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前へならえ             ――画像しりとりはじめました(#134)

(#133) 馬→「ま」→前へならえ

ずっとクラスの先頭が定位置だったアドくんは
6年生でついに人生初の「前から2番」になれた✨

なれたはいいが

見よう見まねの前へならえが今ひとつ曖昧



 「前へならえ」。もしかしたら、今ではもうやってないのかもしれないが、私が小学校や中学校くらいまでは、体育の授業の時に普通に行われていた整列指導、それが「前へならえ」だ。

 「前へならえ」って何?(・_・)?……て人のために、一応、その前後の動き、「気を付け」、「休め」までを1セットにして図解したものがコチラ👇

 ちなみに、この一連の動きは保健体育の指導分野では「集団行動」というカテゴリーに分類され、少なくともひと昔前くらいまでは、学習指導要領の中にしっかりと組み込まれていたようだ(*1)

*1:学習指導要領の中にしっかりと組み込まれていたようだ:■ 参考・出典 集団行動指導の手引 愛知県教育委員会 (平成20年3月)(pdf) 参照

 この集団行動が、究極に鍛え上げられ、「歩く芸術」と賞賛されるまでに磨き上げられると、こうなるもよう。

 「集団行動」で有名な日本体育大学の体育研究発表実演会2021年ver.の完全ノーカット版。
 確かに、この一糸乱れぬ統率とれまくりの行動は、正直、感動モノですらある。無論、ここに至るまでの彼らの努力たるや、筆舌に尽くしがたいものがあるんだろうなぁ……。

 この集団行動の究極形パフォーマンスも、その原点は何かといえば「気を付け」「前へならえ」「休め」だともいえる。

 ただ、この「集団行動」は、ある意味、両刃の剣だろう。「個人の自由」が空気のように当たり前な欧米人から見れば、まだ年端もいかない小学校低学年の子どもたちが、彼らの常識では軍に入隊でもしない限り絶対に無縁な行動を「強制」されているのだから、奇異を通り越して不気味にすら映るのではなかろうか。

 行き過ぎた全体主義は、個人の個性をつぶすのみならず、ことによっては誤った方向に大量の人間を突き動かすことにもなるわけだから、非常に危険なイデオロギーといえる。

 ただ、その一方で、大規模な災害が起きた非常時における配給ひとつとっても、日本人は概ね整然と並び、粛々とその配給を受けることが多い。海外メディアから賞賛されるとともにそのメンタリティが奈辺にあるのか不思議がられることもしばしばである。

 苦し紛れに日本人特有の民族性、などと乱暴に説明されることも多いが、個人的には、その行動原理のいくばくかは、小学校の早い段階から、ある程度の集団行動に対する訓練体験を経験し、集団における最低限の秩序というものをナチュラルに体得できていることが、多少なりとプラスに働いているのではないか、そんな風に感じたりもする。

 要は、バランスさね^m^

 個人的には集団行動はさして得意な方ではなかったけど、個性を完全に殺すまでの集団行動も要らないノーサンキューだし、かといっていかなる力でもコントロールできないくらい極端な完全無秩序状態アナーキズムもまっぴらごめんだ( ̄∀ ̄)。


 さて、集団行動の原点であるこの「前へならえ」を日本で初めて導入した人物をご存じだろうか。

 江川英龍えがわ ひでたつ。通称・太郎左衛門。号の坦庵たんなんという呼び名もワリとポピュラーだ。
 伊豆国韮山の代官として天領を預かる幕臣の家系で、彼は36代目の当主に当たる。

 父・江川英毅の死去により34歳で代官となるが、善政を布いた父にも負けず劣らずの公正な施政に努め、そればかりか、現在、歩きながら本を読む二宮金次郎として知られる二宮尊徳をブレーンに招き、農地の改良に着手もしている。
 自ら範を示して倹約に努め、自身の役所はおろか、支配地の村々まで積極的な倹約を実施する一方で、殖産のための貸付や飢饉の際の施しもさらに積極的に行ったので、領民からの信頼は厚く「世直し江川大明神」なんて呼ばれて敬愛された。

 目を日本から外へ向けた時、当時の日本はそれこそ誰かの「世直し」を必要としていた時代ともいえる。
 ロシア、アメリカ、フランス、そして鎖国時でも数少ない友達付き合いしているオランダ。主に欧米列強の諸外国がやいのやいの言いながら日本に接近、あわよくば開国、と要求がエスカレートしていく中、尚歯会という当時数少ない開明派のシンクタンクともつながりのあった江川は、海防に関する危機意識を強く持ち、数々の建議を行うも、彼我の実力差に無知で呑気な幕閣に退けられていた。

