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部活について心理学の立場から考える

 部活動での顧問による体罰、威圧、部内のいじめ、カーストといった陰湿な状況はよく耳にする話である。そして最悪の場合、暴力によって死亡したり、自殺に追い込まれたりすることは拙稿でも述べたところである。(※1)

 私の場合、中学校は一部の教師が部活を強く勧める他は帰宅部をよくないとする風潮もなく、比較的自由であった。高校は中学校以上に自由な校風であったため、さほど部活に入らなければという心理的なプレッシャーは感じなかった。自分自身で自由に考える環境にあったという点では恵まれていたと言える。だから、私は部活、とりわけ運動部の部活動をこなして勉強をすることを文武両道と称して奨励する考え方に違和感を感じていたし、学生生活において部活を優先すべきと思わせる体質の学校、部活(※2)はカルト以外の何物でもないのではないかと漠然と中高生時代から今日に至るまで感じてきた。そんなことを感じながら部活動に関する書籍を読んでいたとき、部活動の組織の中にはカルトの構造と似ている組織があると指摘する心理学者の本を見つけた。

部活動を優先する心理

 心理学者である尾身康博は部活動に教師や生徒が拘束される状況について次のような見解を述べる。

 教師が部活の顧問を負担することはあたりまえであるという強固な信念を「部活教」と呼ぶこともあるらしいが、労働環境にとどまらず、組織の運営と指導の仕方、指導を受ける側の態度なども含め、誤解を恐れずにいえば、部活組織はカルト化した集団と構造的に類似している点も多い。とくに、他のことに見向きもせずに一つのことに打ち込むこと(一途主義)と休日や長期休暇も含めた長時間の練習という典型的な部活の特徴は、子どもたちを閉鎖的な環境に追い込むという意味で、結果としてカルト集団の構造と類似してくる。生徒の個々の特徴を把握でき生徒指導上の都合がいい寮生活も、閉鎖性を助長することになりかねないという側面をもつ。(※3)

ここで拙稿「文化部の意義について」(※4)で引用をした中学校教師の発言を再引用したい。

スポーツチームは、選手個人の技量をアップさせ、試合で結果を出させることが目的のはず。だが、学校の部活においては、そこに加えて教育的効果が求められるのだ。高校時代にハードなスポーツ部活を経験してきたという教師は、その効果をこう解説する。
「苦しい練習を共有することで得られる仲間との連帯感、そんな仲間と試合を勝ち抜いた喜び。そうした思春期の経験が、わたしの人格の大部分、8割くらいを形成してくれたと感じています。だから学校教育のなかでスポーツをする意義は大きい。校務がどんなに忙しかろうと部活の指導は手を抜きたくないし、生徒にとっても部活は貴重な場ですよ。その点で、週イチ程度の活動しかしない文化部は、わたしから見れば実体としては『隠れ帰宅部』みたいなもの」(前出、神奈川県中学教師)(※5)

先に引用した尾見の指摘と比較の上でこの中学教師の主張を考察していただきたい。この中学校教師は自身の体験を前提に、苦しみを共有することの連帯感を強調し、生徒個々人の主体性よりも部活という組織を重視することで、学校生活において部活を優先するべきという傾向がみられる。私はこうした部活動顧問の考え方が部活動を歪め、部活動の体質がカルト化し、運営方法や部活動に参加する生徒個々人の自由を奪う大きな要因となっていると確信している。

部活の不条理を肯定する心理

 尾身は体罰を受けたことを肯定する論理を認定的不協和の一つとして次のように指摘する。

 (尾身が受け持つ大学の講義の学生を対象とした体罰に関する調査で)体罰を受けたと回答している者が同時に「体罰ではなく指導と受け止めている」と述べているのが好例だが、そこでは、客観的意味としての体罰を理解し、それを否定しつつ、自分が受けたものは体罰とはいえない、否定すべきものではないという独特の意味づけが成立している。このような意味づけが成立している。このような意味づけが有効である限り、体罰は脈々と生き続けることになる。そして、体罰を受けた過去を振り返る場合、いまの自分を肯定的に受け入れることができていれば、体罰を受けたことも含めてみずからの人生史を否定しにくいという面もある。そのときの経験があって今の自分があるというとらえ方はごく自然なものであるし、正しいとしかいいようがないからである。(※6)

