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FF14 Origin Episode:Rokuro Utageya -Open Your Eyes- Part3

0.

「お客さん、名前は?」
 輸送船の名簿に筆を走らせる。わたしはしっかりと『宴屋六郎』と刻んだ。
 名簿と乗船券を受け取った船員は、怪訝な顔をわたしを見た。
 それは男性名であった。わたしはどう見ても女だ。
 船員は余計なことに首を突っ込むまいと決めたようだ。次の人間に同じ質問を投げかけた。女にしては仰々しい、左目の眼帯がそうさせたのだろうか。
 ……過去の映像だ。
 既視感から、わたしはこれが夢だとわかった。
 東方からエオルゼアに渡ると決めた日。復讐相手を探すと決めた日。
 わたしは己を宴屋六郎と名乗ることにした。
 だから船に乗る際の乗船券には、墨で師の名を刻んだ。
 己の名前は忘れることにした。
 それに何の意味があったのか。
 あの時死すべきはわたしだったからか。
 師の最期の言葉は覚えている。
「楽しく生きてね」
 楽しく?
 彼は馬鹿だったのだろうか。
 故郷を焼かれた人間が。
 同族を皆殺しにされた人間が。
 すべて忘れて、人生を楽しく生きられると。
 本当に思っていたのだろうか。
 ――間違っている。
 師は間違っている。
 大陸に渡ったわたしは、冒険者となり、どんな依頼でも受けた。
 特に、虐げられた者、弱者と見做された者、報復を実行できぬ者の依頼は喜んで受けた。
 わたしが正解だとは思わない。
 だが、必要なのだ。
 報復が。
 報復するモノが。
 報復心を満たすモノが。
 虐げられる者すべての報復を実行する。
 怒りのままに死んでいった者。
 悲しみにまみれたまま死んでいった者。
 すべての怨念に報いる者が必要なのだ。
 里の人間だけではない。
 師だけではない。
 すべての人間に。
 なにより弱い弱い、わたし自身に。
 『報復代理人』が、必要なのだ。
 だから、わたしは。
 宴屋六郎を名乗ったのだ。


1.

