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結局わたしになるしかない

 短所を頑張って並にしたって大して役に立つわけでもないのだから、それなら長所を伸ばした方がいい、みたいな人生のアドバイスをわりとよく耳にする。耳にするというか、文字で読むから目にするだ。その度にそんなことだれだってわーってるに決まってんだろばーろー、と悲しくなってしまう。私はいま最高に向いてない職場で最高に向いてない仕事をじたばたしながらなんとかかんとか1日を終わらせている。前にいた職場って最高に天職だったんやなあと、うまくいかなさすぎてちょっと視界がじんわりぼやけるたびにそう思う。こころは孤独だ。泣きそうになるたびにその時間の時給が倍とかにならんかな。
 必死に焦って作業をしながらも、頭の中は常に過去を巡っている。わたしっていつからこんなにたどたどしくてみっともなくて要領がわるいんだろう?なんかちょっとズレた考えや認識をしてしまうんだろう?勘違い甚だしくない?じぶんキモくない?そんな問いかけが次第に掘り起こしてゆくのは過去のじぶんの過ちだ。あのときこんなこと言うんじゃなかったなとか、あんなことするんじゃなかったなとか、もう山のようにありすぎて何も例には出せない。
 今じゃあんまり言う人も居なくなったが、小学生のころは担任からよく「天然」「マイペース」といった評価を受けていた。夢見がちだったわたしはそれがしばらくずっと嬉しかった。それはわたしにしか無い素敵な個性で、それは長所であるに決まっていて、アニメやマンガでいう「キャラ設定」のようなものに思えていたから。中学に入ってからもそんな印象のままで、でも運動部に入ったからそれなりに練習とかが厳しい日もあって、あるとき顧問に「要領が悪いなあ!」と怒られたことがあった。「要領の良し悪し」という概念が頭の中に誕生したのは多分この日だ。たしかにずっと親にも「気がきかんやつやな〜」とは言われてきたけれども、社会や現実の厳しさを垣間見たのはこのときだったと思う。ああ、「天然」も「マイペース」も、「周りが見えなくてズレている」短所だったのか。今も仕事中に良くこのときのことを思い出してしまう。思い出すたびにじぶんのことが嫌になってしまう。でもいつも答えがわからない。
 1メートルは飛んでた、とよく両親の笑い話であがるのが、わたしの保育園児のころのことだ。運動会のプログラムのひとつで、体操のリボンをくるくる回してパフォーマンスをしながら行進する、みたいなやつがあった。最後はみんなで円を作らなくちゃいけないのだが、なぜか順番を間違えて並んでいたわたしは、沢山の保護者たちが見ているど真ん前で担任に思いきり背中を突き飛ばされて正しい順番に配置された。わたしってまじで生まれつき鈍臭いんだなということがよく分かるエピソードだが、両親はこの手のわたし鈍臭エピソードをこーだったあーだったねといつも楽しそうに話す。この人たちがこうやって話すから、わたしはずっと自分の性質を長所に思い込めていたのかなとか考える。一緒につられて笑うとき、わたしはまだわたしを嫌いになりきれないし、やっぱり長所なのかもしれないとか思う。だってわたしはひとりでどこへでも行けるし、他人が幸せそうなだけで勝手に幸せになれるし、おもしろい人生をおくれるし、いい友達いっぱいいるしいい出会いばっかりするし。ひとの良いところ見つけるの上手いし。自信出てきた。そうそれで、誰もわたしにはなれないし。結局わたしはわたしになるしかないのだ。

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