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スタニスラフスキー書簡(1883年5月13日金曜モスクワ)友人カシカダモフ宛

親愛なるシス!

 君がいなくて一人で寂しいし悩ましく、私は毎秒のように君の美貌と心地よい声を、残念ながら高いドからファまでの音程を失った声を思い出している。最初の手紙から長いあいだ返事がなかったことを詫び、それは君のことを忘れていたからでも私が冷たいからでもないことを君に信じて欲しい。それは私が努力しようにもmanque de temps(時間が無かった)からだ。少しもひけらかすつもりはないが、君に分かって欲しいのは、私の工場での仕事が、サーシャおじさんが死んでから驚くほど増加し、さらに戴冠式も近づいていて、そんなこんなで君との相談の時間を作るのがとても難しいんだ。夕方も公演を終えるための準備で忙しかった。公演については詳しく話すよ。今から、私たちの街の壁のなかで起きている大きな謎について書き記すよ。
 先週の土曜日、皇帝が家族全員とともにモスクワにやって来て、ペトロフスキー宮殿に滞在し、そこで火曜日の朝まで過ごした。つまり、街への入場はトヴェルスカヤの入り口だ。
 いや、僕はよく考えた!
 そのときの式典がすごく豪華で見事だったことにだけ触れ、あえて詳細は書かない。この手紙を受け取る前に全部新聞で知っているだろうから。どんなふうに私が皇帝の入場を見たのか言っておいた方が良いだろう。赤の広場には10000人のための巨大な音楽の舞台がそびえたっていた。それを指導するのがニコライ・アレクセーヴィチ(スタニスラフスキーの従兄でロシア音楽協会の理事だった)だったから、その舞台の管理者に私も含まれていたんだ。あぁ、あの日どれだけ私は苦しんだことか! その舞台の段を8時間も走り回って、私の酷く臭う足が今でも痛いんだ! 8時には私を含めた管理者が集まった。私とアレクサンドル・ペトローヴィチ(「ウラジーミル・アレクセーエフ」社の会計係)は、国歌斉唱に参加する様々な教育機関やコーラスグループの持ち場となる場所を数えるよう指示を受けたんだ。一番いい場所はモスクワとペテルブルクの演劇専門学校とバレエのグループのためだと分かった。ヴェルテンニコフはこのエジプト的仕事に完全に理性を失い、私たちの線引きが終わると赤の広場を前にして喜んでマズルカを踊っていた。実際、仕事は酷いものだった。各教育機関が何人いるのか確認する必要があり、それぞれの通路を残すのを忘れないように、地面をどのくらいのサイズで区切るのかを計算しなければならなかった。
 アレクサンドル・ペトローヴィチがマズルカを踊る暇もなく、セルゲイ・トレチャコフがやって来て、私たちが滅茶苦茶な計算を考え無しにしているとひどく罵った。
 彼は私たちを指導したが、なんてこった! 私たちが見たのは、私たちのラインがグチャグチャにされ、そのかわりに間違った計画のライン、前のモスクワ市のトップだったトレチャーニン(前ロシア音楽協会トップだったトレチャコフをバカにしている)のものになった。アレクサンドル・ペトローヴィチは我を失い、小声でこう言った「これのどこが管理者なんだ、ただの破壊者じゃないか」。
 12時になるとステージに人々が通され始めた。私は無論、劇団の女性陣のあいだに座ったが、モスクワのお嬢さん方に知り合いはいなかったので、知り合いのペテルブルクの女性たちと一緒に座ることにした。その中の一人が私の心をつかんだヨハンソンその人だった。恋に落ちたものが恋する存在を思い出すことは喜びだから、少し彼女について話そう。彼女と知り合ったのはマノヒンのところだったのを覚えている。近衛騎兵たちがいたにもかかわらず、私をおだて、彼女は私に好意的な態度をわけてくれました。それから彼女が夕食に招待してくれた様子や、とてもかわいく艶やかに私と優しく会話をしてくれたことも覚えている。決して忘れられないのが、彼女が私の顔にアイスクリームを塗りつけようとして、彼女の服にこぼしてしまい、私に立ち上がって膝に付いたシミを白パンで拭くようお願いしたことだ。私は狂ったように立ち上がり、驚いたことに(この辺りの文字が切り取られている)、と色々あって、一言でいえば、完全に彼女に参ってしまった。
 裏切だ! ひどい裏切だ! と君は激怒して叫ぶだろう。そうじゃない。冷静に答えよう。私は同じように情熱的に、同じように優しく彼女を愛しているが、この場合、君もよく知っている通りの格言通りに行動したに過ぎない。「私は一人だけを愛せるが、たくさんのご婦人のご機嫌を取っている」。さらに、ひどい裏切りは私からではなく彼女の方からだ。君が出発してからまもなく、私は妹と『アフリカの女』をみていて、最初の二幕に言葉で言い表せないほどに退屈した。休憩になり、喫煙室に入ると突然ソフィア・ヴィタリエヴナがワシリーエフスキイと腕を組んでいるのが目に入った。ソフィア・て来て、私たちが滅茶苦茶な計算を考え無しにしているとひどく罵った。

