっという音が最後に出るまで、中の濃厚な液体を均等に寒天の上にかけ回した。
 私とシュンとは、キッチンのテーブルに向かい合わせについた。一LDKのダイニングは、この小さなテーブルだけでもいっぱいで、二人の距離は街中のバーのカウンターよりもずっと近い。
 シュンは組み立ての終わったあんみつを私の前に置かないで、こう言った。
「今日はね、このあんみつ、ぼくがマキに食べさせようと思って買って来たんだ」
「うん、私、いただくわよ」
「そういう意味じゃなくて」
 彼はそう言うと、あんみつの中に、店がつけてくれたアイボリー色のプラスチックのスプーンを差し入れて、二、三回ゆっくりぐるぐると混ぜた。
 そして彼は寒天をたっぷりの黒蜜といっしょに一匙掬った。
「和菓子屋の前を通りかかったときに、これをマキの唇に入れたら、黒く染まるのかなって思って、それが見たくなったんだ」
「子供じゃないから、自分で食べるわよ」
「そういうことじゃなくて」
「そういうことじゃないって、どういう意味?」
 シュンはそのスプーンを私の口元に近づける。
 私がその一匙を唇で受けようとすると、彼はスプーンの半分ほどを私の口に入れた。後の半分の黒い蜜は、私の唇の角からあふれてこぼれる。
「しっかり入れてよ。こぼれちゃったじゃないの」
 シュンはそれに答えず立ち上がると、私の顔に自分の顔を寄せて、唇を私の口元に重ね、黒い蜜のしずくをミツバチのように吸う。
 間近で彼のきらきらした目が幸福そうに笑い皺を寄せた。ミツバチマーヤという童話や、みなしごハッチというアニメがあったのを思い出す。
 彼はさらに、私の唇を吸って、口のなかの寒天を自分の口に移そうとする。
「わかったわ。そういうことがしたかったのね」
 私はそう思って、口の中の寒天を舌で彼の口の中に押しやる。
 彼の舌も私の舌も、同じ濃厚な甘さを同時に味わっている。
「シュンばっかりじゃ、ずるいわ。私にもさせて」
 今度は私があんみつを一匙掬って、彼の口に入れる。
 彼はわざと、自分からスプーンをすっぽりと口の中に入れて、上唇でスプーンに乗った寒天と蜜を奪い取る。
 私はそこにすかさず自分の唇を重ねる。
 彼の口から吸い取った寒天は、ほろほろと私の口の中で崩れて、黒蜜と混じり合う。
 二人ともテーブル越しでのやりとりが迂遠に思えて、どちらが言い出すでもなく、あんみつのカップをそれぞれが持って、寝室に移動する。
 そして、あんみつをお互いに食べさせては、自分の口に移させる、そんなことを繰り返しているうちに、私はのぼせてきて、耳が紅潮し始める。
 シュンの呼吸はやや早くなっていて、私の頬にあたる彼の息の温度が上がったように感じる。普段はスーツの下に隠れている、精悍な獣を思わせる匂いが次第にグリーン系のオーデコロンのうっすらとした香りに交わる。
「エプロン、ほどくよ」
 シュンはそのようにぼそっと言って、私の背中に手を回して、エプロンの紐の結び目を解き始める。
 私はシュンのネクタイをほどき、細いストライプの入った薄青のシャツのたくさんのボタンをはずしてゆく。
 彼は私のTシャツの裾を上に引き上げる。
 私の腰まである髪がTシャツの首周りの通過を邪魔するのに、彼は無理やり引き上げて、腕と頭をすっぽりと抜くと、髪の毛がばさりと私の耳を覆う。
 彼は自分で上半身のアンダーウエアを脱ぐと、色黒の胸が現われる。
 私と彼とはベッドに半身を起こして座り、彼はその胸を私の胸に押し当てて、私の頬を両方の手のひらで覆う。
 そして、彼は愛玩犬のように、私の顔のまわりについた黒蜜を舌で嘗め取ってくれる。
 私も彼の顔に唇をつけて、黒蜜の残りを吸い取って行く。夕方なので少し伸びた彼の髭で唇の粘膜がちくちくする。
 その間も、彼の両手は私の髪を頬のところで竪琴を弾くかのようにやさしく掻き上げて、耳たぶに触れる。
「黒蜜、まるで媚薬みたいね」
「媚薬、か。ぼくの思った通りになったよ。あたりだね。結局あんみつは全部食べちゃったから、食べ物を粗末にしてないよね」
「シュンって、オフィスで、こんな妄想ばかりしているんでしょう?」
「まあね。マキはどうなの?」
「私は仕事中に妄想なんかしていたら、手元が狂ってお客の耳を切っちゃうわよ」 
 私がこう言い終わらないうちに、シュンは私の左の耳の角を甘く咬む。
 私は、彼の唇がうなじを降りてゆくのを感じる。
