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FIELDS #01 対談文字起こし ゲスト又吉直樹(7月7日まで限定公開)

5月27日に表参道WALL&WALLにて行われたFIELDSが6月24日より7月7日までの2週間、アーカイブ配信となります。その期間中、イベント前に行われたPodcastの文字起こしも公開させていただけることになりました。

アーカイブ配信とともにお楽しみください。
配信チケットはこちらよりお求めいただけます。

【オープニングトーク00:00:00】

笹倉 皆さんこんにちは、笹倉慎介です。SASAKURADIOの時間です。本日は5月27日に表参道WALL&WALLで行われるイベント、FIELDSの特集回になります。FIELDSでは文学、科学、史学、哲学、美学など、音楽と双方を纏う分野で活躍する作家をお招きし、異分野との交流によってここでしか生まれない音楽を発表します。記念すべき第1回、イベントのゲストは、芸人で作家、又吉直樹さんです。こちらのポッドキャストでは本日からイベント当日までの間、又吉さんとのトークを期間限定で配信となりますので、ぜひこちらをお聞きいただき、当日をお楽しみにお待ちください。
 先日初めて又吉さんとお話したんですけれども、又吉さんの文学の背景にある創作の話や、文学と音楽にまつわること、今回テーマとなっている芥川龍之介の「蜜柑」、田山花袋の「蒲団」を選ぶ模様などなど、1時間以上じっくりとお話させていただいたんですけれども、ここでしか聞けない話もあったんじゃないかなと思いますので、お楽しみください。では早速ですが、又吉さんとのトークをお聞きください。


【対談開始00:01:30

笹倉 じゃあ、本日のゲストは又吉直樹さんです。

又吉 よろしくお願いします。

笹倉 よろしくお願いします。はじめまして。

又吉 はじめまして。

笹倉 本当にはじめまして。

又吉 すごい偶然というかね、僕が全然面識はなかったんですけど、いろいろ聞いていく中で、笹倉さんの曲聴いて、これはぜひ自分がレギュラーで出演しているラジオで流したいってお願いして、流したら、共通の友人から連絡があって、みたいな。すごい近いところにいらっしゃいましたね。

笹倉 本当にびっくりして。僕はなんでそのラジオを知ったかというと、自分の名前とかたまに検索するんですけど、そしたら又吉さんが笹倉さんかけた、みたいな。それで、なんだなんだ?と思って。ちょうどまだ聞ける期間だったので、聞いてみたら、わあ、かかってる、と思って。そういえば、僕と又吉さんの共通の知人に、なんか彼が教えてくれたのかな、と思って。で、メールしたんです。又吉さんに教えてくれたのかな?ありがとう、みたいな。そしたら、いや、全然言ってないですよ、っていう話だったので、どんな感じで知ってくださったのかなというのはちょっと気になってはいたんですけど。

又吉 もともと音楽自体は好きなので、手当たり次第聴くんですよね。中学生の頃とかだと、TSUTAYAとか行って、当時試聴できたんですよね、CD。で、中学生であまりお金ないんで、試聴しまくって、月に3枚ぐらいCD買うって決めてて、視聴した中でも、自分の中でもトーナメント戦みたいにして、最後に残った3枚を買う、みたいなことから、それをずっと続けてきて。だから、よくテレビ出始めた頃に、又吉は本が好きで家に2,000冊あるらしいとか、3,000冊あるらしいとか言われて、実際にそれぐらいあったんですけど、6畳の風呂なしの物件に小説2,000、3,000冊入れてて、でもCDも3,000枚ぐらいあったんです。だからすごく好きで。っていうのがいまだに続いていて。
 でもそれは、今はサブスクとレコード。CDも買ったりするんですけど、だんだんレコードとサブスクで聴くことになってきて。それは、サブスクでいろいろ聴いていて、永遠に自分の好きそうな人らと。

笹倉 つながって流れますよね。

又吉 はい。当初ビッグデータを否定していた自分たちが恥ずかしいんですけど。

笹倉 意外と的を得てきますよね。

又吉 で、ほぼ知っているんです。ビッグデータが紹介してくれる人ってほぼ知っているから、永遠ループするんですけど、なんか出れないかなって、そのループから。その中でいろいろ探していってて、笹倉さん見つけて、これだ、みたいな感じでずっと聴き込んでいって、流したいな、と思って。

笹倉 そのループの抜け出し方ってどうやって抜け出したんですか?

又吉 難しいですよね。いろいろ昔聴いてたアーティストの名前を思い出したり、それを入れてみたり。で、聴いていって、とかですかね。

笹倉 じゃあ文明の力が。

又吉 それもありますよね。笹倉さんの場合はそうでしたけど、あとは、大阪とか名古屋行ったときに、ミュージックバーじゃないけど、喫茶店とか行って、そういうところでかかっている音楽とかを聴いて、CD買って知っていくっていうのもありますかね。

【又吉直樹の文学との出会い00:06:05

笹倉 又吉さんは文学にはまるきっかけみたいなのはどんなところだったんですか?

又吉 僕は一番グッと入ったのは中1ぐらいのとき、芥川龍之介の「トロッコ」を教科書で読んではまっちゃいましたね。低学年ぐらいのときに国語の教科書に載っているのとかが、普通のことをずっとみんな言っているなと思ってて、あまり興味を持てなかったんですけど、3、4年生ぐらいからだんだんめちゃくちゃ面白いやつが増えてきて。国語の教科書って、あの安全な学校の中で、結構やばいこと書いてるよな、みたいな。僕の感覚ですけど。

笹倉 すごい視点を持っていたんですね、その頃から。

又吉 授業で扱うものと扱わないものがあって、扱うものでもテキスト全部じゃなくて、その作品の半分とか一部だけやったりとか、そういう授業の進め方してたじゃないですか。気になるから最初に全部読んじゃうんですけど、そしたら「沢田さんのほくろ」というのがあって、おでこにほくろがある沢田さんっていう女の子がクラスでちょっといじめにあってて。それで、それについてみんなで考えようみたいな話が、僕的にすごく感情移入して。で、その話が最後、沢田さんが頑張って学校に行こうと決めるんですけど、強い心を持って頑張ろうって思うんですけど、廊下歩いていたら、おい、大仏、って誰かに言われて。で、沢田さんは、そうよ、私は大仏よ、って言って、大仏のポーズをするのかな?でも泣いているっていう終わり方で、全然解決してへんやん、って思って。

笹倉 解決してないですね。

又吉 めちゃくちゃ複雑な感情を持ち越してるやん、って思って。そういうものが教科書って意外と多いんですよね。山田詠美さんの作品で「ひよこの眼」やったかな?そういうのでもなんか、同級生の男の子、影があって、恋愛なのかどうなのかみたいな男の子が転校しちゃうんですけど、あの眼はどこかで見たことある、何や?お祭りで売られてた死を感じている「ひよこの眼」や、みたいな話で。え?これどういうふうに処理したらええんやろ?っていう。そういうのが教科書には実はあったりするんで、自分で探せば。そういうところで、文学っておもろいんやろな、面白いわ、これは、って思ったのが「トロッコ」っていう感じですかね。