 彼は私たちを指導したが、なんてこった! 私たちが見たのは、私たちのラインがグチャグチャにされ、そのかわりに間違った計画のライン、前のモスクワ市のトップだったトレチャーニン(前ロシア音楽協会トップだったトレチャコフをバカにしている)のものになった。アレクサンドル・ペトローヴィチは我を失い、小声でこう言った「これのどこが管理者なんだ、ただの破壊者じゃないか」。

 12時になるとステージに人々が通され始めた。私は無論、劇団の女性陣のあいだに座ったが、モスクワのお嬢さん方に知り合いはいなかったので、知り合いのペテルブルクの女性たちと一緒に座ることにした。その中の一人が私の心をつかんだヨハンソンその人だった。恋に落ちたものが恋する存在を思い出すことは喜びだから、少し彼女について話そう。彼女と知り合ったのはマノヒンのところだったのを覚えている。近衛騎兵たちがいたにもかかわらず、私をおだて、彼女は私に好意的な態度をわけてくれました。それから彼女が夕食に招待してくれた様子や、とてもかわいく艶やかに私と優しく会話をしてくれたことも覚えている。決して忘れられないのが、彼女が私の顔にアイスクリームを塗りつけようとして、彼女の服にこぼしてしまい、私に立ち上がって膝に付いたシミを白パンで拭くようお願いしたことだ。私は狂ったように立ち上がり、驚いたことに(この辺りの文字が切り取られている)、と色々あって、一言でいえば、完全に彼女に参ってしまった。

 裏切だ! ひどい裏切だ! と君は激怒して叫ぶだろう。そうじゃない。冷静に答えよう。私は同じように情熱的に、同じように優しく彼女を愛しているが、この場合、君もよく知っている通りの格言通りに行動したに過ぎない。「私は一人だけを愛せるが、たくさんのご婦人のご機嫌を取っている」。さらに、ひどい裏切りは私からではなく彼女の方からだ。君が出発してからまもなく、私は妹と「アフリカンカ」にいて、最初の二幕に言葉で言い表せないほどに退屈した。休憩になり、喫煙室に入ると突然ソフィア・ヴィタリエヴナがワシリーエフスキイと腕を組んでいるのが目に入った。ソフィア・ヴィタリエヴナに視線を向けながら、彼の方に向かって歩いて行った。可哀そうな彼女は落ち着きを完全になくし、赤くなって手を引き抜くと、それでワシリーエフスキイは前方に気が付いた。「こんにちは、コンスタンチン・セルゲーヴィチ。長いあいだお会いしませんでしたね」。「長いあいだですか、ソフィア・ヴィタリエヴナ。どれだけの水が流れ落ち、どれだけの裏切りが、つまり完全に心変わりしたのか。それが私の言いたいことです」と私は乾いた返事をした。彼女は反論したそうに見えたが、私はさせず、私は頭を下げてこういった。「ですが、お別れですね。あなたをお待ちですよ」。そして私たちは離れ離れになりました。この場面の後、彼女が私からオペラグラスを離さないかどうかを見る必要があった。私はといえば、しかめっ面をしてベリエターシュ(1階席の後ろの高くなっているところ)に座り、自分のオペラグラスをワシリーエフスキイが彼女の方を向いて何か質問をしているときに向けた。後ろに座っていたマフロフスカヤは何度も頭を振って、私にやめるべきだというサインを送ったが、嫌だ! 私はおさまらなかった。休憩中、エウゲーニヤ・コンスタンチーノヴナが私の方へ近寄ってきて、彼女との会話をしながら、気づかぬ間に1階席にいた。彼女は私に近くに座るよう頼んだが、ちょうどワシリーエフスキイの席に座らせたが、私はそれに気づき、ソフィア・ヴィタリエヴナにバカげた説明をしたくなかったので彼女が現れると急いで立ち去った。
 このあと長いあいだ、つまり昨日までボリショイ劇場を訪れなかったのは、もう公演の活発な稽古が始まったからだ。
 

【解説】
 セルゲイ・カシカダモフは兄ウラジーミルの友人で、アレクセーエフ・サークルのメンバー。モスクワで有名な教育者アレクセイ・カシカダモフの息子。当時大学生で、既に国の機関で働いていた。
 文中にある戴冠式とは、皇帝アレクサンドル3世の戴冠式のことで、5月15日に予定されており、スタニスラフスキーの父親も式典に招待されていた。
 サーシャおじさんは金糸工場の工場長で1882年12月17日に亡くなり、スタニスラウスキーがその職務を継いでいた。
 いきなり皇帝の式典に参加したと自慢され、仕事がきついと愚痴を言われたり、さらには新しい女とイチャイチャした話(切り取られた部分には何が書いてあったのだろう。予想は付くけど)、前の女の浮気に遭遇して別れたことなどを聞かされたりと、カシカダモフの身になって読むと、なかなかイラっとくる手紙である。私もなんでこんな内輪なものを訳しているのかと投げ出しかけたが、こんな手紙まで読まれるスタニスラフスキーもなかなか大変である。
 最後の稽古とは、1883年8月24日にリュビーモフカで上演された「実践的な紳士」(ディヤチェンコ作)、二幕のオペレッタ「コオロギは皆じぶんの住処をしっている」(スタニスラフスキーとフョードル・カシカダモフ(手紙の相手ではない)作)のこと。
  写真は別荘だったリュビーモフカ。

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