ソリアー二ピアノ

8/10の日記

8月の10日間が怒涛で過ぎていきました。
今日、最後のお役目、小さな教会でコンサートを終え、やっと少し自分の時間がとれるようになってくるはず。気を取り直して、また地道に始めよう。

怒涛の中、生徒たちのコンサートも4日にありました。
このコンサートと今日の声楽の伴奏、
自分の演奏なり人に教えたり伝えたりすることなんかが、自分でやっと合格点をあげてもいいと思えるようになりました。
この手応えをずっとずっとわかいころ、追いかけていました。

人前で演奏するたびに、自分を追い込んでしまい、うまく伝わらなかった・・、そもそも何を伝えたかったのか、それさえ私は知らなかった。知らなかったということさえ知らなかった。ただ、もんもんと自分の演奏に「これじゃない」感を抱いていて。

今はとにかくなにをやっても楽しいです。

そう、昔は、伴奏なんかだと、歌が止まって、間奏に入って自分の音だけがなるのが怖かったな。今は、もっと演奏全体の中で自分の役目がうまく果たせたら十分とおもえます。流れの中では、別に自分の音、ということにこだわらなくていい、うまくいえないけれど、多分むかしより周りが見えてきたのだと思います。演奏をきいている人たちも含めて、その場を共有していく、その場を作る一つのパーツ。ふとした流れの中で、うまく歌い手さんのよさが引き出せた時、歌い手さんとお客さんの橋渡しができたな、と思える時が何回かありました。人は、歌が良かった、という。それがいい。面白い!

それから生徒のコンサートのほう。
生徒たちは、すごかった。
私が言うのも何だけれども、一人残らずすごい生徒をもってしまったぞ、これからどうする?と思いました。
お客さんもきっと大満足だったはず。

最後に生徒たちに、これで満足しないで先を目指そう、と言ったものの、ほんとうにどうする?

子どもたちは私のカリキュラムに応えてくれ、私が想像していた以上に音楽を体現していて、しかも一人として同じ演奏に聞こえるものがなかった。みんな絶対楽しかったはず。演奏しても、きいていても。これは自分の発想が間違ってなかった、と確信させてくれると同時に、自分のカリキュラムがまだまだ、ごく最初の段階にとどまっていることは自分でよくわかっているつもりなので、これはここからの課題を突きつけられているのかもしれない、とも感じたわけです。

ここ一年ほどは、生活の中での出来事が重く、正直現状維持が精一杯でした。それを引きずるのも今日でおわりにしよう。

なにはともあれ、改めてゼロ地点に立ったつもりで、今日からまた、歩く。

最初の写真は子どもたちのコンサートを行った小さなホール。庭が舞台の奥に見える素敵なホールでした。
2つ目は今日のコンサートの教会。
3つ目はうちの庭、ついに藪になる。


愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!