【因数分解できない文学00:09:00

笹倉 その視点が、久しぶりに本を、同じ作家を、又吉さんをグッと読んでて、一つ文学に関して気づいたことがあって。小説とか文学の良さって、よく分からないことっていうのが、分かったりもするんだけど、よく分からないものはよく分からないんだ、っていう。その理解を受け入れるというか、心得を持つための一つのツールであるな、ってすごく思って。今ってなんでもデータだったり、さっき言ったサブスクもアルゴリズムで決まっていくじゃないですか。なんか一つずつ答えを出さないといけないような、ちょっとした強迫観念みたいなものがあるんだけど、僕もそういう気持ちで過ごしていることがあるんですけど、文学の中によく分からないまま通り過ぎるっていうことのフィジカルの強さを、生き方みたいな、ある種哲学みたいなものを感じんたんですけど、小学校のときになんとなくそういうことを。

又吉 そこまで言葉で理解とか、自分こうだなって思ってたかどうかは分からないですけど、分かりやすいことが面白いことで、複雑で難しいことが面白くないことだって思ったことはないかもしれないですね。どっちかというと、お笑いが一番好きだったんで、子どもの頃お笑い番組見てても、何回も繰り返して見るんですけど、1回目見て笑って、あまり笑えなかったものがあったとするじゃないですか。で、もう1回見て、2回ぐらい見たら大体ネタの構造とか、これはこう面白いんだなってなるんですけど、僕はそのあと、自分が笑わなかったものとか、会場はウケてるけど僕が笑えなかったものを何回も見るんですよ、繰り返し。普通みんな逆じゃないですか。面白かったやつを何回も見ると思うんですけど、面白いってことは、俺もう理解しているってことやから、自分が意味分からんかった、観賞できへんかったことのこれの何が面白いのかというのがすごく気になって。むしろそういうのが寝る前とかにすごく思い出して、笑えなかったけど、なんかとても気になる、あのネタが。で、次の日にも見て、これは面白いんだ、やっぱり、みたいなふうに気づくんですよね。

笹倉 それは結果的に面白いということになるんですか?

又吉 そうですね。だから、笑いって何や?ってなったら、自分が声出して笑うことだと。そういう現象やって言ってしまうこともできると思うんですけど、めちゃくちゃ笑ったテレビとか、めちゃくちゃ笑ったライブで、寝る前面白かった感触だけ残ってて、内容全然覚えてへんってたまにあるじゃないですか。あれはあれでいいじゃないですか。何もなかったけど、結局面白い時間だけがあったんだな、っていう。それも笑いやし、僕は、ややウケやったけど、あれはもうずっと忘れられへんな、みたいなのがあったりするじゃないですか。
 それが子どもの頃から結構気になって好きやったから、もちろん芸人だからコントとかやるときに、お客さんに笑ってもらえるものというか、みんなが面白がってもらえるものを作りたいっていうのはあるんですけど、その中に1個は、寝る前に思い出してしまうような何かを入れたいなとか、なんでそんなことしたんだろうという瞬間、分からないっていう瞬間を作りたいっていうのがあるんですよね。それは僕がもともとそういうお笑いファンやったから、っていうのはあるんですけどね。

笹倉 でも笑いを作るときって、なんでそれが面白かったんだろうって、自分なりに解読していくわけじゃないですか。

又吉 そうですね。それをまず自然にやっちゃうんですけど、でも究極、それができないというか、因数分解できひんみたいな、っていうのも好きなんですよね。それを生み出すのって、割と公式に当てはめていったらできるっていうものじゃないんで。それができたら仕事したな、っていう感覚ですよね。じゃあコンビニの店員とお客さんみたいな設定でコント作れって言われたら、面白いかどうかは別として、すぐ作れちゃうと思うんですけど、それはすぐ作れるものっていうのは多分過去に自分がやったもの、見たものとか、知っている枠の中でのものやから、これ何なん?って自分で思えるものを1個入れないとあまり仕事した感じにならなくて。でも毎回それができるかっていってもなかなか。それは文章を書く上でも結構思っていることですけどね。

笹倉 逆に文学とかだったら、こういうことが言いたいっていうのがあって構成していくような感じだったりします?

又吉 僕はあまり最初にテーマを作らないんですよ。取材とかで、この小説のテーマは?って言われたら、本当はないんですけど、ないって言ったら適当なやつだと思われるから、なんとなく。ないっていうのは、本当にないんじゃなくて、あるんでしょうけど、あるけど自分で決めちゃうと、その回答とか自分の伝えたいことへの逆算で、結局自分の知っている物語になってしまいそうな部分があるんで、多分何かテーマあるんだろうな、ぐらいで。あるから、そのテーマを一番引っ張り出しやすい設定って何なんだろうって考えたら、こういう人間とこういう人間の関係性の話かな、とか、その人間がどういう生活を強いられているのか、っていうところに置いていって、物語を書いていったら、途中で、なるほど、こういうことを書きたかったのかな、とか、言いたかったのかな、っていうのが途中で出てくる感じですかね。

笹倉 音楽の作り方、僕も結構それと似ていて。仕事としてテーマがあるとかとはまた全然違う話になってくるじゃないですか。僕シンガーソングライターなんで、基本テーマがないんですよね。口をついた言葉から始まるみたいな。それが全部つながっていって、結局俯瞰で見て題名が決まるみたいな。だから、すごくその感覚は理解できるなっていう。

【火花と劇場のタイトル秘話00:16:55

又吉 「火花」も「劇場」も書き終わってからタイトルつけましたね。

笹倉 そうなんですね。途中というよりは、もう完全に終わって。

又吉 そうですね。多分「火花」なんて、仮のパソコンのフォルダに入れていたタイトル、人間やったんちゃいますかね?「劇場」は東京やったし。で、「人間」は人間やったんですけど。

笹倉 「劇場」が一番先に書き始めたんですよね。

又吉 そうですね。

笹倉 だから、なんとなく「火花」から僕読んで、そのあと「人間」読んで。で、「劇場」読んで、もう1回「火花」読んで、みたいな感じで行ったんですけど、あとで「劇場」を一番最初に書き始めたんだっていうのを聞くと、なんとなく分かる気がするなというか。「火花」のタイトル、仮が人間だったっていうのがやばいですね。

又吉 大体長い作品作ろうとしたら、人間っていうタイトルか、東京っていうタイトルか。

笹倉 大体人間ってしておけばなんとかなりそうな。

又吉 本当に書きたいのは割とそこかもしれないですね。

【影響をうけることについて00:18:00

笹倉 例えば僕だったら、さっきの話とも似ているんですけど、あとになって、こういう影響を受けてたんだ、って分かる作品もあるし、音楽を聴いてて音楽が生まれちゃうというか、途中で止めて自分の曲作り出すみたいな。そういうのだったりとか。実際又吉さんとか影響を受けるというか、どんなものに対して。

