FF14 Origin Episode:Rokuro Utageya -Open Your Eyes- Part2

0.

 わたしの名を呼ぶ声が聞こえる。
 遠い遠い、残響のような。
 けれど確かに、それは師がわたしを呼ぶ声だった。
「きみはきっと、闘いに向いていない」
 師は度々わたしに語りかけた。
 修練を終えた夏の日。夕暮れ時の、赤と青の曖昧な空。
 夜の虫たちが幾重にも音を重ねて、音楽を成していた。
 境界が滲んだ空を見ながら、わたしたちは歩いていた。
「向いてなくとも、やらねばならないのでしょう」
 夜の湿った空気を吸い込んで、わたしは答えた。
 それがわたしの生きる意味だろうから。
 育てられた意味だろうから。
 存在価値だから。
 師は困ったような顔をして、しかし「そうだね」と言った。
 これから自分たちの家に帰るのだ、とわたしはふいに思い出した。師と二人で暮らす家。茅葺屋根の、決して広くない平屋だけれど、わたしはその家が気に入っていた。
 ――物心付いたころには、わたしは一人だった。
 それが悲しいと思ったことはない。
 寂しいでしょう。
 悲しいでしょう。
 里の人間にはそう言われてきたけれど、あらかじめ持っていなかったものの感覚を明確に想像できるほど、わたしの頭はよくできていなかった。
 寂しいでしょうと言われれば、確かに寂しい気がする。
 悲しいでしょうと言われれば、確かに悲しい気がする。
 その程度の感覚しか持ち合わせていなかった。
 寂しいとか悲しいとか、そういった感覚よりもむしろ、わたしにとっては今日の夕飯にありつけるかどうか。
 あるいは同年代の子供たちから投げられる石の方が、よっぽど切実な問題だった。
 わたしには異人の血が混ざっていた。
 村の人間から間接的に聞いたことだ。彼らはわたしの目の前で『それ』を語ることを避けていたので、確かな情報として得たのは、投げられた石で何度も傷ついた後のことだった。
 わたしはそのころ、母の育ったあばら家で生活していた。
 『こちらの人間』であるところの母が、どのような生活をしていたのか、今となっては知る由もない。あるいは母の遠縁にあたる師は知っていたのかもしれないけれど、わたしは別に知りたいと思わなかった。
 生きていくのに必要な情報ではなかった。それよりも必要だったのは、野鼠や野兎がどこに潜んでいるのか。
 どこの木に食える実がなっているのか。
 あるいは、どの植物が食用に堪えるのか。
 この小さな肉体でも生きながらえるために必要な情報。それだけが、わたしの知りたい全てだった。
「野鼠じゃなくて、鹿を獲る方法を教えてあげよう」
 ある時、師が風のように現れた。わたしはそのとき、彼が近づいてくるのに気がつかなかった。完全に意識の外から現れた彼に、わたしは動揺したまま動けなかった。
 師はわたしに小さな弓を――しかしわたしにとってはあまりに大きな弓を――与えた。
 それがわたしと師の出会いだった。


「しばらく家を空ける」
 はい、とわたしは答えた。
 月の明るい夜のこと、師はわたしにそう告げたそうして瞬く間に、彼は消えてしまった。
 師は時々家を空けることがあった。
 言わずとも『仕事』とわかる。
 「いつ戻るのか」という質問を忘れたまま、翌朝を迎えたわたしは鍛錬場を訪れていた。鍛錬用藁人形に向かって弓を射る。
 師の属する組織。わたしは彼らの運営する集落へ移り住んでいた。
 彼らは親切だった。わたしが人間への認識を改めるほどに。
 自分たちが何をしているのか秘匿していたものの、混血の孤児であるわたしを受け入れ、気にかけてくれた。
 射撃の鍛錬を終えると、指南役がみずみずしい蜜柑をよこしてくれた。皮を剥いて果実を含むと、酸の混じった甘みが口いっぱいに広がった。
 師はいつ帰ってくるのでしょう。
 彼が出ていって数日、指南役に訊ねてみた。具体的な返答は期待していなかった。
 彼は、わからないとしつつも「気づいたら『居る』だろうさ」と微笑んだ。気遣いの色が見えて、わたしの心は少し暖かくなった。
 それから何人かに声をかけられ、あるいは赤の混じった髪の毛を、ごく好意的にからかわれ、わたしは鍛錬場を後にした。
「また明日な」
 そう呼びかけてくる彼ら。わたしが得られるとは思っていなかった関係。
 『友人』と言うほど近い関係ではないけれど、『仲間』とは呼べそうな気がした。
 山に入り、前日仕掛けた罠を確認する。一箇所何者かをとらえた形跡があったが、破損して取り逃していた。
 周辺に残った足跡や暴れた形跡から、猪だと予想。血痕を辿って森の奥へと入った。
 わたしの弓術は師と鍛錬によって磨かれていった。
 もともと食欲を満たす術のひとつとして教わったが、鍛錬所に通いだしてからは仲間たちとのやり取りもあり、射撃そのものに好意を抱くようになっていた。
 ただ、ただ。
 藁人形への命中度そのものは大したことがなかった。
 それはそうだ。食物を得るために射る時間は長くとも、人を射る機会など平和な集落にいる限りありはしない。
 人形への命中率を見るたびに、師はわたしに「向いていないのかもしれない」と言った。