 眠りから目覚めて行ったことは、朝食を摂ること。健全な精神は健全な肉体に宿るとは思っていないけれど、少なくとも健全な食事を摂ることで、健全な仕事をこなすことができる。
 より正確に表現するなら、健全な食事を摂取しなかった場合、仕事の成功率が低くなる、だが。
 運良く西ザナラーンの岸辺――シルバーバザーに漂着することができたわたしは、岸で夜を明かしたのち、ウルダハへと戻った。
 一つ教訓だが、岸に漂着したとして、必ず誰かが助けてくれるとは限らない。服の中に潜り込んだ数匹の小蟹だけがわたしの友だった。
 呪術師ギルドに呪具を調査を依頼して、砂時計亭に宿を借りた。漂流中に財布を紛失したので受付前でのわたしは顔を青くしたけれど、何度か利用している馴染みもあって、ツケということに相成った。
 そしてたっぷりと休養を取って数日。
「失礼。ロクロ・ウタゲヤ様でしょうか?」
「ええ、わたしです」
 食後の紅茶を飲んでいたところで、サンシーカーの男性がわたしのテーブルを訪ねて来た。黒いカウルを着込んでおり、左胸に呪術師ギルドの記章が縫い付けられている。
 ギルドの使いだろう。調査が終わったら使いを寄越すと言っていたのを覚えている。
「ご依頼の件でご連絡に参りました。担当の者がお待ちしております、お手数をおかけしますが、ご足労くださいますよう……」
「わかりました」
 礼を言い、小銭を掴ませる。銀行から金を下ろすことができたので、朝食と宿泊料の支払いを済ませることができた。
 ナル回廊のちょうど端に位置するアルダネス聖櫃堂に足を向けた。向かいにはエラリグ墓地があり、この二つがウルダハの死を司っている。
 曰く、氷魔法は遺体の保存を。火炎魔法は遺体の浄化を目的として用いられる。
 ゆえに、コロセウムの入口を通り過ぎて階段を登る頃には、独特な静寂が漂っている。
 曇りの天候も静謐を強調しているように思えた。
「やあ、来たね!」
 呪術師ギルドに所属する研究者――ノノヤ女史はわたしを明るく出迎えた。
 抑えられた照明の中で、デューンフォークがあまりに明るく快活に挨拶を繰り出すものだから、周囲の視線を集めてしまった。わたしは咳払いをして誤魔化した。
 アルダネス聖櫃堂の敷地を半分ほど占めている呪術師ギルドだが、一般的には宗教施設としての趣が強い。非常に繊細な、死者の遺族が聖櫃堂を訪れていることもある。
 なぜギルドで働く彼女ではなく、客人であるところのわたしが気を遣っているのか。冷静に考えてもわからない。
「もうわかったのか」
 挨拶もそこそこにわたしは本題を切り出した。
「名前を教えてもらっていたからね。文献をあたって、東方に詳しい商人と学者に訊いてみて、あとは自分でエーテル探査して……って感じ。」
 机の上に小箱が載せられていた。ノノヤがララフェル用の台座に登り、ゆっくりと蓋を開けた。
 中にはわたしが依頼した時点から変わらず、一枚の呪符が収められていた。
「とはいえ文献に明確な記述はなし。東方と交流のある商人も噂程度の情報しか持っていない。無論、東方まで足を運べばもっと具体的な話もあるんだろうけれど――ウタゲヤさん、時間ないんでしょう?」
「明確なタイムリミットがあるわけじゃない。ただ……そんなに待ってはもらえない。多分」
「事情は聴かないでおきましょ」
「助かるよ」
 特殊な眼鏡を掛け、エーテル遮断用手袋を嵌めたノノヤが呪符を取り出した。
 帯びた魔力の影響なのか、箱ごとどっぷりと海水に浸かったにも関わらず、状態の変化は見られない。
「まずエーテル探査の結果だけど……製作から五十年も経っていない呪具だね。二十年前後ってところかな。綴られている文字は古い東方の言葉。意味の詳細は解読不可能。東方への用事があったらぜひって感じ」
 黒髪のララフェルは眼鏡の奥で冗談っぽく笑んだ。
 ひんがしの国は簡単に訪れることができる土地ではない。距離的にもそうだが、鎖国政策を敷いているため入国難度が異様に高いのだ。
「東方由来の素材で構成されたエンチャントインクで綴られてる。構成素材の詳細はこれまた不明だけど、相当稀少で、かなりエーテル伝導率の高いもの。色と質感から墨に混ぜられていると考えられる」
 ノノヤの小さな指先は、中央の幾何学模様をなぞる。
「中央の紋様は我々の描く魔法陣に相当すると推測。単純な線に見えるけど、拡大するとすべて微小の文字で構成されていることがわかった。解読はこっちも不可能。ごめん」
「無理を言ってるのはこちらだから気にしないで」
「紋様の形には巴術との類似が見られる。知人の巴術研究者に訊ねたら、記憶に関連する魔法と似ていることがわかった。……ウタゲヤさん、巴術の心得は?」
 正直、知識程度だ。
 頷くか迷っていると、ノノヤが言葉を続けた。
「巴術の仕組みはご存知?」
「多数の魔紋が描かれた魔本を携行。ページに描かれたエンチャントインクにエーテルを奔らせ、魔法に変換する」
 敵が巴術士であることを想定した知識。ノノヤ的にも求めた答えだったようだ。満足そうに頷いている。
「……ん。ということは」
「これ自体が呪具であり、魔本に相当する魔器。ミニサイズのね」
「エーテルを奔らせれば誰でも起動できる……」
「そのことなんだけど」
 ノノヤ女史はおもむろに手袋を外し、『シラガミ』を掴んだ。そしてそのままエーテルを奔らせた。
 彼女の唐突な行動と、小さく発光する呪符に慄いたが――おかしな様子はどこにもない。
「やっぱり。予想していた通り起動しないね」
「今のが初実験だったのか。勇気があるな」
 やや蛮勇にすぎるが。
「魔紋の構成に、特定のエーテル波長を示す箇所があった。知人によると、使用者を限定する記述だそう」
 無害であるならと『シラガミ』を触ろうとしたわたしの手を、ノノヤが叩く。
 さほど強い力ではないが、驚いて手を引っ込めた。
「今の所有者はあなたよ、ウタゲヤさん」
「……は?」
 わたしが?
 あり得ない。
 これは商船のゼーヴォルフから強奪したものだ。言わば盗品で、わたしに所有権などあるはずもない。
 特に使用者を固定する呪具や魔器であるなら、簡単に所有権が移譲されることなどあり得ない。
 いわくつきの魔具は、その登録を解除することにこそ苦労するのだから。
「『シラガミ』に登録された波長はあなたと完全に一致する。だけどこれがあなたが作ったものとは思えない。ウタゲヤさんは魔術にも、魔具製作技術に明るいわけでもない根っからの戦闘民族――これは失礼だったね」
「事実だ」
 悪戯っぽく笑う彼女に続きを催促する。
「だから魔力の構成を調査してみた。細かいところまではわからなかったけれど、所有権登録の仕組みについては理解できた。この呪具、所有者のエーテル反応消失を引き金に登録情報の抹消が行われるみたい」
「…………」
 それはつまり、所有者の死だ。
 わたしは船上でのことを思い出す。
 意図はわからないままだが、つまりこの《シラガミ》の所有者にすることこそが、あの暗殺者の目的だったのだ。
「そして次に触れた人物のエーテル波長が登録される。この呪具が使えるのはロクロ・ウタゲヤさん。あなただけ」
 ノノヤは『シラガミ』を元の箱に戻して、蓋を閉じた。そうして丁寧に元通りにした箱を、わたしの方へ向けた。
「調査でわかったのはこれだけ。どんな呪具なのかはわからない。はっきり言って、とても危険な代物。お返しするのが怖いくらい。……何があったのか詮索はしない。これが存在するのも知らなかったことにしておく。副収入がなければ、他の連中よりも等級の高い研究資材が買えないしね」
 わたしは小箱を受け取り、革袋の中にしっかりと仕舞った。
「ありがとう、ノノヤさん。助かった。残りのギルはいつもの口座へ送金しておく」
「毎度ご贔屓に」
 冗談っぽい笑顔を浮かべたノノヤに礼をして、わたしは呪術師ギルドを後にした。
 さて。
 どうするか。


2.

「正気か?」
「自分で決めたことなんだ」
「軽率すぎる。お前が無理をする必要はない。僕がもっと強くなれば――」
 誰かを超えるために『私』は『私』を捨てなければならない。
 『私』はそれを理解していた。
 『私』には限界がある。
 人間の才能には上限がある。
 生まれた瞬間から、どこまで行けるか決まっている。
 どれだけ鍛錬を重ねても。
 どれだけ訓練を積んでも。
 どれだけ努力を積み上げても。
 『私』は彼には敵わなかった。
 彼だけではない。
 『私』は誰にも敵わなかった。
 『私』は誰よりも劣っていた。
「いつまでもお前に頼ってばかりは生きられないんだ」
「頼って? ……何を言っているんだ。お前は今のままでも十分強いし、昔から僕が勝手に助けているだけなんだ」
 それが強者の傲慢であることなど、彼はわかっていなかっただろう。自覚というものはまことに難しいものだ。
 確かに、彼さえいれば里は安泰だろう。暗殺教団においてより多くの人間が優秀であることは重要だが、そのすべてを賄えるほどに彼の力は圧倒的だった。
 老導師たちも同様に考えている。
 だから『私』は、己の体を差し出すことにした。
 彼が絶大な力を振るう一方で、老人たちには懸念があった。一人にのみ力が集中していいものか。
 あるいは隠れ里最強の男でも、命はひとつであると。
 世の均衡を重んじる彼らにとって、彼は安心できる材料であると同時に、不安材料でもあった。
「だからさ――」
 『私』は『私』をやめることにした。