又吉 影響を受けるのはすごくあって、それもみんなとしゃべってて、共通しているんですけど、例えば音楽のライブを見に行ったり、演劇を見に行ったりしたときに、いいものを見ると、そのライブとか舞台が良ければ良いほど、自分の創作モードが入っていきますよね。で、途中から自分の作品作りたくなっていって。あれ何なんでしょうね?かといって、それとそっくりものができるわけじゃないし。全然違うこともあるし。良い養分を得ているっていう。
 だから、分かりやすく何かの作品からこのテーマを受けて、みたいなのはあまりなかったんですけど、「人間」に関してはやっぱり太宰の「人間失格」っていうのが、それはあえてこれだけずっと好きと公言してきて、自分自身が中1で芥川の「トロッコ」とか「羅生門」とか読み始めて、太宰治っていうやつがいるって聞いて、中2で「人間失格」読んで、そこからもうずっと読み続けてきた作家なので、「人間」に関しては作中にも人間失格というタイトル名も出していますし、影響を受けたというか、それを読んで感じたこととかも入れていきたいなっていうのはあったんですけど、普段で言うと、文学に触れて小説を書くとかはあまりなくて、音楽聴いててとか、映画見てて、漫画読んでて、とかのほうがあるかもしれないですね。あとは人と話していてとか。人と話しているときが一番もしかしたら大きいかもしれないですね。
 でも「火花」とかに関して言うと、僕が太宰好きだって言ってたから、太宰と似ているか?織田作じゃないか?とか、いやこれは太宰っぽいとか、いろいろみんな言ってくださったんですけど、振り返ってみたら結構芥川の影響が強かったなっていう。芥川が割と近いことを。「或阿呆の一生」で火花っていう章があって。雨の日やったかな、紫の架空線みたいな、雨の日に電線に雨が当たって紫の火花が立った、みたいな章があって。で、自分の人生に代えてでもその紫の火花をつかみ取りたかったって芥川が書いてて、なんかそれもよく分からんけどめっちゃ分かる、みたいな。なんか分かるぞ、と思って、それがすごく記憶に残っているんで。
 で、「或阿呆の一生」で、火花の先輩のコンビ、あほんだらで、後輩のコンビ、スパークスで火花なんで、めちゃくちゃ影響受けてるなと思って。たまたまって言えるのかどうか。で、なんとなく先輩が求めているものって、そういう芥川がつかみたかった紫の火花みたいなものなのかな、とも思うんで。

【太宰治「人間失格」について00:22:18

笹倉 ちなみに太宰治の「人間失格」って何歳ぐらい初めて読んだんでしたっけ?

又吉 最初読んだのは14歳ですね。

笹倉 今読んで解釈って変わります?

又吉 だいぶ変わりましたね。最初僕、中学2年の時点で読んだときは、そう思う人が多いらしいんですけど、これは自分の話だっていうふうに感じてしまって。なぜこんなに周りに自分が言わないようにしていることをこの人は書いてしまっているんだ、っていうのがあって。さらに言うと、読みながら、もうばらさないでくれ、みたいな。僕もやっぱり父親とか家族の顔色を伺いながら、ここでどういうふうに自分が立ち回ったら喜ぶかな、とか、そういうのをどういう環境に行っても考えて。で、小学校4年生ぐらいまで、なんやったら僕、クラスでも一番明るいぐらいで。明るいんですけど、正直めっちゃしんどくて。

笹倉 でも、梨の下りすごいですよね。りんごと梨の。

又吉 本当は梨が好きやけど母親が、直樹はりんご好きやから、と思っているからりんごが好きというフリをし続けて。

笹倉 家の中でそれやっているのすごくないですか?

又吉 もうそんなことだらけで。ずっとそうしてたんで、大庭葉蔵を見たとき、え?みたいな。無理してる。本当はいろいろ考えてて、そんなやつじゃないけど、ドジなふりをしたり、アホなふりをして、みんなからアホやなとか言われながらやっていこうとしている。でもそれが上手くはないから、たまにボロが出てしまって自分で苦しむみたいなのが、あれ?みたいな。

笹倉 でもどこかでめげなかったですか?

又吉 それは小5ぐらいで、クラス替えのタイミングでちょっとだけテンション落として。で、中学になるときに、小学校の僕を含めた一部の人間だけが同じ中学に行って、残りは隣の中学に行ったので、新しい中学に行って一言もしゃべらなくなって。そこで完全な、いわゆる中学引退みたいな。

笹倉 デビューじゃなくて。

又吉 隣の中学の僕と元同じ同級生たちは、僕は明るくて、変だけど面白い部分もある、みたいな認識なんですけど、中学校の同級生は、一言もしゃべらない、みたいな。それ混ぜたのが今の僕みたいな感じなんですけど。

笹倉 難しい幼少期を。

又吉 それぐらいの中2で「人間失格」読んだんで、最初は、え?って思って、すごく驚きながら、自分以外にもこういう人間っておんねや。しかも夏目漱石の「こころ」とこれが一番日本で読まれているって、じゃあみんな言ってへんだけで、みんなこんな感じなんや、っていうのは最初は、言うな、言うなと思ったけど、そう思ってからは結構楽なったというか、普通なんや、意外と、みたいな。っていうのでハマったっていう感じですね。でも後々聞いていくと、「人間失格」の見方として、全く大庭葉蔵のことを理解できない、なんだこいつは?最低な人間じゃないか、って読み方をしている人も半分ぐらいおるって聞いて、やっぱ言っちゃダメなんだ。思っていること言っちゃダメなんだと。

笹倉 でも僕も人生生きていて、根っから疑わず、太陽みたいないい子ってやっぱりいるんですよね。

又吉 たまにいるんですよね。めったにいないけどたまに、あ、この人はそうだな、と思う人は確かにいますね。

笹倉 そういう人が人間失格読んじゃったらどうなるんですかね?

又吉 考え過ぎ、ぐらいの一言で終わるんじゃないですか?どうなんやろ?でもその人の想像力があったら、なるほど、こういう感性を持ってて辛いだろうな、応援したいな、と思ってくれる人もいるかもしれないですよね。

【文学との向き合い方00:27:31

笹倉 でも本って出会ったものが良からぬものだったら、僕すごく影響されやすいんで、三島好きになったら、三島、って行っちゃうし、影響されやすいがゆえに裾野を広げると、ちょっと恐ろしいなと思ってて。そういう側面もあったりするんで、人によっては出会っちゃいけない本ってあるんですかね?