 それはおそらく、正しい。
 けれども孤児であったわたしを拾ったのは、おそらく人を射させるため、人を殺させるため。
 生きる術を与えてもらったからには、返さねばならないと思っていた。
 それがわたしの生きる意味だった。
 この国には『恩義』という言葉があった。
 恩義というならば、わたしを受け入れて深入りしないままでいてくれる、鍛錬場の彼らもそうだ。
 結局のところ、わたしに必要だったのは『普通』の人間関係だったのだ。
 これもいずれは返さねばならない。
 ――血痕と足跡をたどり、猪を見つけた。矢を放ち、猪を仕留めた。
 血抜きを行って背負籠に入れ、庵まで運ぶ。
 庵は山の中腹ほど。木々の切れ間から集落がわずかに見える位置に建てられていた。
 これから猪の皮を剥いで、肉を捌いて……と考えたところで、小さな違和感が生じた。
 それは匂いだった。
 鼻腔を乾燥させる、微かな煙の匂い。
 竈の火は外出前に消したはずだ。囲炉裏の火も。
 嫌な予感が止まらず、木々の切れ間を見た。
 夜の帳が降りた空に、わずかに朱色が混じっていた。
 血の気が引いた。
 背負籠をその場に落として、わたしは走った。
 山道を駆け下りたのでは遅すぎる。
 木を駆け上がり、太い枝に足を乗せた。
 木々の丈夫な枝だけを選んで飛び移る。師から教わった技の一つだ。
 麓に近づくたびに、煙の匂いは強くなる一方だった。
 木から飛び降り、地面を転がる。
 燃えていた。
 村が。
 集落が。
 茅葺きの平屋が。
 人間が。
 建材の燃える匂い。鼻をつく刺激臭。
 人肉の燃える匂い。甘い香り。
 真夏の昼間かと思うような熱を持った風が吹き荒れる。
 人の姿はなかった。生きている姿は。
 そこら中に黒焦げの物体が倒れていた。
 燃える鍛冶屋の軒先に倒れている物体が、わたしに蜜柑をくれた指南役と、その息子のものだと気づいた。
 肉の焼ける甘い匂いが、吐き気を催させるものだと思わなかった。
「みんなは……」
 鍛錬場に通う仲間の皆は、どうしたのか。場内には宿泊所もあったはずだ。
 煙を吸わぬように口と鼻を袖で抑えて移動した。
 火を避けて移動すると、普段の倍ほども時間がかかった。
 鍛錬場に火の手は及んでいなかった。
 しかし、人の姿はない。
 周囲の火の勢いを見ると、炎が回るのは時間の問題と思われた。
 庭を横切って宿泊所のある裏手まで回る。
 十数人。
 横たわった死体の数だ。
 いずれも武器を手にして倒れていた。左手に見たことのない篭手が嵌まっている。暗器だろうか。
 生徒たちの死体の中央に、黒い影があった。
 直感が走った。
 それは敵だ、と。
「――――」
 そいつは低い声で何事かを呟いた。およそ人の言葉では思えぬものだった。
 わたしは弓を構えて、矢を放った。
 迷いはなかったが、冷静さは欠いていた。背中を焦がすような恐怖心がわたしの手を動かした。
 日頃の鍛錬とは裏腹に、矢はまっすぐ飛び、彼の頭を捉えた。
 だが倒れることはなかった。
 背後から大きな熱を知覚した次の瞬間、わたしは地面に転がっていた。
 背中が焦げているのがわかった。背後に回った影が、わたしに火を放ったのだと、後から理解した。
 次にとどめの一撃が来る、と直感でわかった。
 わたしは目を瞑る。
 短い人生であった。不思議と悔いはない。
 ささやかながらヒトとして生きることもできた。
 過ぎた幸福だったが、師がこの場にいないことが救いだった。
 しかし、何事か。
 それが来ない。
 わたしは目を開く。
「……先生!」
「やあ」
 彼の背後から煙が立ち昇っていた。
 なぜ。
 彼がこの場にいるのか。
 彼はわたしを庇ったのか。
 わからない。わたしには何もわからなかった。
 影が何事かを詠唱している。
「先生、逃げてください」
「そんなことしたら、弟子を取る資格なしって怒られちゃうからなあ」
 周囲から、天に届くほどの炎が立ち上がった。
 無事であった鍛錬場も炎に呑まれた。
「楽しく生きてね」
 彼はわたしを投げ飛ばした。
 空中の浮遊感。
 それを感じた次の瞬間には、わたしは水中にいた。師の手によって池に投げ込まれたのだ。
 大きな光が水面から差し込んだ。水中で減衰されたそれは、しかし目を瞑るほど絶大な炎だった。
 急いで水面に上がった。
 今までの炎など生易しかった。もはや跡形などなかった。
 すべてが焦げ落ちていた。
 死体があった場所には、地面に黒い焦げ痕が落ちているだけだった。
 先ほどまで師がいた場所にも、それはあった。
 空は夜とは思えぬほどに紅い。
 見上げると、龍がいた。
 我々の知る龍とは違う姿形をしていたが、それはトカゲに似て、龍としか呼べないものだった。
 『龍の化け物』が炎を放つ。
 無数の玉へと分かれた炎は、地表のあらゆる場所に着弾し、炎の柱を巻き上げた。
「せんせっ……!」
 なおも彼の姿を探そうとするわたしに。
 炎の粒が、左目を灼いた。


*******

「っ……!」
 激痛にわたしは飛び起きた。
 板張りの室内。
 花の香りが静かに漂っている。
 ここは、とまり木?