 具体的な方策を立てられぬまま数日が過ぎた。
 わたしはリムサ・ロミンサに宿を借りていた。別件の依頼をこなすためだ。
 命を狙われていてもギルは稼がなければならない。わたしのような一般冒険者の辛いところだ。
 ここ数日、わたしは毎日夢を見ていた。決まって過去の――東方時代の夢だ。それもはっきりと実感がある。夢といえばしばらく経てば忘れるものと思っていたけれど、ここ数日の夢は仔細を記憶したままだった。
 原因に見当はついていた。
 『シラガミ』だ。
 ギルドから受け取った途端にこれだ。誰でも察しが付く。
「なんらかの記憶に関連する呪具である」とは学者先生のお墨付きだ。タイミングといい、呪具の性質といい、間違いなくこの紙切れが原因であろう。
 捨てることも考慮した。
 害獣駆除からの帰り道。ラノシアの街道の途中で箱ごと捨ててしまえばいい。
 あるいは崖から海に投げる。ゼファードリフト沿岸に面するのは、それなりに深い海だ。誰かの手に渡るようなこともあるまい。
 非常に簡単だ。
 けれどわたしは実行できないままでいた。
 理由の一つ。夢に出てくるのはわたしだけではない。
 何者かの記憶が夢に流れ込んでくるのだ。
 これはおそらくフェイスレスの記憶だろう、とわたしは考えていた。
 ただ自分の記憶でないがゆえに、詳細は全くと言っていいほどわからない。
 たとえるなら――小説の一ページのみを急に読まされている。そのような感覚が近いだろう。
 だが暗殺者の意図を読む上で何らかの役に立つのではないかと考えていた。
 もう一つは――ただの勘だ。空想物語において、このような呪具を投げ捨てた場合結局は持ち主の手に戻ってくるのがお約束だろう。
 冒険者の間に伝わる噂話や伝承にも似たような話が多い。
 ゆえに雲を掴むような、それでいてはっきりとした夢に苦しめられながら、わたしは傭兵業を全うした。
 今回の害獣駆除は全く問題なく完了した。そろそろわたしの熱烈なファンが行動を起こしてくると思ったが、その影は見当たらない。
 ついでに、黒渦団から賞金の掛けられている盗賊の討伐に向かう。
 食糧と水にはまだ余裕がある。数日稼ぎなしどころか、経費がかかりすぎている。零細冒険者のわたしには痛手だった。頭のおかしな暗殺者に命を狙われていても、生活が破綻するのは勘弁願う。ボーナスを狙わなければ明日の食い物にもありつけぬ。
 知人と連絡を取り、西ラノシアのエールポートで合流した。高地ラノシアに向かう街道沿いに盗賊が出現しているという。
「どうもやっこさん、提督に反発した海賊崩れらしいな」
 剣術士はもっともらしく言った。
 海都の政策を考えると自然な話だ。
 剣術士が囮となり、街道に出現する盗賊をわたしが狙撃する。そういう作戦だった。
 実際、我々の作戦通りに進んだ。盗賊は数人程度だったし、彼らは弓兵を従えていなかった。剣術士が盾で耐えている間に、わたしは盗賊の頭を射抜く。それだけの仕事だった。
 あとは盗賊の身につけていた印章を手に、海都へ戻るだけ。
 簡単な仕事。いつもこうであればいいのに。
 あるいはフェイスレスがこのように単純な相手であったら、どれだけ良かっただろう。
「もし、お嬢さん。ウタゲヤさんかい?」
 剣術士と別れ、エールポートでリムサ・ロミンサ行きの定期船を待っている時だった。
 船乗りらしい格好のゼーヴォルフに声をかけられた。
 早朝ゆえ、周囲に人の姿はない。海から流れ込んだ靄が、あたりを薄白く曇らせていた。
「黒ローブの兄さんから預かりやした。この場でお読みになってくだせえ」
「『海鳥』か」
 『海鳥』というのは、わたしが懇意にしている例の情報屋の名前だ。海都で情報を受け取って以来だが、なにか情報でも掴んだのだろうか。
 大柄のゼーヴォルフは、太い指で手紙を広げた。
『高地に東方人らしき姿あり。ラノシアにはくれぐれも近づかぬよう』
 お世辞にも綺麗とは言えない走り書き。焦った状態で書いたもののようだ。
「ありがとう、もう読んだ。ところで、これはどこから?」
「死体からでさぁ」
 言葉を理解するより先に左目が痛んだ。
 しかしそれが危険信号であると認識するよりも、ゼーヴォルフの豪腕の方が素早かった。
 顔面への右ストレート。本能的に後ろに退いたことによって、幾分威力は減衰していたが、わたしの体を吹き飛ばし、脳を揺らすには十分だった。
 視界が揺れる。鉄の味。視点が定まらない。耳鳴り。何度も転がる体。脳震盪寸前であることはわかる!
 武器。
 弓。転がっている。
 矢筒。中身を散乱させて弓と同様。
 危険認識。男。巨漢。背中の斧を抜いて歩いてくる。
 膂力。圧倒的に不足。真っ向の立ち回りは不利。
 起き上がる。低い姿勢を保つ。視点は定まらない。視界がぼやけてムカつく。
 武器。腰に短剣。心もとない。抜き放つ。正面から切り結ぶのは危険。巨大な斧。脳裏に力負けする姿が浮かぶ。殺意の範囲が広すぎる。
 周囲。桟橋。左右に逃げ場なし。
 巨漢。歩く。歩いてくる。距離を詰めている。
 視点が定まらない。地面が揺れている。ムカつく。
 ムカつく。ムカつく。ムカつく。
 ムカつく!
 殺す!
 わたしは地面を蹴って前に出た。
 ゼーヴォルフは笑っていたことだろう。はっきりと見えていないが、自信はある。
 斧が振られる。
 右から左へ。
 柄の長い凶器はそれだけで有利だ。
 ましてやこちらが握るのは短剣。圧倒的な射程の差に涙が出そう。
 斧がわたしの体に届く寸前。
 思い切り足を踏ん張り、わたしは体を止めた。
 前髪の数本を刃が持っていく。
「フッ!」
 巨漢は斧を振り切って、刃を背中にやる。
 そのまま柄の先端をこちらに突き出した。
「あ、がっ」
 胸部に直撃。
 骨が破砕される小気味いい音が、自分の内部から聴こえてきた。
 再びわたしは地面を転がる。
 顔と頭の痛みに加え、胸が熱を持つ。
 投げようとしていた短剣は手から零れた。
 胃の内容物が喉まで昇ってくる。
 息ができない。
「ハッ!」
 巨漢がバルディッシュを振るう。降りかかる殺意を、わたしは地面を転がって回避。
 なにかが肌を傷つけて、血が滲む。散乱した矢だ。矢尻がわたしを傷つけた。
 状況。
 投げ出した足先、巨漢との間に弓。
 想定。
 わたしが弓を掴むより、斧に捉えられる方が早い。
 実行。
 ロングブーツに仕込まれたホルスターからナイフを取り出し、転がった姿勢から投擲。
 巨漢の肩口に命中。ゼーヴォルフはよろめく。
 計算。
 それでもまだ間に合わない。本体を手で掴むには、半歩遠い。
 強行。
 手近な矢を掴む。
 弓のグリップに靴裏を当てる。姿勢を回復した巨漢が斧の予備動作に入る。
 矢を掴んだ右手でそのまま弦を手にし、思い切り引く!
 巨漢が斧を振り上げる。
 足先で照準を合わせて矢を放つ。
「…………」
 果たして、矢は命中していた。
 巨漢の心臓を居抜き、彼を絶命せしめていた。
 振り上げた斧は、腕力という支えを失って、己の重量に従って地面に落下していた。
 そこで初めて、わたしが荒い呼吸を続けていたことを自覚した。
 視界は依然として揺らめいている。
「……ムカつく」
 でも殺せたから、まあ、いいか。