又吉 その読者の性格というか捉え方で、全て共感で読もうって心がけちゃっていたら危険な読書はあるでしょうね。

笹倉 そうですよね。何かバイブル的な感じになって。

又吉 引っ張られるのはありますけどね。自分の中で0なものは響かないですけど、もともとずっと思っていた疑問とか、持て余しているストレスみたいな塊が、小さいものがもしあったとして、それは今すぐ爆発するようなものじゃないんですけど、それを持っていたとして、でもそれをちゃんと危険だから直視してないというか、あのとき誰かに言われた一言とか、本当は気にし始めたら叫びたくなるぐらいしんどいけど、それはもう考えないようにしようって蓋をしていたものを、めちゃくちゃ同じような状況で主人公がそれを直視して言語化していって、だから俺はダメなんだ、ってずっと書き続ける、文章の力でどんどん刺してくる小説とか読んじゃうと危険ですよね。そういうものってあると思うんですよね。

笹倉 そうですよね。でもそこを避けるためには、たくさんのものに触れるっていうのが一番いいですよね。

又吉 そうですね、バランス良く。あと作家もそれを誰かを傷つけるために書いてるというよりは、本当に自分自身にそういう傷があって、それを治療のために1回見極めて、これはこうや、っていうのと、どういうふうにその傷と付き合うかというのを自分で模索している状態やと思うんですよね。見ないようにしている人と、見ることで乗り越えようとしている人がいるから、自分がどの状況にいるかで変わるかもしれないですね。

笹倉 又吉さんの「人間」もそうだし、「劇場」も、ちょっとしたメールのケンカみたいなのあるじゃないですか。ああいうところとか、結構グサグサ来るなっていう。でも自分のことを言われているような気にもなるし、自分もこういうことを相手に思ってしまうこともある、上手く言えないんですけど。

又吉 めちゃくちゃ上手く言えてましたよ、今。

笹倉 自分って一人分しか生きれないじゃないですか。だから、最近小説の良さというのは他人の人生を見れるというか、複数の人生を体験できるというのが、僕も又吉さんと同い年なんですけど、僕はずっと怖がってきたんですけど、文学とか音楽っていうのを。影響受けるのが怖いから。ただ今読むと、自分もそれなりにいろんなこと経験してきたから、いろんな主人公のシチュエーションがよく分かるようになってきて。
 あとは、ちょっとした哲学も入っているじゃないですか。その哲学の部分とかに触れると、自分と同じ思いが書いてあったりすると、ちょっと人生の答え合わせしているような。だから、これから多分めっちゃ本読むんだろうな、って感覚があるんですよ。
 で、人生の後半の本の楽しみ方みたいな、多分若いときって経験が少ないから、自分が経験したことのない物語がほとんどなわけじゃないですか。ただ、今からだと照らし合わせながら、いろんな解釈をしながら進んでいけるような気がしたんですよね。

又吉 なるほど。それはすごく分かりますね。最初になんとなく文学、お父さんが小説を書かれてたから読まないようにしてたっておっしゃってたじゃないですか。結構「人間失格」の主人公、大庭葉蔵もお父さんという存在がすごく大きくて、お父さんの目とか存在を気にして、それとは違う立ち回りをしようとしたり、した結果、自分はああいう生き方になったっていう。だから第三者的な人があとがきで、最後にそれ言うんや、みたいな。葉ちゃんは全て葉ちゃんのお父さんが悪いんです、みたいな。葉ちゃんは神様みたいに良い子でした、って。っていうことはあの「人間失格」って父親対大庭葉蔵の小説としても読めるんですよね。
 で、僕の「人間」も主人公の永山とか、その周りで切磋琢磨というか、お互い削り合ったりしているメンバーは、何者かになりたいとか、創作とかで面白いものを作りたいって思っているんですけど、それと全く違うベクトルで、永山の父親みたいなのは、特に他人の評価を気にせずにもう人間として存在してて、圧倒的な存在としているみたいな話に気がついたらなってしまっていたんですけど。だから、僕も父親の真逆で行こうと思ってたけど、結局あんな小説書いてしまってますし、やっぱりこの40前後ぐらいから、1回また近づいてみるとか、親に対する興味がまた再燃してくるみたいな。

【音楽と文学の関係性00:34:15

笹倉 話がなかなか尽きないですけど、いろいろ聞くことがあって。

又吉 聞いてください、なんでも。

笹倉 音楽と文学の関係性をどういうときに感じるかとかって。

又吉 やっぱり言葉を扱うというのが一番大きいとは思うんですけど、文学って今文字で書いてますけど、もともとは口承文学、口伝えというか。なので、発声するということを前提で書かれた文学もありますよね。俳句、短歌もそうですし、詩もそうですよね。漫才ももしかしたらそうかもしれないですし、落語もそうかもしれなくて、っていうところが、人間の声が伴って本来の言葉の意味をより立体的に表現するっていうところが、僕は勝手に読み物の文章を書くときも朗読に耐えうるものでありたいなとか、読まれても面白くしたいなっていうのは、多分それは漫才とかコントやってきたからだとは思うんですけど。
 そこでだから、すごくそもそもが近いというか、とは思っているんですけど、なんとなく今セパレートされていて、文学と音楽って。っていうと、書いたものと音楽がついてて演奏するものっていうところですけど、文学もリズムってすごい重要ですよね。で、韻文というか、俳句とか短歌とか、五七五とか、七五調とか五七調とかで進行していくもの、それが詩歌と言われたりして。一方で散文っていう、散文という言い方もどうやねんと思うんですけど、僕はでもその言い方好きなんですけど、でも散文もリズムがないってことじゃないんで。あれはあれで、自由リズムじゃないけど、自分で作曲してくださいね、みたいなことだと認識して書いてるんで、そういう意味で言うと音楽はすごく参考になるというか、読点どこに打つねんみたいな問題だけでも変わってきますね。

【句読点や感嘆符、(笑)について00:37:15

笹倉 点を打つとか、文章をどこで切るとかっていうのは、結構リズム感ありますよね。「人間失格」ってめっちゃ点多いな、とか。あれめっちゃ多くないですか?

又吉 多いですね。でも点は一拍呼吸、そのペースで読んでくれ、っていうメッセージなんやとは思うんですけどね。

笹倉 だから、点ってどこで入れるんだっけ?みたいな。でもこれはフリースタイルなんだ、っていうことに、いろんな文学を読んでいると気づきますよね。

又吉 本当自由です。文法的に間違っているところで打っても、作者が意図しているならOKなので。中上健次の「岬」とか、場面としての性交のシーンですごい読点が多くて。それは多分、呼吸であったりとか、そのときのを読点を使って表すという立体的な表現にしてたりとか。それも音楽的ですよね。

笹倉 点を打つとき、すごく気持ちいいんですよ。リズムを刻んでいるような、音楽的というか。それはすごいあります。丸があんまり好きじゃないというのがあって。その好き嫌いの問題じゃないんですけど、丸ってどうにかならんかな、とか。

又吉 それは音楽の人の感覚ですね。

笹倉 でも結構SNSとか見てると、丸とか打たない人多くなったなってすごく思ってて。丸がないと、なんかスタイリッシュになりますよね。

又吉 僕はすごい丸打つんですよ。だから、読点も打つし丸も打つんですけど、いわゆるLINEとかで、グループでみんなで会話しているときに、俺しか丸打ってなくて恥ずかしいな、みたいな。