 見覚えがある。何度も利用した、グリダニア新市街の旅館だ。
「お目覚めになりましたか」
 幻術士と思われる女性がわたしを見守っていた。
「ひどい傷でしたが、とりあえずの処置は終わっています。丈夫な体をお持ちですね」
 幻術士はそれからいくつかの注意事項――概ね安静にしているように、しばらく戦闘は控えるようにという話だ――を伝え、退室した。
 わたしがある程度幻術の心得があると知っているのだろう。ギルドに出入りしていたから、顔を覚えられているかもしれなかった。
 戦闘用の装束は脱がされ、簡素なローブを着ていた。
 室内に備えられた泉に向かう。
 体を起こすと、確かに全身に痛みが走った。
 これでは禁止される前に戦闘を行おうなどとは思えない。彼女の注意は杞憂にすぎる。
 顔を洗おうと泉に顔を近づけると、水面に顔が映った。
 普段身に着けている眼帯が外れている。白濁した瞳がわたしの顔を彩っていた。悪い意味で。
 ――夢で見た過去の通り。
 わたしは左目の光を失っている。
『里の報復のために己を宴屋六郎と定義したか』
 この傷を負わせた男の声が頭に響く。
 そうだ。
 わたしの目的は復讐だ。
 里を、里の皆を消した連中を探し出してぶち殺す。
 師を殺した連中をぶっ殺す。
 わたしの左目を灼いた連中を残らず皆殺しにする。
 心に暗い炎が再び灯った。
「しかしまぁ、とりあえずは元気にならねば」
 とまり木はカーラインカフェに繋がっている。
 健全な肉体を取り戻すために、わたしは平服に着替えて外に出た。
 食事をしよう。
 アンテロープのシチューとお茶を注文してテーブルで待つ。
 ――全身に傷を負わせた、あいつ。
 わたしの事情を知った風な口を聞いていた。奴ならわたしが報復すべき連中についても何か知っているかもしれない。
 昨日までに受けたあらゆる痛みは、この機会のためにあったのかもしれない。
「相席しても?」
「いえ、どうぞ」
 正面に腰かけた相手を見ずに答えたが、声色に聞き覚えがあった。
 いやしかし。
 そんなまさか。
「オ・リナ?」
 相席になったのはサンシーカーの女性。どう見ても数日前に賊たちの餌食になったオ族のミコッテだ。
 涼しい顔をして椅子に腰かけている。その手にはフラットブレッドが握られていた。
「生きて――」
「まあそんなわけないよねぇ」
 彼女の声が唐突に低い男性のものになる。こちらにも聞き覚えがある。
 わたしに重傷を負わせた張本人の……!
「おっと。街中で刀傷沙汰は不味いぜ。仕舞いな」
 懐に手を入れたのを見て、彼女(あるいは彼)が制止した。投擲用の短剣を握っていたが、鞘から取り出すのをやめた。
 けれど、決して柄から手を放しはしない。
 目立つのは良くない。
 それに冷静に考えて、この場でこいつを殺す意味がない。
「……なぜ再び現れた」
「ヒントを渡していないと思ってな」
「どういう意味だ」
「お前に俺を追ってもらおうと思っていたんだが、うっかりしたことに全く手掛かりを渡していなかった。俺の仕事ぶりが完璧すぎてな」
 オ・リナの顔をしたそれは、バターナイフを振って笑みを浮かべた。
「まがい物の宴屋は、手掛かりなしで俺を見つけることができないだろう?」
「ふざけた男だ」
「だからそう殺気立つなって。いちいち短剣を握りなおすんじゃないよ。もっとも――」
 ミコッテの手元がぶれたと思った次の瞬間。
 バターナイフが、わたしの首元に添えられていた。
 切れ味は悪いだろうが、この者の手腕であれば、わたしの命を奪うことなど容易いだろう。
「別にここでお前を殺したって構わない。俺は街から無事に出られる自信があるし、目撃者がいたとしても追われるのは『この顔』だ。俺じゃない」
 オ・リナの手は翻り、フラットブレッドにバターを塗った。ミコッテの尖った犬歯をパンに突き立て、旨そうに頬張っている。
「既に推察していると思うが、この顔も、前に会ったときのフォレスターの顔も、俺じゃあない」
 鬼哭隊士、ユノー。彼はやはり、本人ではなかった。
 何らかの魔術、あるいは技術が使われているのは推察済みだ。
 彼はわたしの考えを見透かしている。
「なんならこの声も俺じゃなくて鬼哭隊士の声よ。人間を二人混ぜた状態ってこったな」
 無論二人とも死んでいるがね。
 くくく、とおかしそうに笑った。
 女性の顔から男性の声が出力されている。異様な光景に、わたしの頭は痛みを覚えた。
 彼はパンを食べ終え、珈琲を飲み干した。
「これが手掛かりだな。ここまで明かしてやりゃ追いつけるだろ。情報屋でもなんでも使って追いかけてくるんだぜ」
 立ち上がり、わたしに向かって手を振りさえした。
 そのまま微笑みを浮かべてカフェから出て行った。
 ――舐められている。
 馬鹿にされている。
 懐の短剣から手を放した。
 くそ。
 拳を作り、食卓に叩きつけた。大きな音に、店内の人間がこちらの様子を窺う。
 おそろしいものを見るような表情のまま給仕がやってきて、シチューとお茶を置いた。
 腹に何かを入れる気には、なれなかった。


1.

