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エッセイ・散文・その他

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エッセイ・散文など
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幾つかの死と【エッセイ】

 かつて、入院療養中にこんなことがあった。  私は結核で入院していたが、呆れたことに、肺の病気を患っているというのに煙草を止めないのであった。更に呆れたことに、病棟には私の同類が女性も含めて他に何人もいるのだった。  療養所の早い朝食を終えると、病棟の西の出口に一人、二人と顔を出し、ある者は短い階段に腰を下ろし、ある者は地べたにしゃがみ込んで、食後の一服というわけだ。  ある朝、私はいつものように食事を済ませて西の出口に向かった。階段に腰を下ろし、ポケットから煙草を取り出そう

昆虫園女子的インプロヴィゼーション 【エッセイ】

 E谷は、私が住む海辺の街の北に位置する小さな谷である。小さいとは言え奥が深く、山腹もなかなかに急峻だ。谷の東側の斜面には、内陸の市町村に向かって北上する急カーブの道がくねくねと続き、車の転落は稀としても、昔から事故の多い道路として知られている。  かつて、このE谷の入り口に小さな昆虫園があった。友人のKと一緒にこの昆虫園に行ったのは三十年以上前のことだ。今となっては記憶も朧げだが、かなり古びた木造平屋の建物だったと記憶している。私の街に遊びに来たKに、こんな所にひなびた昆

ツリーアドベンチャーと、その他若干のこと。【エッセイ】

 鬱蒼とした森の続く山中に小さな谷があり、谷底には小川が流れている。小川の周りの広葉樹や杉の木は、地上八メートルの高さで吊り橋などによって繋がれている。吊り橋の床板は、簡単には渡って行けないよう飛び飛びになっていて、手すりのロープもユルユルで頼りない。樹と樹の間を繋ぐのは、他にも丸太が一本だけだったり、ブランコみたいな物が十幾つ連なっていたり、いろいろだ。要するに樹上のアスレチックコースを想像すればいい。挑戦者は胴体にハーネスを装着し、ヘルメットを被って、コースに沿って張られ

クラシック小爆発!【エッセイ】

 一九九〇年代のと或る冬の日、大阪市淀川区西中島の横断歩道を渡った所で、別れ際にクミさんが言った。 「今度アシュケナージを聴きに行くんですよ」 「え? あしゅ‥‥? 何ですかそれ」  聞き返す私。 「ピアニストですよ」  ウラディーミル・アシュケナージは、二十世紀後半を代表するピアニストの一人である。指揮者としても著名な彼は、来日も頻回に渡っており、クラシック愛好家でなくてもその名を知っている人は多い。それほど有名なアシュケナージを、私は知らなかったわけだ。  クミさんと

Starless And Bible Black(或いは闇の行方)【エッセイ】

 かつて私は、自室の壁に全天恒星図を貼っていた。漆黒の宇宙を背景に煌めく星々のイメージとは逆の、B全版の白地に散らばった夥しい数の黒い点を眺めながら、畳の上に寝転んで音楽を聴いていた。  当時お気に入りのロックバンドはKing Crimson。LPレコードのタイトルは『Starless And Bible Black』だった。B面の一曲目が全て即興演奏の表題曲で、オランダ・アムステルダム公演のライヴを録音したものだった。  底知れぬ宇宙の暗がりで鳴り響くベースの重低音。そし

ミシマ、シブサワ、タルガキホタルさん【エッセイ】

 高校時代の同級生に、三日と空けずに街で誰かとケンカをして、他校の不良少年達に付け狙われている暴れん坊がいた。その彼が、あの自衛隊市ヶ谷駐屯地での事件が報道された翌日、私の下宿にやって来るなり、「三島由紀夫はなんで死んだんや」と訊いてきた。  私がそんなことを知っているわけがない。  だが、少し前に『仮面の告白』を読んでいた。彼はそれを他の同級生から聞いたのだろう。「死に憧れているようなところがあった」と、そんな答えを返した記憶がある。当たらずとも遠からず、と言いたいところだ

トントラワルドの物語

 コーヒーをひと口飲んで皿に戻し、窓の外を眺めていたら思い出したことがある。遠い昔、 私がまだ小学生だった頃に読んだ、『ばらいろの童話集』のこと。〈ラング世界童話全集〉の第二巻だった。この本に収録されていた、「トントラワルドの物語」というエストニアの民話が、成人してからもずっと忘れられなかった。  編著者のアンドルー・ラングは、オックスフォード大学では『指輪物語』のJ・R・R・トールキンや、『ナルニア国物語』のC・S・ルイスの先輩にあたり、民俗学者にして作家であり、また詩人で