シュンがいつもきれいと言ってくれるのは、私のうなじだ。
 初めてのデートの時に、シュンが言ったこの言葉を思い出している。
「マキのチャームポイントはね、ぼくにとっては、後ろ姿なんだ。マキは美容院ではポニーテールに結っているでしょう。ポニーテールの下のうなじ、すうっと長く背中につながって伸びていて、かっこいい。今日みたいに髪を結っていないと、髪が揺れるたびにうなじが見えて、それが眩しいんだ」
 私のうなじを下に降りた首筋には、ほくろがあって、シュンはそこに毎日出勤前に接吻してくれる。
 彼はいつの間にか体を私の背中の方に移動していて、そのほくろにいつもよりも長く接吻してから、私の髪を頭頂部から腰まで、手櫛で丁寧に梳いてくれる。
 私は彼にこうして髪を触ってもらうと、愛されている実感がする。
 彼はそれに飽きると、今度は両手を私の胸に回して、手のひらで私の黒いブラジャーを包もうとする。
 私はそっとその両手を払う。
「後ろから触られるの、弱いから」
「白と黒、このコントラストがいいんだよ」
「さっきのあんみつも、そういうことだったの?」
「うん。だって、君の白い肌に黒蜜が流れるのを見たかったんだよ」
 彼は両手を私の腋の下にあてがって、私の両方の腕は天を指す。
 そのままの形で、私は後方に倒れ、胸には彼の湿り気を帯び始めた肉体の重さを感じる。
 彼は両方の手のひらで私の腋から二の腕にかけて撫で上げてゆく。そして、かすかにふるえる私の指にシュンの指が絡まる。
 私は、汗をかくと腋からの体臭が濃くなって、それが彼を刺激することを知っている。
 思った通り、彼は臭いに惹かれたかぶとむしが這うように、唇を私の右脇に滑らす。
「脇の毛、おとといはあったのに、いつ剃ったの?」
「きのうよ」
「黒いはずのところが青白いのが、なんか、いい感じだな。黒と白の間なのに、灰色でなくて、青なのが不思議だね。黒蜜と白蜜を混ぜたら、どんな色になるのかな?」
 私がどう答えようか迷っているうちに、シュンは私の体をしっかりと抱き締める。
 私たちは二人とも、こうやって接着している時間が好きだ。
 色黒のシュンと、色は白い方の私。
 シュンは、体はひょろっとしているけれど、腕の力は結構強くて、抱きしめられると息が止まりそうになる。
 しばらくして、二人は湿り気を帯び始めた残りの衣類を脱ぎ始める。
 彼は先に自分の衣類を脱ぐと、私が脱ぐのを手伝う。
 彼はいつも、私の衣類を脱がすときには、一枚ずつ、とても丁寧に扱ってくれる。初めての夜、彼はこんなことを言っていたのを思い出す。
「女の子にとって、洋服は体の一部だから。ひとつひとつゆっくりと、花びらが開いてゆく感じが大事だと思うんだ。」
 私は、アンダーウエアを扱うシュンの丁寧な手際が好きだ。
 私は一糸まとわぬ姿になると、すっかり開花したような気持になる。
 彼は私の上に重なり、みぞおちのあたりに顔をつけて、かたつむりが這うようにゆっくりと唇で私のおなかを降りてゆく。
 そして腰まで到着すると、今度は脇腹から背中に進路を変え、今度は背骨に沿って上がってくる。
 彼の手のひらはいつの間にか私の両方の乳を覆って、ゆっくりとやさしい力で絞っている。
 私は、われ知らず、喉から声が漏れているのをどうしようもできない。
 私が脱力し始めたのを見届けて、彼は私の体を仰向けに直し、今度は私の足元にうずくまって、足先からくるぶしをやさしく撫で始める。彼の両手は私のふくらはぎを伝い上って、膝の裏を通過し、太腿にさしかかる。
 私の両脚は彼の肩にもたげて、踵で彼の背中を押さえている。
 私はこうして、数回意識が遠のく。
 シュンは自分の官能をそろそろこらえきれなくなる。私は速さを増した彼の息遣いでそれを察知する。
「シュン、我慢しなくていいわ。」
 言葉にならない、地声よりもオクターブ高い声が私の喉から迸る。それと共に、私の気は再び遠くなる。
 気が付くと、私の胸には、白羽の矢を射抜いたシュンが、荒い息をつきながら、頭を乗せている。
 私は、シュンの黒い髪を両方の手のひらで撫でる。

 ベッドの脇の窓のカーテンの隙間からは、晩春の通りを照らす街灯の光が漏れてくる。
 街灯の光が、黒い闇の中の彼の胴に、白く一筋の直線を描いた。

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