「情報に合致する人物はいない。ただ、合致する噂だけはある」
 リムサ・ロミンサ。溺れた海豚亭の、人気のないテラス。
 黒ローブに身を包んだ情報屋はそう告げた。
 確かな情報ではない。だからギルを支払うほどの価値はないのだ、と彼は言う。
 別に構わない。それで辿れると本人が言うのだから、その噂が彼の蒔いた種なのだろう。
「無貌(むぼう)だ」
「……顔なし?」
 情報屋は、その場で紙に書いてみせた。
 東方の言葉だ。わたしには文字の意味が理解できた。
「東方に出入りするアルデナード商会系の商人から聞いた話なんだが、エオルゼア風に言えば『フェイスレス』ってところか。誰にでもなれる、誰でもない暗殺者、だそうだ」
 確かにこれは、情報と合致する。
「だけど――だけど、それだけだ。噂だけしか残っていない。もし本当に、あんたが言うようにフェイスレスが存在すると言うのなら、これがどれだけヤバいことなのか、あんたもわかるだろ?」
「……忠告はありがたく受け取っておくよ」
「あんたは金払いのいい客だ。いなくなってもらっちゃ困るよ。できれば早々に手を引いてくれ」
 黒ローブの情報屋はそう言い残して去っていった。
 海から流れてきた、夜の潮風が顔を舐める。
「フェイスレス、ね……」
 渡された一枚の紙を眺める。
 そこには件のウルダハ商人の名前と、所在が書かれていた。
 ひとまずの手がかりを得たわたしは、さほど迷うことなくウルダハを訪れることにした。
 手を引けという忠告に従ったところで、フェイスレスがわたしを狙って現れることはわかりきっている。
 どんな姿形にでもなれる男。種族や性別など奴の前では問題ではない。
 あまりにも暗殺に向いた能力で、彼自身の技量も一流ときた。
 たとえ誘い込まれているとしても、受け身でいれば一瞬で殺されるだろう。
 だとしたら前進した方がいい。死ぬときは前に倒れて死ねとよく言うし。
 その後数日をかけてウルダハへと移動した。人混みを避け、追跡を回避するような手段を使って移動したけれど、フェイスレス相手にどこまで効果があったものかわからない。
 あるいはわたしを神経症にでもするのが目的か。
 それまで人混みを避ていたけれど、サファイアアベニュー国際市場では不可能だ。ウルダハ内外、ザナラーンから黒衣森、ありとあらゆる商人が立ち寄る市場では、人と人との隙間を見つけること自体が難しい。
 少しでも気を抜けば他人と肩がぶつかり、隙を晒せばスリに懐を探られる。
 最大限の警戒のまま歩き続け、通りの一角に辿り着いた。扉の先には貸し倉庫を改造した店舗があり、小商店を営業しているという。
 件のウルダハ商人の店だ。
 情報屋からもらった書類によると、表立った商売を行っていない。ゆえに、扉の脇には私兵が立っている、はずなのだが。
 存在しているべき姿がない。
「……嫌な予感がする」
 口にしたところで事態が進展するわけでもない。
 意を決して扉を開いた。
 それは二重扉になっており、通りから中が見えないようになっていた。商品を運び出す際に邪魔にならないのだろうか。
 果たして、中身は伽藍堂であった。
 灯りは消えており、窓には遮光窓掛けがかかっている。僅かな隙間から日光が漏れており、室内に薄い暗闇を作っていた。
 奥行きまでは見えないが、ルガディン二人が横並びになれる程度、の横幅か。
 紫煙の臭いが鼻を突く。商談机の上には灰皿があり、葉巻に火が燻っていた。
 先程まで何者かがここで葉巻を味わっていた。吸口の方向から察するに、部屋の主のもののようだ。
 ……換気が悪く、紫煙に誤魔化されているが、わたしの別の臭いを感じ取っていた。
 錆びた鉄のような臭い。おそらく血液だ。
 室内に歩を進める。
 と。
 左手方向から刃が差し込まれる。
「想定通りだ」
 短剣で銀の煌めきを弾いた。
 引っ込めようとする腕を掴み、引き寄せる。ついでに足を踏みつけておいたので、簡単に平衡感覚を失い、床に倒れ伏した。
 状況に対応される前に短剣を喉元に突きつけると、相手は抵抗するのをやめた。
 暗がりで顔はよく見えないが、口元を覆う布。
 体格からハイランダーだということがわかる。典型的なウルダハ流民の賊だ。
 おそらく雇われであろう。尋問を行ったところで大した情報は得られないだろうなと思いつつ、喉に突きつけた刃をわずかに揺らがせる。
「お前は――」
 わたしの質問はしかし、彼に届くことはなかった。
 光を失った目がずきずきと痛みだし、咄嗟にわたしは出口の方へと転がったのだ。
 刹那、闇の中に閃光が瞬く。
 五回ほど回転した後に、熱い風がわたしの体を舐めた。
 正確には風ではない。
 炎だ。
 手放した賊が盾となり、炎の大部分を防いだ。感覚から軽度の火傷と診断。男は軽度では済まない。死んだか、死にかけているかのどちらか。
 いずれにせよ彼にかかずらう必要はない。
 酸素の燃焼に従い、枯渇していた空気が出口から勢いよく供給される。
 わずかな陽射しが曖昧にした闇の中で、動く影あり。
 その人物――明らかに人影なのだ――は、窓掛けに向かって飛び込んだ。黒布を引きちぎり、硝子を砕きながら外へ脱出。外の通行人たちから悲鳴が上がる。
 わたしは立ち上がり、出口から駆ける。
 陽光に目が灼かれる。瞼を閉じたい衝動に駆られるが、瞼を開き続ける。
 明順応していく中で、黒いローブをまとった人物を見つける。一瞬で人混みの中に紛れていくのが見えた。
 背中を追う。通行人や商店の客たちでごった返した通りを、肩や腕に強くぶつかりながら前進する。
 思うように前に進めない。遅々とした歩みだが、影のことを見失わないように努める。
 背丈は高い。頭をフードで覆い隠し、ローブを纏っているため、種族が特定できない。つまり、男女も特定できない。
