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そして私が選んだのは

自分の気持ちを表現する方法ってたくさんあると思っています。



学生時代の夢

私は、小さい頃から表現者になりたいと思っていました。いろんな習いごとやスポーツの体験を重ねるうちに、なにかを表現する者になりたいという気持ちが強くなりました。

小学校低学年から、ピアノを弾くことが好きでした。中学生の頃は、ピアニストになってドイツを中心とした欧州諸国で演奏旅行をすることが夢でした。ドイツの国の文化やドイツ周辺の音楽文化について、テレビ番組や本を漁り調べていました。教養番組や本でドイツ語の勉強もして、休みの日にはオーケストラにも足を運んだり、友人と小さなリサイタルを開いたりして、将来への夢を膨らませていました。

でも、ピアノを弾くことは好きだけど、仕事にするのであればずーっとずーっと弾き続けることになります。スランプに陥っても弾き続けるのは辛いな、ピアノを好きなままでいたいな、と思ってピアニストになる夢は諦めました。それで諦めてしまえるくらいの気持ちでした。

そのあとは女優になりたかったんです。この女優の夢は諦めるまでが長かったです。たくさんの感情が溢れて処理しきれない毎日が本当に辛かったです。役者になれば、この感情たちを自分ではない別の誰かになりきることで昇華させられる、と本気で思っていました。

中学校の文化祭の演劇で、わずかなセリフしかなかった私に「たったひとことだけの🐄が読むセリフがめちゃくちゃ好き」と友人に言われたことで、ぼんやりしていたお芝居の夢にスイッチが入りました。

けれども私は人のせいにばかりにして、一丁前に偉そうに苦しみ、夢は大きく掲げているのに努力はなにひとつ伴っていない口だけの人間となりました。言い訳の権化です。

夢を諦められないことが辛すぎて、現実逃避をしていた期間がおよそ9年ほど。。とても長かったです。片思いに恋するビッグマウスで困ります。

それもこれも、他人への感情移入が激しいことが原因でした。もっと早くアドラーの課題の分離を知ることができていれば、勇気を出して進むことができたんだろうか、と何度も考えましたが、女優になる道は諦めるべくして諦め、課題の分離は出会うべきタイミングで出会ったと思えています。

今は、ようやく叶えたい夢が見つかり、それを叶えるために邁進中です。
その夢に近づく過程で気がついたことがあります。

やっぱり人に気持ちや想いが「伝わる」のは素晴らしいってこと
自分が誰かへ「伝える」目的を抜きにして表現をする気がないということ


他人が介入することのできない、表現者が持つ苦悩

私の元恋人たちはみんな、なにかの表現者でした。
Twitterで、「私がお付き合いをしてきた人たちは共通点が一切ない」とツイートしましたが、ありました😌
確かに見た目や中身はなにひとつ似ていないけれど、それぞれ自分を自分らしく表す術を持つ表現者たちでした。

私はそういった、自分なりの表現できる術を持っている人に惹かれるのかもしれません。

彼らは、絵画を描いたり、楽器を奏でたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりしていて、その表現を続ける自分に誇りを持っていました。
そして皆、例外なく、表現者としての苦悩を持ち合わせていました。

私は絵を描く人の苦悩はわからないし、歌を歌う人の苦悩もわかりませんでした。ピアノではない楽器を弾く人の苦悩も、踊りを舞う人の苦悩もわかりませんでした。

表現に関して、「🐄にはわからない」と八つ当たりをされたこともあります。私にはできないこと・体現できないことだから、「すごいね」と言ってしまったことが引き金でした。その私の言葉が安易でした。

「すごいって、どういうこと?」
「どういう意味?」
「わからないのに、なにがすごいの?」

なにも言えませんでした。
でも私はわかりたかった。理解したかった。相手が見ている世界を、私も同じ目線で見てみたかった。そして言葉を渡したかった。

でも、わからなかった。
もちろん、私は彼らと同じ表現感覚を持っているわけでも、同じ人生を生きてきたわけでもありません。彼らは私には見えない虚空をずっと見つめ続けているようでした。

そもそもその特別な術を持つ表現者は、同じ術を持つ表現者以外に踏み込ませない壁を作る傾向がある気がします。それは私も然り。「なにがわかるというのか、私のこの感覚を、あなたと同じだと同一視してほしくない」と思う節は、私も、内心にあります。

わかることのない壁がそこに在ることが、今でもかなしいような、寂しいような、なんとも言えない気持ちになります。私も例外なく、そうなのに。

絶対に見えることのない風景。
わかりたいのにわからないこと。
それが苦しいのに、私は表現をやめようとしない人を好きになってしまいます。


表現を手離してしまった私に残ったもの

恋人のいた当時、私はピアノを弾くことも辞めていましたし、好きだった俳句も読まなくなっていました。花を生けることもしなくなり、水泳の演舞もしていませんでした。舞も舞わなくなったし、夢中で描いていた絵も、離れてからはペンを握ることはありませんでした。密かに認めていた文章も今や雑に閉めたダンボールの中で埃を被っています。身につけてきた表現できる術を、全て手放してしまっていました。