笹倉 確かにLINEとかのやり取り、丸打つか打たないか問題みたいなのは、みんな心の中でざわざわしている人いるんですかね?僕もいつも丸打つんですけど、でも丸打たないと、なんかちょっと失礼なのかなとか。普通のビジネスメールとかで丸とか打ってなかったら、ちょっとどうなのかな?とか思うんですけど、普段の生活でも丸打ってないのが来ると逆に、ちょっと仲良いのかな?とか。

又吉 フランクな感じになる。でも丸打ちたくないっていうのは面白いですね、文章書いてて。だから詩とか、CD買ったときに、歌詞が載っている詩集みたいな、ブックレットみたいな。あれ読むと、やっぱり段落変わっていくけど、読点たまにありますけど丸って基本ないですよね。かぎ括弧の中にあったりするかもしれへんけど、あれも終わるわけじゃないから、続いていってるときってもしかしたら丸要らんのかな?っていう。LINEでみんな丸打たへんのは、グループの会話はずっと吹き出しで続いているから、これからも続いていくから要らんっていうことなのかな?みたいな。

笹倉 丸に対する心理的な作用は、多分あるんでしょうね。

又吉 あるでしょうね。20代のとき、僕感嘆符、びっくりマ―ク、あれ恥ずかしくて使えなかったです。なんか、張り切っていると思われたらどうしよう?と思って、恥ずかしくて。で、31ぐらいから、こんなん恥ずかしかってるほうが恥ずかしい、と思って使えるようになりました。

笹倉 逆にそれがないと、「うれしかったです」のあとにびっくりマーク打たないと、本当はうれしかったと思われないかもしれない、みたいな。

又吉 分かります。僕もそういう感じです。

笹倉 ちょっとさみしいな、みたいな、丸だけだと。

又吉 あれを打つことによってね。僕の場合は、身を削っている感じもするんです。めっちゃびっくりマーク打ってるやん、みたいな。差し出している感じもして。でもそれぐらい楽しかったということにしています、僕は。

笹倉 (笑)とかつけます?

又吉 使ったことないです。使えなくて。

笹倉 wとかないですか?

又吉 wは使ったことなくて、(笑)は、女の子とLINEをしているとき、括弧じゃない、急に会話の流れで笑って感じが入ってくる、みたいな。こんなんあんねや、と思って。括弧が、より嫌やったんです。(笑)っていうのがすごい嫌やったから、この流れ漢字1文字の笑っていうパターンもあんねや、と思って。それだけドキドキしながら、向こうは僕がその笑っていう字を語尾につけることに抵抗あるって知らんから、そういう状況で1回だけ使ってみたことあります。1回しか使ってないです。

笹倉 です、とかで終わられると丸つけたくなりますよね。

又吉 そうですね。

【好きな曲とカラオケ00:43:18

笹倉 でもはっぴいえんどは影響受けましたね。

又吉 はっぴいえんどは日本語で歌ってますもんね。僕もあのへん、はっぴいえんども好きですし、遠藤賢司さんがすごい好きで、小学校のときにラジオで、日曜日なんとなくラジオ流れてて、日本のフォークソングベスト100みたいなのやってて。で、ずっとやってて、やっと20位ぐらいに来て、10位ぐらいに来て、もう1位気になるな、みたいな。大体予想はつくんですけど。で、8位ぐらいに西田敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」が流れたんです。その時代的なこともあったんでしょうけど。そこで僕初めて聞いて。え?こんないい曲あんねや、と思って。これ以上の曲はもうないだろうと思ったら、7位か6位で、遠藤賢司「カレーライス」ってかかって、もうこれだ、絶対と。それ以外は、上位は全部知っていたので、もちろん好きな曲多かったんですけど、でもそこで聴いたカレーライスで度肝を抜かれて。やばいなこれ、ってなって。それ、結構僕の音楽の体験としては早かったかもしれないですね。誰の歌かしばらく分からなくて。
 で、小学校でサッカーやったとき、みんなでカラオケとか行ったときに、カレーライスっていう曲を検索するんですけど、入ってなくて。で、中1ぐらいのときに行ったら、カレーライス、今まで1曲しかなかったのに2曲になってて。え?もしかして、と思ってかけたら、その曲やったんです。遠藤賢司「カレーライス」はこの曲だと思って。で、ようやく小学校で聴けたのが誰か分かったんですけど。

笹倉 歌えましたか?

又吉 歌えないですよね、あの歌。みんなびっくりするやろうし。

笹倉 でも好きな音楽をカラオケで歌ってもウケない問題っていうのが、非常になかったですか?

又吉 僕そもそも歌わないんですけど、盛り上がらないので。歌がそもそも上手くないっていうのと、みんながこういう話すると、カラオケの場でみんな酒飲んでいると、いや大丈夫だよ、歌おうよ、とかって煽られて歌うと、1番はみんな聴いてるけど2番は誰も聴いてへん、みたいな。

笹倉 しかも結構マニアックな曲を歌うんですよね。

又吉 そうですね、カレーライスとかね。

笹倉 くるりの曲とか、僕学生のときとか入れたりして。全然盛り上がらなくて。しかもサウンドもCDのサウンドじゃないから、ただでさえ音数少ないのに、音数少ない音が、薄っぺらい音がペケペケ鳴っているから。で、そんな盛り上がるところも、言ったらJ-POPみたいにあるわけじゃないじゃないですか。だからもう、すごい好きな歌を歌っているのに場が冷めるあの感じっていうのが、打ちのめされる感じ。

又吉 その中でも、これはギリ盛り上がるかな、っていう曲ありました?笹倉さんが好きで、みんなもまあこれやとギリ行けるか、みたいな。

笹倉 いや、あまり経験がなかったですね。でも、全然曲は盛り上がらないですけど、大滝詠一の「幸せな結末」とかを歌うと、ラブジェネ世代は静かな盛り上がりを見せてくれるっていうのはありました。

又吉 「恋は桃色」とかダメですか?

