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2022年10月演劇学会デモンストレーション発表レポート①

 日本大学芸術学部で開催された演劇学会全国大会では、俳優の卵である学生たちを使ったデモンストレーションを含む発表が5つ行われた。そのうち3つを見学できたので、私自身の発表も絡めて考えたことを公開します。

・スタニスラフスキーの受容―竹内敏晴の「身体的行動の方式」をめぐって

 最初のデモンストレーションは日大の藤崎周平先生によるもので、藤崎先生が実際に授業で行っているもの、実験的に行う今回だけのものが混在していた。そのため、竹内敏晴の方法論ではなく、彼の思想を補助線にした俳優のレッスンについて紹介が行われた。

(補足)ただスタニスラフスキーの「身体的行動」という用語については歴史的に見ると彼が死んでから、良く取れば発展的に受け継がれ、悪く取れば本人の構想から逸脱していった部分があります。

内田

私を自覚するためのワーク

 最初に行われたワークは、二人一組になって片方が相手に背を向けて体育すわりをし、もう一方が後ろから背中に両手のひらをあてて、呼吸を合わせるというものだった。
 ここで特徴的なのが、背中を触れられている側にも合わせるよう要求されていることだった。手を触れている側が相手の呼吸を感じて確かめながら合わせていくようにする方が普通意識されるように思われるが、触れられている方も合わせようとするため、自然と共同作業となり、呼吸を「相手に」合わせる以上に、別の意味・呼吸を「一つに」することが目指されていた。
 ただ解説には樹木とやっても意味があるとあるが、意味がだいぶ違う気がした。
 配布された資料の学生の感想を聞くと、結構スピリチュアルなものになっていて、このワークを通じてどんな効果、そして効能があるのかは意識されていないように思われた。

 ここからは私見になるが、このワークの特徴は俳優自身が無意識的に捉えている「私」を様々な方法で意識させ、明確にさせていく点があると思う。
 このワークでは、自分の呼吸を通じた「私」と相手の呼吸を通じた「私以外の存在」のあいだを、「私」のまま別の「私以外」へと近づけていく点に大きな効能があるのではないだろうか。一言でいえば、「私という範囲の拡張」としての方法である。呼吸を合わせることが目的なのではなく、自然と行っている自分の呼吸を意識的にコントロールすることで、その行為を意識的に有効範囲を広げることができるワークに思われる。 
 他のワークを見ていても感じたが、こういった効能についてはあまり語られなかった。もちろん語られなかったのには、それを明らかにしてしまうと学生たちがその目標に体感ではなく、あらかじめ答えを分かった上で結果を得られるために行動してしまうからではあるのだが、教師側は語らぬともそれを持っていなければならないだろう。

マイズナーのレペティションをアレンジしたワーク

 次のワークは2人一組で、相手の目を見ながら互いに単語を発し、その単語に無関係な単語を発していくというものだった。
 このワークでは相手の単語を聞いてからでないと自分の発語ができないため、強制的に相手の発した言葉に耳を傾けることになる。恐らくやり慣れている生徒と、やり慣れていない生徒がいたため、まずは一組にだけやらせて、どういったものなのか見学者に見せてから、全体でやった方が良かったように思う。
 この言葉の掛け合いが終わると、次は「わたし」と「あなた」という言葉で互いに語りかける作業に移っていく。人称を言う自分と、言う相手を同時に感じることで、自分の言葉をより自分に近づけ、そして相手へちゃんと届けることを意識していくことを鍛えるのであろう。
 さらに名前や愛称を使うようにもなるのだが、限定的な意味を持つ名前や愛称で呼び合うことは、抽象的であるわたしやあなたというものとは違うため、同時に行うのではなく、分割して行い、それから同時に行うことで、どういった違いがあるのか教える側が明確にしなければならないように思われた。

呼びかけのレッスン

複数人が背を向けて座り、一人がその集団の誰か一人にむかって呼びかけ、座っている人で呼びかけられたと思った人は手を上げる、というワーク
 自分の声の方向と距離感を鍛えることを目指しているのであろうが、相手が後ろを向いている意味がそれだと良く分からない。そもそも向かい合って話すのが普通なわけだから、目を閉じてもいいから前を向くべきではないか? ちなみにロシアでは呼びかけずに行う、テレパシーのワークが本当にある。冗談じゃなく。

出会いのレッスン

端と端から二人が歩いて、出会うというワーク。出会ったときに何かしらの関係性が生まれなければいけないのだが、無条件で任されてしまうので、キャラ作りのやり合いになってしまい、本当に相手と出会うことができるのかかなり疑問の残るレッスン。実際学生たちの実践は上手くいってないように見えた。

みんなのわたし

集団の中で一人が周囲の人たちと関係をつくり出し、そこから自由に即興を行うというもの。こちらも関係性が曖昧なまま始められており、唯の独り言や一人芝居を見るということになってしまっていた。

これですべてのワークが終わったわけだが、前半のワークはそれなりに意味があるように見えたが、後半はあまりに漠然とした行為に見え、学生たちに何の学びがあるのか、何の効果があるのか、教える側も教わる側も理解していないように思われた。


 

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