 その後、わたしはリムサ・ロミンサまで戻った。
 襲ってきたゼーヴォルフについてはよくわからない。エールポートの住民や労働者に話を聞いても、『死体』を知る者は誰もいなかったのだ。
 証拠はないが、フェイスレスの手の者であることはわかっていた。何の証拠も残されていないからこそ、彼の仕業であることがわかる。
 『海鳥』との連絡を取ろうと、所定の手順を踏んでみたが、返事がない。
 ゼーヴォルフの言葉通り、彼は死んだのだろう。
 暗澹たる思いのまま、わたしは海都を歩いた。
 朝靄が消え失せており、陽光が燦々と降り注いでいる。商人や旅行客、木箱を抱えて歩く獣人で通りはごった返していた。
「今朝採れたばかりの魚だ! 兄さん姉さん買って買って!」
「宝飾品はどうだい。エシュテムから取り寄せた宝石もあるよ」
「目に効く薬……耳に効く薬……鼻に効く薬……なんでもある……ないものも調合しよう……」
「新大陸から取り寄せたスパイス、今だけ一割引だ」
 リムサ・ロミンサの日常風景。
 いつもと変わらない姿。
 目を灼く陽射しの中で、どうしてわたしは『こんなこと』になっているのか。
 頭に餅でも詰められてるみたいだ。
 陽射しを避けるようにブルワークホールに入った。
 とぼとぼと階段を登り、『溺れた海豚亭』に到着した。眺めてみると、客はさほど多くない。空いているというほどではないけれど、いくつか席は空いている。
 ……喉が乾いた。グレープジュースでも飲もう。
 わたしは給仕を呼んで注文を伝えた。
 そういえば昼前だ。軽食もついでに取るか。
 気分転換になるといいんだが。
「グレープジュースに、ドードーオムレツとフラットブレッドですね。少々お待ち下さい」
 手頃な価格と、見合った味。それが『溺れた海豚亭』の特徴だ。
 テーブルに肘をついて頭を抱える。
 今朝の怪我は手当によって回復している。巴術士サマサマだ。
 肋骨の一部が骨折していたけれども、なんとか支障のないレベルまで回復できた。
 ただ、痛みは残っている。これも時間の経過で和らぐとのことだったが、潮風を吸い込む度にささやかな痛みを訴えかけてくる。鎮痛剤ももらえば良かっただろうか。だが懐に余裕があるわけでもなかった。
 疲労は回復しきっていない。
 今朝あれだけの大立ち回りをした上に、今まで『海鳥』を探していたのだ。
 このビアホールで腰を下ろして初めて、休息した気持ちだった。
 額に手を当てると発熱を感じ取れた。
 体調から考えるに、風邪ではない。疲れが出ているのだろう。
 ため息を吐いていると、給仕がやってきた。
「おまたせしました」
 熱々のドードーオムレツとフラットブレッド。
 軽食が運ばれてきたが、給仕の運んできた盆には一通の便箋も混ざっていた。
「あなた宛に、ミズンマストに届けられたお手紙だそうです」
 なんだかやりとりに悪寒を覚えながら、わたしは礼を告げて封を切る。
 昼食を摂りながら読もうと思っていたが。
 気力が失せてしまった。
 訃報だったのだ――ノノヤ女史の。
 事故死。銅刃団はこれに事件性はないと考えているが、一応直近に接触のあったわたしから話を聞きたいということだった。
 任意の事情聴取。
 常識的に考えれば、今すぐにでもウルダハへ向かうべきだろう。
 ……向かって?
 どうする?
 心当たりの証言でもするか?
『フェイスレスという暗殺者による殺人でしょう。だって彼はわたしを狙っていて、わたしの周りの人間を殺して回っているから』
 ――手紙をテーブルに置いて、手足をだらんと伸ばす。
 わたしは目を瞑った。
 手から力が抜け落ちていく。
 瞼が痙攣して、光と暗闇が交互に登場する。
 トトダタ、オ・リナ、ノノヤ、『海鳥』。彼らの顔が瞼の裏に蘇る。それだけではない。
 鬼哭隊のユノー。その他大勢の死者。
「フェイスレス……」
 そもそも呪術師ギルドに向かわせたのは奴だ。それが終わったら速やかに掃除?
 馬鹿げている。遊びじゃないんだ。殺人は遊びではない。わたしも多くの人間を手にかけて来たが、どれも真剣にぶっ殺している。必要のない殺人はしていないつもりだ。
 彼は――どれだけ無意味な犠牲を出せば気が済むのか。
 あとどのくらい、殺人を重ねるつもりなのか。
 たかだか、わたしのために。
 深い息を吐き出し、わたしはフラットブレッドに齧りついた。
 食欲は消え失せたが栄養を摂取する必要がある。
 食事を終えたら出発の準備だ。短剣の刃を研いで、矢筒にありったけの矢を詰める。
 出たとこ勝負になるが、もうそれでいい。
『海鳥』は高地ラノシアという情報を遺した。それがフェイスレスの罠だとわかっていても、もはやわたしには関係ない。
 ――殺す。
 《無貌》がどんな策を弄しているかなど知ったことか。
 己の胸中に黒い炎が灯っているのを、わたしは感じていた。
 報復心に薪を焚べる。
 この炎で焼き尽くしてやる。


3.