笹倉 全然ダメですね。盛り上がらないです。

又吉 なんにも盛り上がらないことないと思うんですけど。めっちゃ好きですけどね。

笹倉 でもああいう音楽って、文学的な良さとか支える土台がすごくしっかりしてて。音源のCDとかレコード自体に入っている音の説得力で成り立っているっていうことって非常にあるんだなって。J-POPみたいなのってリズムとテンションで持っていけちゃう爆発的な一発芸みたいな良さもあったりするんですけど、それってどこの現場に出しても耐えうる強度みたいなのがあるんですけど、文学的なフォークとかロックみたいなものって貧弱というか。ナイーブすぎるだろっていう、構成が。自分も何回も噛み砕いてその良さを確認しているわけじゃないですか。それを初見のオーディエンスにペラペラの音で、自分も解釈するのそこそこかかっている歌を歌って理解されるのは難しいなって思いましたね。

又吉 でもその日本の音楽の、海外のロックバンドみたいなのとはまた違う、静かな高揚感みたいなものはありますよね。それはすごく感じるんです。ピース組む前のコンビのときなんて、僕ルミネとか出ていくとき、出囃子、くるりの東京にしてましたね。あれで出ていって、舞監(舞台監督)さんに、もうちょっと盛り上がるイントロの曲に変えてくれへんか?って言われて。

笹倉 こっちは静かに盛り上がっているんですよね。

又吉 めちゃくちゃこっちは高まるんで。で、お客さんも多分、高まっている人は絶対高まっているからいいんじゃないかなとは思うんですけどね。

【文学と朗読、音読00:49:23

笹倉 僕の悩みを聞いてもらっていいですか? 自分の音楽の詩だけ読んでもダメだなって思っちゃうんですよね。作品として落第、みないな感覚にすごくなって。

又吉 そうですか?

笹倉 朗読とかの強度に耐えられないなって自分では思っているんですけど。まあ相談というか、ただの告白です。

又吉 でもそれが音楽のいいところでもあるのかなと思うんですけどね。言葉より先に間違いなく音が、声があったわけじゃないですか。って考えると、言葉ってみんなが使えるようにするために本来あるイメージとか内容をぎゅっとしているから、だから恋愛って言うだけで、あらゆる何千パターンの恋愛を言えてしまうじゃないですか。だから、めちゃくちゃ曖昧なものなんですよね、言葉っていうのは。で、すごく曖昧で、曖昧だから通用するというか、みんなで共有できて。これが千パターンの恋愛全てにそれぞれ違う名前がついていたら、全く使いこなせない。日本はそれでも言葉が多いと言われているにしても、知れているじゃないですか。大体僕ら日本語やったら覚えているし。
 ってなったときに、やっぱり言葉って曖昧で、そこにそれぞれの言葉だけ聞いたとき、自分の生活とかと結びつけてイメージしたり、広げていくっていう、良い意味で雑さ、大雑把さみたいなのがあって。で、そこに歌とか音楽が乗った瞬間、そっちのほうが圧倒的に細かいんで。感情一つとってもどういうふうに歌うのかとか、どういう声なのかっていうので。だから詩だけ読んでも分からないものが急に分かったりするっていうのは、そこがまた音楽のすごいところで。

笹倉 そこにずっと寄りかかってる感じで。

又吉 それでもいいような気するんですけどね。でも合わせ技でめちゃくちゃ良いバランスになっていると思いますけどね、僕は、聴かせてもらってて。

笹倉 作詞家さんの書く詞ってやっぱり美しいじゃないですか。詞としても完成度がすごく高いものに対して、自分の詞を読むとっていうのは、まあそれはもう置いておきます。でも文学と音楽という意味で言うと、日本語ってやっぱりすごく不利な言語だなってつくづく感じていて。喉元で止まっちゃう言語なんですよね。でも日本語以外、例えばアジア圏でも例えば韓国とか中国とかっていうのは、ちょっとしたチュとかジュセヨとか、そういう破裂音的な喉元より上で響く音。英語とかもそうなんですけど、そういう音に非常に弱くて。音楽になりづらいというか。
 で、自分がそういう意味で意識しているのは、あ行、い行、え行っていうのは上に抜かせないと、日本語で日本語っぽい「あ、い、え、い」って言うと、ちょっと曇っちゃうというか、下に、音楽的にいいところに当たらないというか。「う」とか「お」とかっていうのは、意外と潜っていても抜けやすくて。そういうところ、裏技じゃないですけど、そういうところをちゃんと音に反映させてあげるとサウンドがちょっと違く聞こえるみたいな、そういう作用があって。
 それは文学ではないんですけど、例えば伸ばしたいときに、「う」で伸ばすのはちょっとな、とか。それだったら「あ」とかで伸ばしたほうがきれいだな、って。語尾が結構大事だなと思ってて。接続詞の「の」にするのか、「が」にするのか、「も」にするのか。文学的には「も」がいいんだけど、「も」じゃちょっと音楽として、読むのはこっち、歌うのはこっちみたいな、そういう文学と音楽のせめぎ合いはとても感じるところがあるなと思って。

又吉 もしかしたら、文章で書くときもその音の抜けとかを意識して書くと、そうしている、って気づく人は本当に少ないと思いますけど、でも読んでる側の読者には作用すると思いますけどね、効果として。それ面白いかもしれないですけどね。

笹倉 結構長い文章書くときとかも、1回読んでみたりすると、読みづらっ、ってなったりして変えたり。読みます?自分の小説とか書いてるときって。音読します?

【音読の大切さ00:56:03

又吉 読みます。結構読むんです。読むのがめっちゃ好きで。で、1人で読むより、誰かに、ちょっとこの部分書いたから聞いてもらっていい?っていって読むと、その人に伝えようとして読むじゃないですか。そうして初めて、その書いた文章の、これじゃダメだ、とか、ここ面白い、とか、ここ言い方あとで変えよう、とか気づきがすごくあるんで。で、自分1人で読んでいると、自分の都合で読んでしまうからそれでOKって気になっちゃうんですけど。だから結構読みますね。

笹倉 読むの意外と大事ですね。

又吉 そうですね。逆に、まさに昨日そんなエッセイを書いていたんですけど、僕は結構読むことを前提とした文章を書くのが好きで。でもその反対に、朗読不可能な、朗読で読んでも全く面白くない、これは目で、頭の中で読んで楽しむもんや、ということに特化した文章を意識して書いたことがないんで、そんなんもやったらやったで面白いのかもな、とも思いますけどね。

【作家は無口だった?00:57:30

笹倉 僕思ってたのは、これは仮説なんですけど、多分物書きとか、文学とか、音楽を作る人って、だんだんしゃべるようになると思うんですけど、結構最初無口だったんじゃないかなと思ってて。やっぱり言葉って、今もそうなんですけど、言葉にすると曖昧だった自分の言葉が外に出て、限定的な単語になったり言葉になるじゃないですか。それを常に出していると、形作ったものでなんか納得してしまって、自分の中で消化しきれない思いもどんどん外に出してしまうと、溜まっていくものがなくて、無口な人とか、外にあまり感情を表現しない人っていうのは、又吉さんもそうだったと思うんですけど、いろんなことを考えて。

又吉 そうですね、考え過ぎるぐらい考えてね。

笹倉 で、そこに多分小説とかめちゃくちゃ読んでいたから、無口で溜まっているところにどんどん武器が与えられていくような。音楽だったらピアノが弾けるとか、歌が歌えるとか、書き出したときに無口だった分、言葉よりも圧倒的に文字に起こしたりとか音楽にしたほうが創作的になるというか。