 しばらく同じような速度で進んでいたが、前方を進む影が視界から消えた。内心焦れながら追うと、影は先に人混みを抜けたようだった。後続のわたしが同様に人混みから抜け出すと、ザル大門を抜ける姿があった。
 どこから手配したか、チョコボの背に乗っている。人の足より遥かに早い獣によって、こちらとの距離はぐんぐん離されていく。
「逃がすか……!」
 わたしは懐から小さな笛を取り出した。人混みの中の疾走によって手汗が滲んでいる。
 手だけではない。額にも汗が伝っていた。
 笛を口にあて、肺の中身を吐き出した。
 ぴぃぃ、と甲高い音が響く。
 影はどんどん遠くなっていく。これまでじっと見つめ続けていなければ、それがローブ姿の襲撃者であることなど、わからないくらい小さな影となっていた。
 背後から地面を軽快に踏みしめる音が聞こえる。
 それが何者なのか、振り返らずともわかる。
 高い鳴き声を挙げて、それはわたしの隣に並走した。
 タイミングを見て、手綱を手に取り、鐙に足をかけた。一気に彼に飛び乗る。それは雪のように白い羽根に覆われた、チョコボだった。
 わたしの愛羽、クリードだ。
 手綱を強く握ると、彼は一気に加速した。人間の速度から、獣の最高速度まで急加速。
 中央ザナラーンの乾いた大地を俊羽が駆ける。時折地面から突き出た岩や石ころなどなんのその。二本の脚で器用に避ける。
 風がびゅんびゅんと切り裂きながら、彼は進む。周囲の風景――ウルダハ操車庫のレールも一瞬で流れていく。
 命令を下さずとも、手綱を動かさずとも、わたしにとって何が必要なのか、彼はわかっている。賢い子なのだ。
 彼の負担にならぬよう、また激しい揺れに対応できるように、腰を少し上げる。鞍には体重をかけず、鐙を支えにして乗る形だ。
 背中の体重が移動したのを理解したようで、クリードはさらに速度を上げた。
 前方のチョコボとの距離が縮んでくる。
 大雑把に計算しても、このまま二十秒ほど走れば影に追いつくことができる。
 が、それまで待てない。
 逃走中の襲撃者はスートクリーク――刺抜盆地とブラックブラッシュの境界川だ――を抜けようとしている。
 奴がどのような逃走経路を採るのかはわからないが、この先は岩場が増える。障害物が多いのは追撃するわたしにとって不利だ。見失う可能性がある。
「だからここで撃つ」
 わたしは背中に括り付けていた短弓を取り出した。
 羽上弓術はさほど得意ではない。東方の馬ならまだしも、エオルゼアに来てから乗るようになったチョコボでは勝手が違いすぎる。
 クリードの首の付け根を優しく叩く。賢いチョコボは察したように、少しだけ速度を落とした。それに伴って走行の揺れが半減する。
 左手で弓を構え、矢をつがえる。
 短く息を吸い込み、呼吸を止める。
 羽上射撃は得意ではない。
 ――的確に『ヒト』に命中させ、絶命いたらしめるのは。
 弦によって押し出された矢は勢いよく空中に滑り出した。
 大気を切り裂き、それは前方のチョコボの脚に着弾。
 大きな影が砂塵の上に転がった。
 手応えあり!
 わたしの胸中はにわかに喜びに満ちた。
 しかし。
 何かが飛来する音、が聴こえたと思ったら。
 破裂音。
 次の瞬間、天地がひっくり返った。
 わたしは砂を食っている。
 認識が遅れる。違う。脳内の整理に伴い認識を訂正。
 わたしは地面を転がっている。
 クリードが哀れな声で啼いている。
 頭が混乱しているが、なんとか正しく認識する。
 愛羽が転倒したのだ。
 地面に這いつくばったまま、周囲を見る。
 クリードはその場に倒れている。
 わたしの左肩から矢羽が飛び出ていた。一瞬背筋が冷えたが、折れた矢が浅く突き刺さっていただけだった。負傷にも数えられない。
 妙なのは『折れた矢』の先端が黒く焦げていたことだ。
 地面にも同様の黒焦げが見られた。
 脳内に閃きがあった。
 正確な安全地帯は不明ではあったが、わたしは急いで岩陰に転がった。
「クリード! その場を動くな!」
 推察する。
 不完全な矢。
 先端の焦げ付き。
 地面の黒。
 破裂音の直後に天地の反転。
 結論、爆薬を装着した矢がクリードの足元に撃ち込まれ、驚いた彼が転倒した。
 射手の位置は不明ながら、この土地で誰かを狙撃するなら場所は限られている。この岩陰はおそらく正解である。
 反対側には――フェスカ展望台がある。
 展望台とは通称であり、それは天然の岩場だ。湧水地でもあるため、岩全体が苔むしている。
 狙撃するにはいささか近い位置だが、爆薬を括り付けているなら理解可能だ。矢の重量が増えているため、距離が伸びないのだ。
 岩から水が吹き上がる音が聞こえる。岩のすぐ傍で川が流れていることもあり、音で状況を探ることは難しい。
 晴天の陽が体を焼く。
 近くに茂った枯れ草がちくちくと肌を刺す。
 緩やかな丘が遮り、アラグ星道方面は丘によって視界が遮られており、様子を伺うことはできない。逃亡者が無事なのか、倒れているのか。それすらも。
 わたしは歯噛みした。
 前向きになれる情報を整理する。
 敵はおそらくフェスカ展望台に位置している。わたしは岩場で現状安全である。
 爆発の二射目がない。何らかの理由で爆発物が用意できていない――多分。敵方に爆薬が残っているならば、わたしを燻り出すことなど容易だろう。
 情報から推察すると――これは足止めだ。落羽させて無力化できれば良し、できなくとも現在のような膠着状態にできれば良し。どちらに転んでも連中の得になる。
 そのように計算されている。
「心当たりしかない手だな……」
 苦笑する。
 だとすれば、わたしがすべきことは一つしかない。