「《シラガミ》とこれから授ける変化魔術によって、お前は生まれ変わる。好きな人間になるがいい」
「すべてを白紙に戻せる」
「なりたいものになれるのだ」
 老人たちの言葉を『私』は覚えている。
 それだけではない。『私』は『私』に起きたこと、『私』が望んだもの、彼らが望んだもの、彼が口にしたこと、すべてを覚えている。
 覚えている、覚えている、覚えている。
 ああ、しっかり記憶しているとも。
 死すべき人間の情報も。
 殺すべき対象の情報も。
 すべてすべてすべて覚えている。覚えた。覚えてみせた。
 彼が何を口にするのか。
 どのような食を好むのか。
 何を喜ぶのか。
 何が許せないのか。
 何を哀しむのか。
 何を楽しむのか。
 どんな女が好きなのか。
 どんな男が好きなのか。
 どんな性的嗜好を持っているのか。
 父母に抱く気持ち、兄弟姉妹に抱く感情、ありとあらゆる他人に覚える親愛感謝悲哀羨望憎悪どす黒い恨み妬み嫉み。
 すべてすべてすべて覚えている。覚えた。覚えてみせた。
 なろうと思ったすべてに成れた。
 『私』は望んだものになれた。
 なろうと思ったすべてに慣れた。
 私は《無貌》。
 顔を持たぬ影。
 顔がないから、何にでもなれる。なりたいものになれる。
 だけど『私』は気づいてしまった。