【姉二人の構図00:58:47

又吉 それはすごい分かりますね。もともとは、姉が三つ上と四つ上にいてすごいおしゃべりなんです。三つ上と四つ上って絶妙な年の差で、一番姉ちゃんがおしゃべりなときに僕は、しゃべりたいけど、お姉ちゃんが2人ですごいしゃべっているからしゃべれない、みたいな。で、僕はしゃべるのもちょっとテンポとかも遅いし、しゃべりたいけどしゃべれない状況。でも姉がしゃべっている言葉は入ってくるから、僕はこう思うのにな、って心の中で思ってて。いや、待てよ?でもこうかも、こうかも、あ、話変わっちゃった、話変わっちゃったけどまだそのことをずっと考え続けて、次いつかこの話になったら絶対こう言ってやろう、っていうのが、1回目で言おうと思ったことと変わって、言葉がそこで自分の考えがまとめられて、だから次そういう状況来たときにポンと言った言葉が、みんなちょっとびっくりしたりするんですよね。え、そんな考えを持っているの?みたいな。

笹倉 何稿も重ねて。

【考えてる途中の状態を保つ00:59:59

又吉 何回も考えてやっているから、それはしゃべれなかったとか、学校とかでもそうですよね。みんな今の時間をずっと潰していかなあかんから、わーってしゃべってて。それをずっと俯瞰で見て、今やったらこう言いたい、でも言えない。そこでずっと頭の中で考えてやってたんで。で、最初の話にもつながりますけど、言葉の意味として固めすぎない。考えてる途中の状態を保つっていうのが創作と相性がいいのかなとは思いますね。

笹倉 姉2人っていう構図が、年子と三つ上、姉のパワーがすごかったっていう。すごく共感できるところあったなと思って。そういう子どもの頃に気持ちをぐるぐるさせるっていう習慣がついたってことなのかな。

又吉 そうですね。あと姉がすごい口喧嘩も強くて。だから、こう言われた、でも納得行ってない自分はなんで納得行ってないんだろうっていうのを、もうずっと頭の中で、姉と僕の会話のシミュレーションをして。こうなったらこう、こうなったらこうって。本当ドラゴンボールとかであるような、頭の中で戦うみたいなことをずっとやってて。で、あるとき、急激に僕の口喧嘩能力が上がってきて。

笹倉 開花して。覚醒してきて。

又吉 それは多分その作業をずっとやってたからかなとは思うんですけどね。そうなったらそうなったで、僕が論理的に姉を攻めるようになったら、姉は、ハイホーっていう謎の言葉で全てを無効化して、それをずっと言い続けてしゃべらさへん、っていう方法で結局は勝てなかったんですけど。

笹倉 ハイホーってやばいですね。

又吉 ムカつくでしょ?

笹倉 ムカつきますね。

又吉 一生懸命考えてきたのに。

笹倉 どこかで使おうかな?ハイホー。

又吉 絶対ケンカになりますよ、それで。

笹倉 イラッとさせますよね。

【異分野との交流の面白み01:02:21

で、今回の企画、FIELDSは異分野との交流によって新しい何かを生もうとする試みなんですけど、そういった経験って何かこれまで。

又吉 そうですね、演劇の人とやってみたり、自分が原作のものを漫画にしてもらったり、映像にしてもらったりっていうのはありましたね。

笹倉 そこで何か感じた面白さみたいなのは?

又吉 ありますね。そうなんねや、とか。もともと同じ感覚を共有してても、そこからのアプローチが全然違うから、出口も違うものになってて。だけど不思議とそれを鑑賞する人は、例えば原作と映像で似たような感触を持つ人もいるし、それが面白いかなっていう。いろんな表現があることの理由と、また作品が太くなっていくような感覚はありますね。

【今回テーマの小説選び01:03:38

笹倉 小説を選んできていただいたということで。

又吉 何個か持ってきて。

笹倉 上中下あるやつだとちょっと大変なんですけど。

又吉 いや、小説だったら短編にしようと思って。「戯作三昧」っていう芥川龍之介の短編があって、これが割と僕にとっては大きいというか、影響を与えてくれた小説なんですよね。滝沢馬琴っていう戯作者、戯曲を書いたり、「八犬伝」とか書いた人なんですけど、それがモデルで、「八犬伝」を書き出すまでの苦悩みたいなものを短編に収めていて。銭湯で、あいつはダメだ、って言われているのが聞こえてきたり。でも自分のことディスってるやつが、滝沢馬琴がいろんな名前で、ペンネームで書いているんですけど、何々だか、何々だか知らないけど、って言って、全部知っているから結構ファンやと思うんですけど、それで自分がディスられてたり、なんかいまいち思いつかへん、とか、そういうところから物語の終盤で、よし、書こう、みたいになる瞬間が描かれていて。
 これを読むと、しんどいなとか、やる気いまいち出えへんなっていうとき、なんとなくあるじゃないですか、曲作りたくなる瞬間とか文章書きたくなる瞬間の、お、行ける、今、みたいな。あれに、僕としては自動的に連れていってくれる。これはなんとなくいいんじゃないかなと思って。そういうことというか、そういう感覚というか。

笹倉 ちょっといいですか?これの23ページからの。これか。了解です。

又吉 それか、芥川の「蜜柑」という短編。すごい短い話で、これも大好きなんですよ。これは芥川が電車に乗ってて、女の子が乗ってるんです。で、トンネル入ったのに、窓を開けて、煙すごい入ってくるじゃないですか。

笹倉 はい、汽車ですからね。

又吉 で、芥川と思しき語り手は、やめろよと。こっち肺悪いし、ムカつくわ、みたいな。で、その子にすごいムカつくんです。でもトンネル抜けて、バーっと原っぱみたいな開けたところ行ったら、その娘の弟たちがそこにいて、その子たちにその女の子が蜜柑を投げるんです。それを見て、俺なんでこんないい子にムカついてしまったんやろ?って思う短編なんですけど、それがずっと最初の肺が悪いとか、汽車の中の描写とかがちょっと暗くて重たい空気のところから、トンネル抜けたあとの蜜柑で一気に色付く雰囲気とか、本当はそういうことやったんや、っていう、すごい短い話なのになんかカタルシスがあるのが好きで。このどっちかかなとは思ったんですけどね。