 短弓を左手に。右手で矢をつがえる。
 空気を深く吸い込む。
 そして呼吸を止める。
 耳を澄ませる。
 ……小さな『兆候』を耳にした。
 瞬間、地面を蹴って飛び出す。
 手前の岩から水が噴き出した。天高く飛び上がったそれは、陽光を受けて煌めきの粒と化した。
 出たとこ勝負。
 空中を滑りながら目標を確認。ローブを纏った小さな人物。あれはわかる。ララフェル族だ。
 その体勢のまま矢を放つ。的は小さいが、この距離で外す理由にはならない。
 果たしてわたしの矢を受けた影は倒れ伏した。
 反撃はなかった。噴出に合わせた奇襲が功を奏した……のだろうか。
 自信はないが、調べている時間はない。わたしは立ち上がり、地面を蹴って走り出した。
 丘を越えた先、逃亡者の影は既にない。ただ、わたしの矢を受けたチョコボのみがその場にうずくまっていた。
 近づくとチョコボは小さく呻いた。命に別状はないが、弱っている。
 手掛かりはないか探ってみると、チョコボの首には認識票が巻かれていた。どこかの業者から貸与されたものだろう。
 認識番号を手帳に書き込んでチョコボから離れた。
 業者のものであれば、下手に触れない方がいい。攻撃を加えておいて何をと思うが、一応矢を折って抜き、包帯を巻いておいた。あとは勝手に戻るだろう。責任は借り主にある。
 ローブの男は影も形もなかったが、手掛かりはある。
 わたしはしゃがみこんで地面を観察する。荷車の轍やチョコボの足跡に混ざって、人の足跡が刻まれている。
 ザナラーンの大地において、『新しい足跡』を見分けるのはそう難しいことではない。巻き上がる風は常に砂を含んでおり、足跡に溜まった砂の量で概ね判断が可能だ。
 わたしは足跡を辿り――ローブの人物に追いついた。
 ただし、成果はなかった。
 その男――ミッドランダーの男性だった――は、『人形』状態だったのだ。
 目は濁り、どこを見ているわけでもない。こちらの声に対しての反応は全くと言っていいほどない。
 ただ『逃げる』という手段を実行するだけの傀儡。
 呪術的傀儡。あまり見たことはないが、人の意思を奪い、命令を埋め込む禁術だ。
 狙撃手に反撃の意思が感じられなかったのも納得だ。
「何が納得なのか……」
 調べたところ、彼の記憶はすべて漂白されている。全くの記憶喪失と言っていいだろう。
 それどころか意思もない。もはや完全な植物人間状態である。
 調査するだけの余裕もない……というより、一刻も早くこの場を離れなければならない。追いかけ回した対象がこのような有様であるならば、わたしはどう見ても容疑者の最有力だ。
 他の手掛かりを探っているうちに、一つの小箱を発見した。木製だが、年季が入っている。縄で十字に封がしてあったのか、その部分だけが周りと比べて白く残っていた。
 慎重に小箱を開けるが、中身はなし。長方形の窪みが作られており、何か貴重なものを納めるものであったことだけがわかる。
 ……微かに魔力の残留が見られる。わたしはエーテル学については専門家ではないが、同じ波長を辿るくらいのことならできる。
 注意深く周囲を観察してみると、小箱に残ったものとよく似たエーテルが残留していることがわかった。
 辿れる。
 この程度なら、足跡のような明らかさで、辿ることができる。
 だがしかし、従っていいのだろうか。
 良くないに決まっている。明らかにフェイスレスに誘われているからだ。
 奴の実力ならば、本来痕跡など残すはずもない。単純にわたしが誘導されているのだ。
 彼の目的はわからないが、わたしに危害を加えたいのはわかる。
「わたしがこの罠に乗るしかないのも、わかっている」
 非常に腹立たしいことだが、来いと言うなら行くしかない。
 時は夕刻に迫ろうとしている。ここは銅刃団の警備巡回路だったはずだ。一刻も早く立ち去らねばならない。
 これ以上、この人形を調べている時間はない。
 わたしは小箱を手に、歩き始めた。


2.

「おい、調子はどうだい」
「大したこたねぇよ。夜中の出港だ、他に船もなし。風もなし。雲もなし。これ以上なく快適な航海で欠伸が出ら」
「ちげぇねぇ。たーだもうちょい小さな声で話せ。前にこの部屋を掃除したときによ、廊下の声が丸聞こえだったンだ。『お客人』に聞こえちまわぁ」
「げっ、マジか……」
 以降は声も小さくなり、会話の内容は曖昧な音に変わった。
 しかし『船員が何かを話している』ということ自体はわかる。
 だからわたしは、物音にはひどく気を遣った。
 腕の中にある死体を床に転がすのも、余計な音を立てないように最新の注意を払った。
 黒衣を纏ったゼーヴォルフの女性。筋骨隆々逞しく、体に一切無駄はなし。
 喉から溢れた血が黒衣を濡らしている。それを成し遂げた凶器はわたしの右手にあった。短剣の血を拭き取り、腰の後ろの鞘に収める。
 おそらく訓練を受けた屈強な戦士だろう。正面から戦っていれば、苦戦は間違いなかった。
 正面から戦いを挑むほど、愚かではないが。
 ……残留エーテルを追って、わたしはベスパーベイ――ウルダハの抱える港町――に辿り着いた。
 港には一隻のガレオン商船が停泊しており、荷物の積み込みを終えて出港間近という頃合だった。
 残留エーテルは船を示していた。このタイミングで公に乗船するのは難しいと考えたわたしは、忍び込むことにした。
 言葉にすれば簡単だが、言うほど単純なことではない。
 『長時間ある場所に掴まったまま耐える』という訓練はわたしにとって基礎中の基礎だったが、船体というのは初めての経験だった。些細な波による揺れも、握力および腕力を消費するのに十分な威力を持っていた。
 港からは見えづらい船体の縁に掴まって、出港が落ち着くのを待った。日は暮れていたので、甲板に上がるのはさほど難しいことではなかった。