 ――『私』とは『何』だっけ。


*******

 高地ラノシア西岸、オークウッドは曇っていた。
 名前の通りオークの木々が立ち並ぶ、山岳への入口。
 ここから北上して山道を行けば、オ・ゴモロ火山の麓、外地ラノシアに到着する。
 高地ラノシア西岸には何度か訪れたことがある。
 プアメイドミルという海都開拓団の拠点があるのだが、何度もコボルド族の襲撃に遭っている。その応援に雇われることが多く、おおよその地形は頭の中に入っていた。
 時刻は深夜。エールポートからここまで徒歩で移動しているため、時間を食った。
 もともと夜に訪れることを決めていたから、予定通りではあるけれど。
 手にしたランタンの光と、月光を頼りに道を歩く。
「…………」
 木々は寝静まっており、虫の鳴き声だけが途切れずあたりに響いている。
 プアメイドミルの周辺には歩哨が立っている。彼らはこちらを見つめていたが、わたしの旅装を見て旅人と判断し、己の仕事に戻った。
 『海鳥』の情報が正しいとして、高地ラノシアに潜むのなら、『愚か者の滝』だろう、というのがわたしの予想だ。
 ブロンズレイク周辺はキキルン商人の縄張りだし、サラオスの亡骸周辺は高低差が激しすぎ、プアメイドミルには開拓団が居座っている。彼らはコボルド族と敵対しているから常に疲弊しているし、人間の姿であれば大した警戒心も働かない。先程のわたしのように。
 高地ラノシア西岸はエールポートに比較的近い。港に近いのはあまりにも便利だ。
 滝が近くなってきた。瀑布が湖に落ちる轟音が耳に入ってくる。
 わたしはランタンの灯りを消して、岩場の窪みに荷物を置いた。ここなら野盗にも見つかるまい。
 武器を身に着け、滝に近づく。
 滝の周辺には霧が満ちていた。
 僅かにだが、水辺の先に太い白線が見える。今はよく見えないけれど、滝口の岩場から大量の水が零れており、木の根も数えられないほど突き出しているはずだ。
 まずは小高い丘に登るべきだ。そこから周辺を観察してみよう。
 霧が出ているからこちらの視界は塞がれているけれど、水の落ちる音で足音はかき消されているはず。
「とか、思ってないよねぇ?」
「っ!」
 迷わず拳を背中に回した。
 裏拳はしかし、背後の人物によって掴まれてしまった。
「こんばんは。いい夜だね、ロクロ」
「……フェイスレス!」
 音もなく、接近されていた。
 右手で短剣を抜き放ち、その勢いのまま背後を狙うと、彼は左手を離して回避した。
 滝の轟音が響く中、わたしたちは対峙する。
 フェイスレスの顔は――《無貌》の暗殺者の顔は。
 わたしの知った顔だった。
 黒い髪、黒い瞳、凡庸で地味な顔。
「宴屋、六郎……」
「お久しぶり、とか言ってみる?」
「黙れ!」
 弓を構え、矢をつがえる。
 間髪入れずに三射。
「心臓、喉、頭、いい狙いだ! 僕でなければ!」
 彼はそのすべてを叩き落とした。
 わたしには捉えられない速度で。
 右手には東方の『刀』が握られている。
「偽物と違って僕は本物。剣を使うよ」
 月光を受けて業物が輝いた。
 同時にフェイスレスが前進、視界から刃が消える。
 太刀筋を読んで、弓を掲げる。
 衝撃と圧力に負けることがわかっている。力を利用して大きく後退する。
 それを逃すほどフェイスレスは甘くない。
 更に踏み込み。侍の一歩はあまりにも大きい!
 翻った左からの斬撃、防御。
 右斜め下からの切り上げ、防御。
 上からの振り下ろし――防御!
 防御したが……刀の重量と体重を載せられている。
 鍔迫り合いに持ち込んだものの、じりじりと負けつつある。
「宴屋六郎はきみに弓術を教えたけど、本当は剣術が一番得意だったって知ってる?」
「……ぐ」
「宴屋六郎はきみに狩猟を教えたけど、罠猟が一番得意だったって知ってる?」
「うる……さい!」
「宴屋六郎はきみに生きる術を教えたけど、それを教わったのは僕が先だって……知らないだろうッ!」
 押し切られるかと思っていたが、フェイスレスは急に刀を引いた。
 わたしは思わず態勢を崩す。
 フェイスレスの刀が翻る。
 突きの構え!
 喉を狙っている。
 体を捻って回避。
 やや失敗。左の肩口が引き裂かれ、肉が持っていかれる。にわかに左肩が熱を持つが、分泌された脳内麻薬によって痛みはない。
 槍で襲われた時と似ている。
 だがあのときのわたしではない。
 左肩を裂かれながら前進。
 右手に掴んだ矢をそのまま突き出す。
 矢尻はフェイスレスの左肩を削いだ。
「いってぇ、なァ!」
 腹部に蹴りを入れられる。肺から息が漏れ出た。
 ――懐かしい。その蹴りは、知っている。
 知っているから、対応できた。
 わたしの体は宙に浮く。蹴りの勢いを利用して、大きく後退。
 空中で弓を引く。狙いはあまり正確ではない。
 しかし直線の凶器は、暗殺者の左脚を捉えた。
 その牙は皮膚を食い破り、体の半ばまで貫通する。
 地上に着地しながら追撃の矢を放つ。
 脚の負傷は行動を遅らせる。
 そのはずだった。
「痛覚遮断って知ってる?」
 負傷などなかったかのように――左足に刺さった矢はそのままに。彼は距離を詰めてきた。
 なんでもないように。
 一歩。
 たった一歩の踏み込みなのに。
 おそろしいほど距離を詰められる。
 ――そうか。先程の痛みは演技で、欺瞞。
 なんと狡猾か。
 フェイスレスは気づかぬうちに刀を鞘に収めている。
 決して戦闘終了の意思表示ではない。
 この形は知っている――。
「……ッ!」
「ハッ!」
 東方の侍の『居合』。
 元は素早く敵を打ち倒すために特化した武術。
 互いに剣を抜いた剣術とは異なるもの。
 本来は戦闘中に行うものではない。
 だが。 
 これは別だ。
 フェイスレスが手を添えている鞘はおそらく、高度なエーテル伝導体に覆われている。
 だとすれば、この『居合』の目的は、エーテルによる加速および威力増幅に他ならない。
 鞘の角度から太刀筋を読むしかない!
 暗殺者が肉薄。
 わたしは弓を掲げて防御。
 フェイスレスの鞘から光が溢れる。
 一閃。
 閃光とともに、わたしの視界が一瞬白に染まった。
 知覚と同時に崖に叩きつけられた。
 背骨が軋む。
 肺の空気がすべて体外に排出される。
 地面に落下。動けない。
 自己診断。
 右脇腹、裂けている。
 腹部と胸部、裂傷。
 左肩、深く抉られている。
 口中の唾液に血が混じる。内蔵に傷を負っているかもしれない。
 痛みは、正確な位置がわからなくなるほど分散している。
 視界の端が暗い。明滅もしている。控えめに言って重傷。全身、どの部位にも力を入れることができない。
 黒鉄弓――ローゼンボーゲンは足元に転がっている。ただし、真っ二つで。
 剣閃に耐えられなかったが、負傷を和らげるという役目は果たしてくれた。
 だがもう終わりか。
 ごほ、と咳が出る。霧状の血液を吐き出してしまった。
 治癒魔法、使用不可。エーテルが不足している。
 男の足音が聴こえた。見上げると黒髪黒瞳のフェイスレスが立っている。
 柔らかな表情はいつか見たそれとよく似ている。