笹倉 短編に関しては。

又吉 短編に関して。あとは、これはでも相性もあると思うんで、例えば三好達治の「鴉」っていう話がありまして。男が歩いてたら声聞こえてきて、服脱げって言われて、その声にしたがっていたら、いつの間にか自分が飛んでて。泣けって言われて、泣いてて、みたいな世界で、すごく惹かれるんですよね。それ昔すごい読んでて、めちゃくちゃその詩が好きで、コントも1本作ったぐらいなんですけど、今朝読んでみると、なるほどな、ちょっと当時と感じ方が違うなと思ったので、もしかしたらいろんな解釈ができるのかもしれないので、それはそれで面白いかなって。
 あとこの田村隆一の「腐敗生物質」っていう。この詩集はどれもすごい好きなんで、この中のどれかっていうことでも、「言葉のない世界」っていうやつやったら、「言葉のない世界は真昼の球体だ、俺は垂直的人間」みたいな。なんかそういう言葉、言語感覚がとにかく惹かれるんですけど。あと「四千の日と夜」というのがあって、それは「一篇の詩が生まれるためには、われわれは殺さなければならない。多くのものを殺さなければならない。多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ」みたいなところから始まる詩であったり。
 これもいまだに僕、割とエッセイとか、宿題あるけどいまいちモチベーション上がらへんなっていうときにパラパラめくって1個ぐらい読むとやる気が出てくるっていう。そういう意味で言うと影響というか、「蜜柑」と「戯作三昧」は若い頃というか、三好達治も割と若い頃で、田村隆一は今も自分の創作に行くときの階段みたいな感じで使わせてもらってますね。笹倉さんに合うような気もするんですけどね、田村隆一。ちょっと言葉強いかもしれないですけど。三好達治か田村隆一か。どっちかかなって思って。
 あとは田山花袋の「蒲団」っていうのがあって。これはなんかもう、いろいろ諸説ある中での一つとして、この田山花袋の「蒲団」が日本の私小説の一番最初や、っていう。いわゆるフィクションの世界から自分のことを書き始めた、日記的に。だから当時こんなものはダメだって言う人もいっぱいいたし。で、こんなものはダメだって言われているその内容、それは何がダメだっていうのは、自分のことを赤裸々に語りすぎていることとか、そういうことを批判されたのかもしれないんですけど、書いてる内容が、自分の弟子にしてくださいと言ってきた作家の子を家で預かってて、でもだんだんその子のことが好きになってしまって。で、最終的にその子が、めっちゃ簡単に言うとですけど、帰っちゃうんですよ、好きな人ができてかなんかで。そのあとに、すごい悲しくて、その弟子の女の子が寝てた布団の匂いを嗅ぐっていう話で。
 それがなんか、めちゃくちゃ気持ち悪いって言うのは簡単で、僕は、分かるなあ、って思ったんですね。その情けなさとどうしようもなさと。それって絶対人に見せちゃダメな瞬間やけど、それを書いちゃうんだ、っていうのも、多分書かないとやっていけなかったんやろうな、っていうのも含めて好きな作品で。でもこの三つのうちのどれかとその二つのうちのどれかか。でも小説と小説でもあれやしと思って。「蜜柑」と「戯作三昧」、「蒲団」ですね。

笹倉 じゃあ、この中からあみだで。

又吉 じゃあ僕が下でシャッフルして、上から何冊目っていうのもありますよね。

笹倉 そうですね。そうだな、どっちでも。これはいいんじゃないかっていう。

又吉 じゃあ「蜜柑」ですかね。

笹倉 じゃあ「蜜柑」は決まりで。

又吉 ってことは「戯作三昧」をやめておいて、この3冊をシャッフルして、にします?

笹倉 そうですね。

又吉 「戯作三昧」も入れます?

笹倉 入れておきましょうか。

又吉 別に芥川、芥川でもいいですもんね。

笹倉 芥川ナイトみたいになってる。

又吉 で、4冊あるので、これ、今確定しました。上からでも下からでも。

笹倉 じゃあ上から3冊目を。

又吉 上から3冊目、田山花袋の「蒲団」になりました。一番読むのにカロリー要りますけど大丈夫ですか?そんなめちゃくちゃ長くはないですけど。

笹倉 最近活字に飢えているので。

又吉 長いかな?

笹倉 何ページぐらいあります?

又吉 8ページから110ページあるので、これぐらいです。行けます?

笹倉 ああ、全然。喫茶店でずっと。

又吉 じゃあぜひこれとこれを。

笹倉 よかった。長いの読みたい気持ちはあったので。じゃあ、その布団の匂いを嗅ぐのをどう表現するかっていう。

又吉 そうですね。でもその好きになってはいけない人を好きになっていく気持ちもめちゃくちゃ分かるんで。その終わり方も僕は好きですし。なんかテレビ番組でその田山花袋の「蒲団」の内容を僕が紹介に来たとき、観覧に来ていた女性が、えー、みたいな、すごい嫌そうな声を上げてて、やっぱりそういう感情って悲鳴上がんねやな、って思って。でもそれを描くのが、文学では大事じゃないかなと思うんですよね。

笹倉 確かになあ、それは。

又吉 素敵っていうことばかりだと多分僕読んでなかったと思うんで。

笹倉 田山花袋さんの「蒲団」と芥川の「蜜柑」を曲にしたいと思います。

又吉 芥川の「蜜柑」は笹倉さんに合うと思うんですけど、「蒲団」はあんまり合わないと思うです。だから一応持ってきたんです。その合わないのも面白いかなと思って。

笹倉 新境地かもしれないですね。

又吉 何読まされてんねん、って思うかもしれないですけど、僕は結構好きな小説で。

笹倉 楽しみに読ませていただきます。じゃあ当日、又吉さんの自作の詩を読んでいただいて、それに対して又吉さんが僕の中の曲、合うようなリクエストを。

又吉 じゃあそれも事前にお伝えするようにします。

笹倉 そうですね。それはお聞きの皆さんはぜひお楽しみにしていただければなと思います。それでは今日は又吉直樹さん、SASAKU.RADIOのゲストに来ていただいて、5月27日金曜日、FIELDSに向けて又吉さんからリスナーの皆さんに一言いただければと。

又吉 そうですね、僕が提案した小説から笹倉さんがどういう曲を作ってくださるのか。だいぶカロリー高いですけど大丈夫ですか?それがすごい申し訳ないなっていうのと、あと僕はでも個人的にはすごい楽しみなんで、当日は面白いライブになるんじゃないかなと思っているので、ぜひ見に来ていただきたいですね。

笹倉 ありがとうございます。

又吉 ありがとうございます。

笹倉 ぜひ皆さん楽しみにしていてください。では今日のゲストは又吉直樹さんでした。

又吉 ありがとうございました。

【エンディングトーク01:18:30

笹倉 ありがとうございました。又吉さん、改めてありがとうございました。話はまだまだ尽きませんでしたが、続きはぜひイベントでお楽しみください。お題にいただいた曲を現在作曲中ですが、今回は又吉さんが朗読する予定なので、これまでとはまた違った新たな視点で作曲に向き合っています。そちらのほうもぜひお楽しみください。それでは最後までお聞きいただきありがとうございました。5月27日は表参道WALL&WALL、FIELDSでお会いいたしましょう。ここまでのお相手は笹倉慎介でした。


【公演情報】
イベントタイトル:FIELDS
◉5月27日(金) 表参道 WALL&WALL
開場 18:00 / 開演 19:00
前売 4,500円 / 当日 5,000円
出演:笹倉慎介・又吉直樹
(笹倉慎介バンドセットBass 千葉広樹 / Drums Senoo Ricky)
◉チケット受付URL https://puffin.zaiko.io/e/fields01

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