体罰に限らず、部活での不条理な出来事、体質自体も自身にとって意義があったとする思考形態からは、自分が行ってきたことを否定されたくないという心理が働いていることがわかる。そのため部活動の中にある不条理性や生徒個々人の主体性を軽視する問題点が指摘されることなく、延々と引き継がれ、結果、最悪の場合には(※1)で掲げるように人の命まで奪われることになるのだろう。

神聖視される部活観からの克服を

 しんぶん赤旗に連載されていたシリーズ「部活って何」に部活動での体験をメールで寄せた女性は部活について後悔しかないと言明した。その女性は、部活動で顧問から罵倒され、ボールをぶつけられたり、ケガで練習を休むと部員からサボっているとして文句を言われたり意地悪をされ、部活を退部しようとしても顧問に止められたり、内申書の関係で退部をよしとしない雰囲気があったため部活動を辞めなかったそうである。しかし、同時に当時自身が洗脳状態にあったとして次のように述べた。

 私自身”洗脳状態”に陥って「ここでやめたら逃げたと同じ」と強く思い、結局やめられませんでした。
 最終学年ではけがに加え、原因不明の体調不良で休んだこともありました。部活でうつ病を発症した生徒の記事を読み、ハッとしました。あの時もっと自分を大切にして守ってやればよかったと、思います。
 30代になった今でも夢に見ます。部員たちに責められ、「ゴメンね、ゴメンね」と謝罪を繰り返す姿を夢で見て、目が覚めることがあります。当時の部員とは連絡をとっていませんし、今後とるつもりもありません。私自身の決断です。でも、部活が人と人との分断を促進したり、精神的苦痛を経験する人を多く生み出すような場になっていることがあるとすれば、まるで意義がないと思います。(※7)

 もし、学校側が彼女の所属する部活動における不条理な体質を改めようとしたか、あるいは彼女が部活以外の違う道-例えば勉強で自身を磨くなどといった道-があることに気づき、部活を辞めるという選択をしていたら、このような悲劇を迎えなかったかもしれない。よく部活で得られたものは仲間であると口にする人がいるようだが、(※8)部活動で被害を受けたことで傷ついた者たちは自身が受けた体験を声に出したがらないということはないだろうか。私が先に挙げた尾見が指摘した不条理を肯定する論理とは別に、嫌なことを忘れることで自分を傷つけないようにする心理が働き、部活で起きた不条理を告発することなくそのまま終える人のことを考えるべきではないだろうか。

 今回は引用が多くなったが、心理学的な観点からの部活問題を取り上げることを通して、部活動において問題があってもそれらを告発することができず、泣いている人の声に耳を傾けたいという想いからである。今回のnoteはそうした人に想いをきたすつもりで書かせていただいた。読者の皆さまのご意見を承りたい。

皆が集まっているイラスト1

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(※1)

(※2) もちろんほとんどの場合、表面上は勉強と部活を両立するとして勉強を軽視することはない。ただ、放課後錬以外の朝練、土日祝日の練習、試合を行うなどほぼ部活に時間を取られる状況では、勉強を行うことは休み時間を使うといったことを考慮しても十分な勉強時間を確保できる状況にはない。まして難関校と呼ばれる学校の場合、塾だけの勉強に留まらず睡眠時間を削って時間を確保する必要がある。睡眠時間を削って勉強するやり方は体力がある程度身についてくる高校生はまだしも、中学生には厳しい条件であることは言うまでもない。

(※3) 尾見康博「日本の部活 文化と心理・行動を読み解く」P104~P105 
ちとせプレス

(※4)

(※5)

(※6) 尾身「前掲」P106~P107

(※7) しんぶん赤旗「部活って何」取材班 「部活動って何だろう?」 P44~P45 新日本出版

(※8) 島沢優子「部活があぶない」P32 講談社
なお、同著自体は、部活動についてソーシャルスキルを磨く場としての必要性を強調する一方で、部活動での顧問の暴力や非民主的な運営方法、陰湿な人間関係が起こる状況の問題点を指摘した本である。

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