「終わりだよ、偽物」
 言うが早いか、刀をわたしの右肩に突き刺した。とどめの一撃ではない。単にこの場に縫い止めるためだろう。
 苦鳴が漏れる。
 新たな傷によって脳内麻薬が分泌され、ほんの僅かに痛みが引いた。代わりにどくどくと、耳に響く血液の脈動が激しくなった。
 それが死への秒読みに聞こえて――いや、実際にあらゆる傷から血が流れているから間違いではない――寒気を覚えた。
「さて、きみはこのままだと大体五分後には死を迎えるわけだけど、実はそれを避ける道を用意してある」
 何がおかしいのか。実に楽しそうな声だ。
 フェイスレスはわたしの懐を探り、一枚の紙を取り出した。
 呪具、《シラガミ》だ。
「《シラガミ》、きっと記憶に関する呪具であることしかわかっていないと思うんだけど」
 っていうか、呪術師ギルドの研究者にそこまでしかわからなかったと証言してもらったけど。
 暗殺者は嘯く。
「これはね、我らが里の生み出した、記憶操作の呪具なんだよ。対象となった人間の記憶を漂白する。その内に記憶を貯め込んでおける。暗殺者にとっては便利すぎる代物」
 フェイスレスは依然微笑みを浮かべている。
「見ただろ、植物みたいになった人間をさ」
「……だから?」
「結論を急ぐねえ。生き急いだっていいこと何もないよ? ああ、でもきみは死にかけているんだし、仕方ないことではあるか。死に急いでいる途中だものな。ま、冗談はともかくとしてだ」
 彼はわたしの頭を掴み、上を向かせた。自然と黒い瞳と目が合う。深い深い、何も映していない真っ黒な瞳。
「これからきみは、記憶を漂白してもらう」
「それでお前に何の得がある……」
「得? 得しかない。前にも話したけれど、僕はきみが『宴屋六郎』を名乗っているのが気に入らない。宴屋としてものを食って、宴屋として暮らして、宴屋として仕事をして、宴屋として寝て、宴屋として呼吸する。そのすべてが気に入らない。殺してやりたかった。毎日毎日考えたよ。眠りに就く前にどうやって殺してやろうってさ。およそ百通りは思いついたかな。……ふふ、きみを殺すのは簡単だった。本当ならいつでも殺せたさ。黒衣森で初めて会った時、邪魔者を皆殺しにしてきみを殺しても問題なかったんだ。それともグリダニアで再会した時でも良かったかな。僕には実行できる。力があるんだから……」
 彼はわたしを見つめていながら、その実何も見ていない。
 何も映していない。
「だけど、だけどね。きみをこのまま殺してはいけないんだ。宴屋六郎として死ぬ。それはきみが宴屋六郎という人生を完成させてしまう。宴屋六郎として生まれた男の人生が、きみという偽物女の死で終わってしまう。これはね、とても『ムカつく』んだよ。だから僕は、きみを宴屋でない人間にすることを決めた。宴屋六郎という名前を、もとの主に返してやることに決めたんだ。この《シラガミ》を使って」
 使い方は知っているよね。巴術と同じ。消したい記憶を想い、エーテルを流し込むだけ。
「きみが宴屋を騙ったこと、宴屋として行ったこと。その大きな罪を僕は赦そう。赦してあげよう。安心してよ、僕はきみを傷つけようなんて思っていないんだよ。さあ紙を握って。そうすればきみは死ななくて済む。哀しい復讐に生きることなんてない。新しい人生を歩み出せるんだ。きみは、何にでもなれるんだよ。さあ考えてみて。きみは何者になりたい? ――きみは、何者だい?」
 彼の微笑みには、優しい色があった。
 それは、慈しみだった。
「わたしは……」
「言ってみなさい」
 わたしは、一体誰なのだろう。
 わたしは師の劣化模倣でしかない。
 船でフェイスレスに言われた通り。
 まったくもって、その通りだと思う。
 実のところ――わたしはわたしの名前を思い出せない。師と同じ名を名乗るようになってから、わたしは己の名を忘れていた。
 それはきっと、呪いだったんだろう。
 復讐に生きると決めて、己の人生を捨て去った。復讐とは、報復とは、決して軽いものではない。その代価なのだ。
 だとしたら。
 わたしが『わたし』ではなく、わたしが『宴屋六郎』でもないのなら、わたしとは一体何者なのだろう。
「わたしは、何者なのかわからない」
 小さな声に、フェイスレスは答えなかった。
 苦虫を噛み潰した顔をしている。
 だからわたしは、言葉を続けることにした。
「……お前は、わたしだけが目的じゃないだろう?」
「なに?」
「わたしの命だけじゃない……何度も夢を見た……お前の話を聞いて、ようやくわかった。お前も、記憶の漂白をしたんだ」
 口の端から血が零れていた。己の命の構成物が失われていくのがわかる。
「《シラガミ》を持っている間、何度も夢を見た。あれは《シラガミ》に貯め込まれた、お前の記憶だろう。宴屋六郎を超えるための――」
「売女め! お前にっ、何がわかる!」
 わからないさ。
 フェイスレスの手に力がこもる。まるで頭を握り潰そうとしているみたいに。
「もっとも長い付き合いの、だけどもっと見慣れぬ顔! 自分の顔は自分でみることはできない! 簡単な話だよなぁ!」
「…………」
「『私』は誰だったっけ?
 『私』は何を望んでいたっけ?
 『私』はどうして『私』になったんだっけ?
 原初の『私』はどんな人間だったっけ?
 ああ簡単だ! 里の人間にでも訊けばわかることだ! そのはずだったんだ!」
 口角泡を飛ばして彼は叫んだ。
「だけどもうお前しかいない。《シラガミ》は任意で記憶を取り戻すことはできないんだから」
「なぜだ」
「結節点が失われている。『私』は『私』を漂白しすぎた。そりゃそうだ。何度も何度も何度も何度も。必要なときに必要なだけ『私』は『私』を漂白した。だからお前を結節点とする。《シラガミ》に『お前』の記憶を取り込んで……そこから『私』に至ろうッ!」
 ここまでわたしに執着したのは、師のことももちろんあっただろう。
 けれどおそらく、本当は。
 わたしの記憶にフェイスレスを刻み込むことで、己と同じカタチを、《シラガミ》から探そうとしていたのだ。
 ……おかしな話だ。
 人は変わっていく。
 一秒、時が刻まれる度に変化する。
 元のフェイスレスがどのような人間だったかなどわからないけれど。
 記憶を消しても、結局のところ、それがお前という人間だっただろうに。
「さあ、もうきみに残された時間はない。大丈夫、きみは生き延びられる。こんなにいいことがあるかい?」
 こんなにいいこと?
 その言葉に、胸中を黒いものが満たしていく。
 黒い炎が燻る。
 わたしが失った人間たちはどうなる?
 わたしが死なせた人間たちはどうなる?
 彼らは?
 里の人間は?
 虐げられる弱き者たちは?
 報復せよ。
 誰かが囁いた。
 それはノノヤだったかもしれない。オ・リナだったかもしれない。
 そうだ、そうだ。
 わたしは復讐に生きると決めた。
 わたしは復讐者。
 報復の化身。
「言葉にしろ、口に出すんだ。わたしはすべてを忘却する、と」
 フェイスレスは優しく微笑んでいる。
 わたしも静かに微笑んだ。
「わたしは」
 わたしは。
 わたしは。
 わたしは。