 船旅の客も多く招き入れているため、船客の出歩くエリアは堂々としていれば良かった。エーテルを辿ると一等船室にまで続いていた。ここから先は一筋縄ではいかなかった。
 一等船室の前には二人の見張りが立っており、ただでは通してもらえそうになかったのだ。
 こういった場所での暗殺ならば、換気用の送風管を通ることも選択肢に入っているが、生憎急な乗船であり、船の構造には明るくない。
 そもそもを言うと、商船への侵入はもっと綿密な計画を立てるべきなのだ。船は密航を防ぐためにチェックが厳しい。身分の怪しい人間には定期的にチェックがかかるのだから。
 わたしは他の船室を巡り、情報を集めた。話の一つに、一等船室からは外の景色が眺められるらしいというのを知り、再び甲板へ戻った。
 船員の視線が途切れる瞬間を狙い、再び船体の縁へ移動。
 回復した握力と腕力で船の側面を伝って移動し、灯りとエーテルの漏れる窓を探し当てた。
 あとは簡単な仕事だった。
 船客の彼女はこちらを見ていなかったし、注意深く金庫に鍵をかけている最中だった。
 背後から忍び寄って、短剣を走らせた。気配を消すのは得意なことの一つだ。
 ゼーヴォルフの女性が何者だったかはわからない。単なる乗客だったかもしれないし、あるいはフェイスレスの手の者だったかもしれない。
 わたしは罪のない人間を手に掛けたかもしれないが、しかしまあ、『小箱の中身』を持っている時点で《無貌》に関連した人間であることは間違いない。多分殺して正解だったのだ。
 ――彼女の懐を探ると、目的のものが見つかった。小さいが、しかし精緻で複雑な構造の鍵。静かに室内を移動する。
 棚に収められた金庫に鍵を挿し入れると、小気味のいい音を立てて扉が開く。
 中身は――紙だ。
 手のひらよりも少しだけ大きな長方形。墨でびっしりと幾何学模様と、東方の文字が記されている。
「……読めないな」
 おそらくわたしの知るそれよりも、ずっと古い言葉だ。解読には専門家の知識がいるかもしれない。
 その外見と、禍々しさを帯びたエーテルから呪具であろうことはわかった。持ち主に幸運をもたらすような代物ではないだろう。
 持ってきた小箱に仕舞う。
「おめでとう、偽物くん」
 突然背後から声が上がった。ゼーヴォルフのものかと思い、短剣を抜き放つが、彼女は変わらず足元に倒れていた。
 一人の人物が窓辺に腰掛けている。色素の薄い髪、健康そうな肌。長身。イシュガルド貴族風のフォレスターだが、見知らぬ男。
 だが予測は付いた。
「……フェイスレス」
 この場面で現れるなら、《無貌》その人しかあり得ない。
「大正解。商品に紅茶なんてどう?」
 人好きのしそうな笑顔を浮かべ、杯を掲げて見せる。
「なぜこの呪具を辿らせた?」
 無視すると彼は残念そうな表情を作り、杯に口をつけた。
「辿らせたなんて人聞きの悪いことを言うなぁ。きみが勝手にやったんじゃないか。女性まで殺してさ」
 彼は声量を抑える様子がない。もしこの会話が外に漏れていたら――。
「ああ、心配しないで。『人払い』は済ませてあるからさ」
「…………」
 殺したか。確かに表から声は聴こえない。
 不安材料の一つは消えた。
「私の殺しに対して眉くらいひそめてほしいものだね。まったく、我々も業の深い故郷を持ったものだ」
 当時は意識していなかったが、わたしは暗殺者としての訓練を受けている。殺人に対する感情――罪の意識や良心の呵責といったものとは無縁。完全に制御可能だ。
 だから先程まで他愛のない会話を交わしていた船員の命がどうなろうと、わたしには直接関係がない。意味がない。
 訊くべきことは他にある。
「フェイスレス、お前は里の人間なのか?」
「その質問については肯定で答えるべきだろう。ただし、過去形で」
 彼は喉を鳴らして笑った。
「故郷と私の間には、紅玉海よりもずっと深い確執があってね。まあ、きみが来た頃にはもう、私は里の人間ではなくなっていたけれども。悲しいことにね」
 言葉とは裏腹に彼の口ぶりは至極楽しそうだった。
 そのちぐはぐな感情に少々の目眩を覚える。
「何が目的だ」
「策謀をめぐらしている人間が、その質問にまともに答えるとでも思っているのかい?」
「……わたしの命が目的なら、いつでも殺せたはずだ。なぜそうしない? どういう意図がある?」
「直接訊いてしまうのが未熟なところだよね。ちょっとは頭を使ってほしい。あるいは使った末にわからないから回答を求めているのかな」
 愚鈍極まる、と彼は言った。
「うーん。単純にきみを殺したって私は全く問題ないんだけどさぁ。ただまぁ……やっぱり、問題があるんだよね」
 彼は杯を揺らす。船室の窓から、波の音が流れ込んで来ていた。
「宴屋六郎を騙ったまま死なせたくはないって感じかな。きみを殺すのは簡単だけど、宴屋六郎として死んでもらっちゃ困るんだ。私と彼は浅からぬ因縁があってね、まあ有り体に言うとオトモダチなんだ。きみみたいな偽物が宴屋を名乗ったまま、宴屋としてこの地で死ぬのは――虫唾が走る」
 ほとんど言葉に色がないまま話していたが、最後の部分だけは憎悪が滲み出ていた。わたしの背筋に冷たい汗が落ちる。
 言葉の終わりに向かうに連れて圧が増していたのを自覚したのか、彼は柔和な表情を作った。
「いけないいけない。私としたことが、冷静さを欠こうとしていたようだ。話題を変えよう」
 手に持った杯を机に置いて、彼は――フェイスレスは借り物の笑顔を浮かべた。
「この殺人と呪具の取得まで、きみがきみの意志で実行したものだという話はさっきしたね。手段も殺人の意志も、私の誘導ではなくきみの意志であることは、この私が保証しよう。けれど一点付け加えるなら、このシチュエーションを用意したのは、確かに私だ」