私が今、持っているものはなんなんだろう。

これまで身につけた表現方法を手離した理由は覚えていません。なぜ覚えていないのかもわかりません。それは、ふと疑問に感じた日から、ずっと考え続けています。いまだに思い当たる理由は浮かばないし、長い間考えているけれど見つからないので、今わかることではないのかもしれません。

夢の話はまた別の機会にお話ししますが、私は「人にどれほど納得してもらえるかが勝負」である側面を持つ、そんな夢を持っています。その勉強や考察を深めるたび、多くのことに気づくのです。
そのひとつに、あらゆる悩みを抱えた人たちと接するなかで、気づいたことや気になること、改善点などを言語化し相手に伝える能力が、私は人より少し高いかもしれない、という気づきが挙げられます。過去に持っていた非言語表現は手離してしまったけれど、私には言語化をする力が残っていることをそのとき初めて知ったのです。

私にとって言葉は、当たり前すぎて気づかないくらい大切にしているということを、二十代に突入してようやく気づいたのです。


嫉妬と憧れ、いきつく執着

表現者ばかりだった元恋人たちは、共通してどうにも言葉足らずでした。
五感のいずれかが鋭いと、他のいずれかが鈍くなってしまうような感じなのでしょうか。言いたいことはわかるのに、こちらが察することもできるのに、相手がその無遠慮な言葉を使うことで、自分自身の心が傷つく結果はどうしても免れませんでした。

そして皮肉なことに思うのです。
表現をアイデンティティとする彼らの苦悩は、言語化を怠ったり些細な言葉を等閑に扱うその心持ちから、成し遂げられるものも惜しいところまでしか手が届かないのではないかと。

これは表現を愛する元恋人たちへの最大の皮肉です。
表現というものは非常にセンシティブで、その人の全てを形容している様も、重々承知しています。

私が表現の道を駆け抜けきれていないのも、この点を恐れてしまっているからだと思います。自分が表現したそれらを否定されたとき、自分自身が全否定されボロボロと崩れ落ちていくような感覚に耐えられないからです。
今も思い出せない、表現をやめてしまった理由は、もしかしたらここにあるのかもしれません。少なくとも、その耐え難いという感覚を知っているからこそそう言えるのだとも感じています。

その恐怖は、きっと彼らにもあるはずだけど、表現を続ける彼らは無論、私よりも素晴らしいです。だからこそ尊敬していました。

私が執着心を生み出すには容易いほど、彼らは素敵な感性を所持していました。きっと、自分が追い求めることのできないものを彼らは追っているから、眩しさも感じていたのだと思います。

独自の世界観を持つ憧れが、いつしか執着に変わり、その相手のことが好きなのではなく、相手が持つ感性のみに心惹かれて、離れることができなくなっていました。

私が、独自の表現を持つ恋人へ執着していたのは、自分自身が独自の表現を捨てたからなのではないだろうかと、近頃は考えています。自らが持てるアイデンティティを自らが捨て、自身の世界観を貫く恋人へ泥のようにへばりついていたようです。文章に起こすと改めて、なんと愚かなんだろうかと辟易します。もう、何年も前のことで、自分の気持ちに整理をつけ執着を手離したからこそ、今は客観視することができ、こうして文章を書けているのですが。

ただ、彼らの表現への熱視線は素晴らしく惹かれる魅力があるのに、無関係かつ傍観者である私がもう一息だと感じてしまうのは、やはり言葉を丁寧に扱う意識が低いからなのではないだろうかと思えてならないのです。なにも成し遂げられず逃げてばかりいる私が言えたことではないかもしれないし、傲慢で何様だ、と自分でも思います。そもそも何かを思う土俵にも立てていない。それは承知です。

表現は一種の自己満であり、自己満なのに満足できない狭間にあると感じています。結局、伝えたい誰かに伝わらないと意味がない。それは言葉だけでなくボディランゲージも全てそうだと思います。でなければ、なんのためにやるのか?本当にただの自己満であるならば、人目に触れなくても良いのではないか?そう感じます。

その土台を支えるのは、やはり言葉ではないかと感じるのです。

アートとデザインは似て非なるものであり、どのような説明や解釈でも、そこには言葉が存在します。

そして気づくのです。
私は言葉をなにより大切にしている。私は言葉を大切にする人が好きだ。
それに気づいた今、より丁寧に、言葉の重要性や影響力について考えています。