「わたしは、『わたし』であることを忘却する」

 わたしは想い、エーテルを奔らせた。
 途端、視界が白に染まる。
「なんっ……」
 驚嘆の声も、白に呑まれて消える。
 呪具から式が立ち上がり、理解も及ばぬうちに視界を埋め尽くしていく。
 式に従い、わたしは選択する。
 わたしはわたしがわたしであるという記憶を捨てる。
 わたしはわたしがわたしであるという定義を捨てる。
 すべて、すべて、すべて。
 あの夕刻の虫の鳴き声も。
 赤と青の曖昧な空も。
 師との会話も。
 独りだったことも。
 僅かな母の記憶も。
 すべてを捨て去る。
 さようなら、わたし。
 もう会うことはないでしょうけど。
 また会う日までお元気で。
 ただ一つ願うのなら。
 多くを殺せ。
 悲しみを生み出す者に報復を。
 殺して殺して殺し尽くせ。
 すべてを皆殺しに。
 ただ、報復を。


 僕が僕の中から『なにか』を消し去った後。
 残っていたのは僕だった。
「呪具を破壊することで貯め込まれたエーテルを利用……治癒魔法が起動……? そんな馬鹿な!」
 目の前の男は取り乱し、何事か喚いている。
 体に痛みが残っているが、傷と思しきものはすべて塞がっている。
 ――しかし誰だ、こいつは。
 どうも記憶に齟齬がある。
 調べるべきだろう。
 まずは目の前の人物に話を訊かねばならない。
 黒髪黒瞳、凡庸な顔。東方人であることはわかるが、それ以上の情報は得られない。
 僕の知った顔ではなかった。
 だから訊ねてみる。
「お前は誰だ?」
「うるさいッ! 偽物の宴屋が!」
「よくわからないけど――僕が宴屋六郎だぞ」
 男は刀を大上段に構える。
 その構えは、知っている。
 具体的な記憶は見当たらないけれど、まあ当面問題はないだろう。
 腰の鞘から短剣を抜く。
 男はじり、と蠢く。
 虫が鈴のような鳴き声で音楽を奏でる。
 木から葉が落ちる。
 地面に到達した、あまりにもか細い音をきっかけにして。
 男は一歩を踏み出した。
 見える。
 ノイズを取り除いたかのように、すべてが明瞭だった。
 不必要な情報がすべて省かれている。
 右上から降ってくる太刀筋が、はっきりと見える。
 僕は右手に構えた短剣でそれを受ける。
 力の拮抗。きっとこのままでは短剣が折れてしまうことだろう。
 男の持つ刀は見るからに業物級。対してこちらは量産品。
 だから僕は、不意に力を抜いた。
 短剣をそのまま手から離す。
 自然、刀は上から降りる力のままに、僕の左肩へと殺到する。
 男が息を呑む。
 理由は――僕が更に前進していたからだ。
 素早く、前へ。
 僕の肩が斬られる。
 ただし、鍔の近くの刃は僕を深く斬りつけられない。刃を引くのも咄嗟には実行できない。
 一秒。
 それだけあれば十分だった。
 掴んだ矢を男の喉に突き刺すには。
「あ、がッ……!」
 男が呻く。
 僕は素早く手を引いて、喉を裂いた。
 男は姿勢を崩し、その場に膝をついた。両手で喉を押さえているけれど、血は止まらない。
 もって二十秒とみた。
 止血しようと足掻いていたが、そのうち仰向けに倒れた。
 顔が朱が消え失せ、蒼白になっている。
 それでも目だけは僕の方を見ていて、気味が悪い。
「う、うたげや」
「何でしょう」
 声に応える。
 男はごぼごぼと溺れるような音を立てながら、訊ねた。
「わ、わた、『私』は……だれ?」
 一瞬、考える。
 なぞなぞだろうか。
 しかしいくら見ても思い当たる節はない。
「知らないよ」
 僕の答えを聞き届けたか。
 彼は力尽きた。


4.

「それで、ロクロ・ウタゲヤさん。ノノヤさんの死に心当たりはない、ということでよろしいでしょうか?」
「ありませんねぇ」
 ロクロ・ウタゲヤとは何だ。僕は宴屋六郎だぞ。
 エオルゼア風に呼べば確かにそのように読めなくもないけれど。
 しかし、どこかで聴いたような響きがあり、少し気に入った。そう呼びたいものは呼べばよい。
「お疲れ様でした。ご退出ください、レディ」
 銅刃団の男は仮面で顔が見えないから嫌だ。
 言葉は丁寧だけど、どこか嫌味を言われているような気持ちになる。
 ドアを開いてバルサム連隊の詰め所から出ると、砂都の陽射しが目を灼いた。
 ナル回廊には、びっくりするほどの青空が広がっている。
「ウルダハで晴れてるとクッソ暑いんだよなぁ」
 僕の言葉とは対象的に、通りを行く人々は慣れた様子である。
 もっとも、前をはだけているような人間ばかり、あるいは半裸の男が目立つけれど。
 通りを歩く。
 コロセウムの前には列が出来ており、どの剣闘士に賭けるか議論が盛り上がっている。中には白熱からか、拳を交わしている男たちもいた。
 昼間から盛況なことだ。
 剣闘士といえばギル賭博だけれど。そういえば懐がとても寂しいことになっていることを思い出した。
 ノノヤ女史の事情聴取は完全なボランティアに終わった――銅刃団からせびる案もあったけれど、彼らに目を付けられるのは裂けたかった――し、なにか仕事をする必要がある。それに――黒外套の男を見つけて報復もしなければならない。ふんわり気味だけど、予定が詰まっている。
 しかし。
 ぐるる、と腹の虫が鳴く。
 ……そういえば腹が空いた。クイックサンドにでも行ってなにか腹に入れようか。
 そうだな、なにか冷たい飲み物がほしい。オレンジジュースなどどうだろうか。それにかりかりふわっとした、クランペット。モモディ女史の作るクランペットは、バターとの組み合わせが最高に美味しいのだ。
 クイックサンドに向かう道すがら、一人の男と遭遇した。
 黒と紫の歩兵衣装に三角帽子。斧を背負った男だ。
「ごきげんよう船長」
「ああ」
 シロー・『船長』・タッカーは大抵の場合このように気のない返事をするが、彼にとってはこれが平常運転なので気にしない。
 しばらくぶりに会ったのだけれど、彼は何も変わっていない。
 ここで何をしているのか知らないけれど、きっと意味なく立っているだけなのだろう。
 適当に返事をして立ち去ろうとすると、彼は訊ねた。
「……髪型でも変えたか?」
「え? いや何も。どこか変?」
 髪は以前から赤めに染めたままだし、眼帯は相変わらず格好いいものを使っている。
 女性らしい体型も変わっていない、はず。体重増えたりしてないよな?
 うん。
 いつも通り、僕は僕だ。
「いや。どこか違って見えるが、多分気のせいだ」
「変なこと言うね」
「別に変ではないが……」
 船長とはそのまま別れた。
 僕は汗を拭って歩く。
 青空は変わらない。
 ただ、雲だけが流れていく。
 形を変えて、今日も、明日も。

Episode : "Open Your Eyes" end

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