「……どういう意味だ」
「ウルダハでの火炎魔法。狙撃から、逃走対象の追撃。残留エーテルの追跡と、商船への潜入」
 フェイスレスは白の手袋に包まれた指を折り曲げて数える。
「そして呪具の強奪。いやぁ用意するのは大変だった。でもしっかり覚えていたよ。かつて宴屋六郎が同じ状況で挑んだ任務、私は近くで見ていたからね」
 なに。
 なんと言った。
「再現だよ。宴屋六郎の任務を再現したんだ。もちろん細かな場所は違うけれど、できるだけ似た場所を選んだつもり。楽しんでいただけたら良かったけど、どうだろうね。偽物のきみはやっぱり、偽物だよ」
 彼は片目を瞑って見せる。
「だって本物の宴屋六郎は、誰も殺さずに実行してみせたんだから」
 わたしは何も答えられない。
「翻ってきみはどうだい? 死体、死体、死体の山さ。殺して、殺して、殺しまくってる。彼は腹立たしいことに、不必要な殺人は行わない男だったよ。きみは宴屋六郎を名乗っているけれど――自分を宴屋六郎と規定しているけれど、彼のことを知っちゃいないのさ。皮を被っているだけに過ぎないんだ」
 わたしは何も答えられない。
「一時的な感傷から、きみは宴屋六郎を続けることにしたんだろう。目的は復讐だね? 里を滅ぼした連中を見つけ出して殺してやろうと思っている。そのために、自分を支えるために、宴屋六郎を名乗ることにした。志はご立派かもね。でもさ、結局それは自分の持つべき責任を、他人に投げているだけに過ぎない。本当に彼を名乗るなら、完璧に彼を模倣するべきさ。恐ろしい話だよね、『できるだけ殺さないようにしていた人物』の真似をしている自覚があるのに、彼のことなんかほとんど知らず、殺しまくっているんだから。劣化模倣だよ、きみは」
 劣化模倣。
「それじゃあもう、名前を借りて好き勝手暴れている偽物でしかない。……ねえ、私に教えてほしいのだけれど」
 フェイスレスは笑っている。
 彼はずっと笑っている。とても楽しそうに。
「きみは一体誰なんだ?」
 わたしは。
 何か言葉を紡ごうとして口が動く。
 しかしそこから漏れたのは、かすかな吐息だけだった。
 その様子をしばらく眺めていたフェイスレスは、口を開いた。
「よぉし、じゃあ状況再現の最終章をやろう」
 ぱちん。
 彼が指を鳴らすと、どこか遠くから大きな音が聴こえてきた。
 それは――爆発音だ。硝子が砕けるような音、多くの人の悲鳴が聞こえる。
 船体が大きく揺れ、傾きが戻らない。船は大きな損傷を受けている。
 よろめき、倒れそうな体で踏ん張る。
「その日、宴屋六郎の潜入した船は不慮の事故により積載していた火薬に引火。船体は大きな損傷を受け、海に沈没する。しかし彼は呪具を保持したまま無事帰還、任務完了だ。さてさて、実にハードな任務だけれども、これがきみに遂行できるのか。これまでと同様、私はしっかり見ているよ」
 以前借り物の笑顔を貼り付けている彼は、窓枠に手を掛け、続けた。
「もし帰還できたならだけど――そうだな、呪具は呪術師ギルドにでも持ち込みたまえ。あそこじゃなければ、調査に骨が折れるだろう。時間短縮のために、名前まで教えてあげよう。そいつの名前は《シラガミ》だ。それじゃ、よろしくね」
 言うが早いか、彼の姿は消えていた。
 再び爆発音が響き、より大きく船が傾いた。
 ゼーヴォルフの死体が転がり、壁にぶつかって停止。
 わたしの体は自然と動き出した。生存に向けて手と足が動く。
 でも。
 これを動かしているのは誰だ?
 生存しようとしているのは、生き残りたいと思っているのは、誰だ?
 『わたし』とは――一体誰なのだ。
 わからないまま手と足が動く。
 平衡感覚を失いそうなほど傾いた床を這うように移動し、窓枠に手を掛けた。
 フェイスレスの後を追うのは癪だが、船内を移動していては間に合わない。一刻も早く船外へ出る必要がある。手を掛け、足を掛け、再び船体に取り付く。
 船の浸水が早いのか、既に船体が沈みつつあった。
「落ち着いて! 冷静に! 順番を待ってください!」
「早く降ろして、もう耐えられない!」
「子供がいるんだぞ!」
「知るかぁ! 金払ってんだ!」
 甲板は混沌としている。乗客が恐慌状態に陥っており、船員の誘導が進んでいない。
 避難用の小舟に乗る手も考えたが、あれでは間に合うまい。
 だとすれば、方法は一つしかない。
 わたしは赤い胴衣と、革のブーツを脱ぎ捨てた。割と気に入っていたのだが。
 船体を蹴って、空中へ。そのまままっすぐ海面に飛び込んだ。
 着衣水泳は苦手ではないが、海上遭難に近い状態で続けられるほど自信があるわけではない。
 夜の海水は冷たい。飛び込みの勢いが死に、海面へ浮上。商船から離れるように泳ぐ。
 このまま船が沈んでいくなら、近くにいるのはまずい。沈んだ船から浮上してきた貨物による負傷を避けたいからだ。
 幸いにして爆発の影響か、あるいは人々の喧騒から生まれたものか、数枚の木板が浮かんでいた。
 防水加工してあるなら良し、そうでなくも水を吸い切る前までは泳ぎの補助になるだろう。
 振り返ると船の火災は勢いが増していた。時折大きな炎が上がり、海上を明るく照らす。一時的に生まれた橙色の光が、かえって夜の闇を強調していた。
 わたしは足をばたつかせながら、考えずにはいられなかった。
 これも、宴屋六郎と同じ状況を辿ることができたのだろうか。
 あるいは間違っているのか。
 詮なきこと。このような状況で考えるべきではない。
 理解していても。
 思考は巡り続けるのだった。

Part2 end

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