言葉を大切にするってどういうことなんだろう

私は一ヶ月ほど前から、長年続けていたピアノを七年ぶりに再開しました。犬の散歩中、近所の小学生が弾いているピアノの音に感化されたからです。

ああ、私も音を奏でること、誰かに歌ってもらうことが好きで、食い入るように鍵盤に向かっていた。そんな日々を思い出しました。

私は譜読みが苦手なので、感覚で弾くことが多いのですが、案の定音符はほとんど読めなくなっていました。現在リハビリ中です。毎日、昔のように練習を続けることで初めの頃よりも指や音符を目で追う感覚が戻ってきたので、嬉しいです。

非言語表現をやめてしまった理由はわからないけれど、またなにか表現する自分でありたいと思いました。

そのためには、まずは自分の気づきや気持ちや考えを、言葉にすることから始めよう。単調な言葉から、文章にすること。ツイートしてみること。noteに認めてみること。そうやって、丁寧に自分の言葉を扱っていくことを土台にしていきたいと考えています。

「言葉なんていらない」と言われる場面でも、それは言葉がたくさんあり、互いが満たされた状態であること前提でのセリフであると感じます。

言語がコミュニケーションを制するように、それを地固めにした上に成り立つ表現があるのかも、と思うようになりました。私は今のところ、ピアノでそれを証明してみたいです。

私は言葉をなによりも大切にしたいと思いました。その上で成り立たせたい表現があります。言語化以外の表現を否定しているわけではありません。その非言語表現でしか表すことのできない美しさがあることを私は知っています。彼らの持つ表現は、確かに私には理解できない部分もあるのかもしれませんが、私が見ることのできない風景を全身に感じ、新たに創りあげる視野を持つ彼らを羨ましくも思います。

その表現の隙間や空間を埋める方法は、言葉に向き合う姿勢と、その言葉を扱う繊細さなのではないかと考えています。抜群のセンスを持っていても、それを支えるのはどう転ぼうとも言葉なのではないかと考えるくらいには、言葉の影響力を大いに信じています。


自分なりの表現方法を見つけたい

例えば言葉、絵、歌、音楽、踊り、詩、写真。
料理の盛り付けも表現だと思うし、部屋のインテリアも表現のひとつだと思います。自分が何者なのかを表す手法。きっとあげ始めたらキリがないほどの表現手法があると思っています。

例えその場にいる全員が等しく同じ体験をしたとしても、その人が持つ表現手法が違えば、全て違う表現になり、伝わり方も変わるはずです。そもそも表現をするかしないかも人によります。それどころか、なにも感じない人だっているかもしれません。

くだらないと思える毎日のほんの一部が、人によってはかけがえのない大作になる可能性だってあります。そんななか、表現しようと思い立ち、自分が持ち得る表現手法で表現をして誰かの目に触れる。これってすっごく素晴らしいことで、たまに涙が出てきそうになってしまいます。それも、想像もつかない確率で、何かしらの方法で自分の目の前に現れてくれて、感謝しか無い、と感じることがあります。表現しようとしてくれて、私に届いてくれてありがとう、と。そのぶん、私は伝えうる限り本人へ称賛と感謝を贈ります。それが私の、言葉と表現への向き合い方です。

その人の存在とこれまでの経験、表現意欲と表現手法、そして表現力が重なり初めて誰かに伝わっていると感じます。そうして少なくとも私にも届き私の一部になっているものもたくさんあるから。私はそれを成すうちの一人になりたい。

だからこれまで散々述べてきた、言葉で表現するところから、まずは始めようと思います。ピアノを弾くことも好きなんだけれど、いつかなにか、ピアノではなく自分にしか見えない世界の、なにかを表現する者になりたいです。絵を描くことも再開したいし、写真も撮り続けていたい。幼い頃、当たり前のように続けていたのに辞めてしまったことに改めて触れ、より深めたいものを新たに見つけていこうと思います。


「伝わる」を重視している理由

表現というのは、正直他者に評価されても満たされることはありません。評価など求めていません。他者の声など要らないのです。でもそれはつまりただの自己満なんです。

それはおよそ、アートなので、それで食べていけるわけではない自分はそれのみで生きていくことはできません。自分の表現をあらゆる角度からデザインして、他者の評価を受け止めながら生きていくことが、自分が愛する表現との共存だと考えています。

ここは、私も今の仕事をする上で考えさせられているところです。そして答えが見つかるのかもわかりません。ただ、確かにわかっていることは、私は表現をやめたくないということです。そのためには、せっかく得て捨てた表現をし続ける恐怖に立ち向かう必要があります。動悸のような心臓が浮くような心地も、どうにもならない恐怖も、向き合わなければなりません。これが私の最大の課題です。

表現を続けながら生きていくには、デザインを取り込んでいく必要もあると思うのです。その土台として、言葉と丁寧に向き合うことが重要だと考えていて、その土台をつくるためにはたくさんの知識や経験があると、より良い地盤が固まるのではないかとも思っています。

その上で成り立つ表現は、揺るぎなく自分が満たしたい全てを満たすものになる可能性を感じています。


あなたはどんな表現手法を持っていますか。
どんな表現をしますか。
守り抜きたいものはなんですか。

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