 1853年のペリー来航によりようやく目を覚まし……というか、えらいこっちゃえらいこっちゃと右往左往するだけの幕閣の中、多少なりとまだマトモな感覚を持ち合わせていた、老中就任したての阿部正弘により、勘定吟味役(*2)という役職に大抜擢され、遅まきながら、江川が唱えていた海防に力が注がれ始めた。

*2:勘定吟味役:江戸幕府内において、勘定所の全職務の監査を担当する職務。老中直属という点からも、そのステイタスの高さが窺える。実際、実務レベルでは相当に高い位の役職である。ま、現代でいえば泣く子も黙る監査委員だもんねぇ( ̄∀ ̄)。

 それは江川がかねてから主張していたことであり、遅きに失した感満載だが、ここから江川太郎左衛門の持てる能力がフルパワーで発揮される。
・江戸湾防衛のための品川沖台場の築造
・造船技術の向上
・爆裂砲弾の研究開発
・総ての軍事力の基礎となる鉄鋼を得るための反射炉の建造
・来航してる時に安政東海地震&津波に巻き込まれ船が大破したロシア帝国使節プチャーチン御一行への対処とケア全般
主だったものだけでもこんだけの役目を仰せつかり、その合間にも事あるごとに江戸表の阿部正弘に意見を求められては登城するといった具合で江戸と韮山の往復――

なんてことをやってたら、さすがに激務が堪えた江川英龍は、
1855年1月16日、幕府にその命を奉じる形で壮絶な過労死を遂げた。
享年55(満53歳)。( 一一)💦💦

――と、江川太郎左衛門英龍の生涯を駆け足で追ってみたが、彼が残した事績は、江戸幕府にのみ捧げられたものではない。
 それをいくつかご紹介したい。

 まずは、すっかり忘れていた、恐らくここまで読み進めてきた多くの方が思っていることだろう「前へならえ」はどした?(・_・)?について💦

 早くから国防に危機感を覚えていた江川は、自らの屋敷近隣の村の農民を集め、日本初の西洋式軍隊を組織した。その際、西洋の文献を参考に、江川の親族で蘭学者の石井修三に頼んで日本語に訳させた
気をつけ」「前へならえ」「休め」「右向け右」「回れ右
といった号令・掛け声を用いて、訓練を行ったとされている。
 そう、ここがルーツなのだ( ̄∀ ̄)

 また、江川英龍を語る上で欠かせないキーワード。それが――パンだ。

 いや、そっちじゃなく、パン。ブレッド。

 江川英龍は、これも一義的には国防に絡んでくるのだが、兵糧としてのパンの効用に着目し、日本で初めて兵糧パンを焼いた人物としても知られる。
 今や、日本のパン業界では、江川英龍は「パン祖」とさえ呼ばれているのだ。
 彼の地元である静岡県伊豆の国市において、春はヤマザキではない。
春 (新春) は「パン祖のパン祭り」なのだ\(^o^)/

 ああ、時間が足りぬ(T_T)

 個人的には幕末の人物で好感の持てる人ランキングベスト3には間違いなく入る江川英龍だけに、もっと深掘りしたかったのだが……。

 剣術においても神道無念流免許皆伝の腕前で、書も詩も絵もやり、蘭学に砲術にまで明るい。

 人物としても非常に魅力的なこの江川太郎左衛門英龍
 いつか、彼を主人公とする大河ドラマが制作されないものか、そんな夢想を抱いている11月11日の夜である。

◇ ◇ ◇

 さて、今日の一曲。
時間もなくて、考えてるヒマもない💦という緊急事態なので(笑)
今週の6曲目、aikoで『前ならえ

 いかにもaikoな感じの独特な雰囲気がまったりと広がっている。
正直、最初はちょっと苦手だったんだけどね、aikoの曲(^^ゞ💦💦
でも、最近はだんだんイイ感じに聴け始めている。理由は分からないけど
( ̄∀ ̄)

 おっと、今宵ももうこんな時間だ。ホンマにヤバいわ💦💦

 そんなこんなで、
明日も、なるべく多くの人が、
並ぶときには整然と、実際やらんでいいから、心の中で「小さい前へならえ♪」をして、余裕を持った一日でありますよう(*´∇`*)♪


■ おまけ

 今回の画像しりとり列車 (134両目) の前の車両です。タイトル「」と右下のネタ画像で、なにこれ?て引っかかりを覚えた方がおられましたら、時間が許すような時にでも、覗いてみてやってください。

■ 参考・出典

集団行動指導の手引 愛知県教育委員会 (平成20年3月)(pdf)

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