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【舞台の感想】クラースヌイ・ファーケル劇場『三人姉妹』@東京芸術劇場プレイハウス

どうにかしてロシアから呼べないかと思っていたクリャービン演出の三人姉妹。それが芸劇に来ると知ったのはシビウ演劇祭から帰ってきたあとだった。それからは芸劇のHPを毎日のように確認しチケットの販売予定が出るのを待ち焦がれ、ついに10月31日のチケット発売日になった瞬間、3日間のチケットの予約をした。電話口のオペレーターはとても親切で、最前列の中央を初日、最前列右側を2日目、最前列左側を3回目に選んでくれた。

しかし、最前列を取ったことが、実質失敗となるのは前回の記事のとおり・・・

こうして10月18日から3日間、私はクリャービンの三人姉妹を日にちごとに角度を変え、2日目には視点が高い席に変えてもらって舞台全体を俯瞰でも見ることができた。

せっかく3回も観るので、私は1日目はあえて字幕が出ている人物の場面を強制的に追うことに決め、2日目は視野を広げて舞台のどこで誰が何をしているのかを把握し、3日目は字幕を一切見ずに耳と目がどのように人物たちや演出によって移動させられるのかを、1日目と2日目の情報をもとに細部を確認しつつ観劇をした。1日目は席の見にくさもあり、かなり厳しかったが、2日目、3日目は俳優たちの演技にも細部にわたる演出にも感動し、トゥーゼンバフとイリーナの最後の会話は涙が止まらなかった。

さて、1日目、私は初めから字幕の場面、つまり台詞の場面を見ることにしていたわけではなかった。
 それを決めたのは、前列に聴覚障がいのある方たちが観劇に来ていたからだった。しかしながら、この作品は確かに手話で会話が行われるが、ロシアの手話と日本の手話は違うためそれを読み取ることはできない。そのため、必然的に字幕を追いながらそのセリフの人物を追うことになる。このことはクリャービンはまったく想定していない。そもそもこの作品は耳が聞こえることを前提に作られた作品であり、クリャービンも手話で会話する人々向けの作品ではないとロシアでのインタビューで繰り返し断りを入れている。そうしたことから、私はあえて字幕の人物を、つまりいつもの三人姉妹で見ている場面に視点を強制して見ることにして、クリャービンの演出がどのように見えるのか確かめたくなったのだった。

 結果から言えば、ものすごく無理をしないと、つまりあえて見ようとしなければ、台詞の場面に目が向くようには多くの場面が作られてはいないのがより強く感じられた。つまり、音の聞こえない方達がこの作品を見る際には、聞こえる場合よりもさらに負担を強いられることになる。また、誰が誰か分からない段階では、どの人物同士の会話なのかもつかみにくかったに違いない。三人姉妹のあらすじをを知らないとしたらそれはさらに厳しさを増していただろう。
 特に第3幕は暗闇となるため大きな負担となった。前回書いたように客席の特性上、視線が低く、停電の暗さに加えて、装置が散在しており、舞台も字幕も前列に近いほど見にくい。これらが重なって、視覚のみでの観劇は、かなりのストレスだったことが推測される。それであってもこの作品に賞賛があるのは第4幕の圧倒的なラストシーンの力や、俳優たちの演技力の高さのおかげだろう。

ただし、すべての場面において三人姉妹で通常見るやり取り以外を見るように促されるわけではない。ところが自然に台詞の人物に視線が移せたかと思うと、サリョーヌイの駅チカ話を聞かされたりする。このように、物語(セリフ)ではなく光と音と配置で、ある時は自由に、ある時は強制的に視点が動かされる。まるでクリャービンの掌の上で転がされているかのように。

そしてこの演出は、演劇をよくみる人、チェーホフ劇をよくみる人であればあるほど評価が高くなる作りになっている。それは字幕を必要としなければしないほど、俳優たちの演技にのめり込み、作品を味わうことが可能になっているからだと思われる。

それにしても、これほどアンフィーサに目を奪われ、フェドーチクのイリーナへの淡い恋を感じ、ローデを愛らしいと感じた三人姉妹があっただろうか? 他の上演で彼らの存在を気にかけたことは、演じているのが知り合いの役者でもなければごくわずかだろう。演じた3人が上手かったとはいえ、中心人物たちと同じように輝いていた。中心がチェーホフ劇には無いなどと知ったようなことを言う人間がいるが、この演出では序盤において本当に中心がなかった。いや、全てに中心があったというべきなのかもしれない。

屋敷の部屋に区切られた舞台装置ではそこで暮らす人物たちの暮らしが透けて見え、台詞の会話を交わしている人物以外にも視線が奪われる。ある時は音によって、ある時は移動によって。こうして拡散された情報をどうにかして集中させていく中で、一人一人の表情や身振り、そして後ろに映る言葉の意味に集中を研ぎ澄まされていく。気づくことが増えれば増えるほど、終幕の感動が増幅される。

それゆえ、本来は神経の集中がピークになる暗闇の3幕が見えなかった席にいた人は本当に不運だったとしか言いようがない。チェプトゥイキンが患者を死なせてしまったことに絶望する騒音のなか、さらに見える部分が少ない暗闇のなかでそれぞれの感情が爆発する会話が繰り広げられる。1日目は難しかったが、2日目に全体を見渡したあと、あの暗闇と騒々しさがあってからの第4幕の解放は感動的だった。そのため、3幕を前方で見た人にはこの対比が伝わらなかったと思われ、残念でならない。

ここからは幕ごとの時間の流れにある程度沿いつつ演出を考えてみる。第1幕、舞台はオリガのあの有名な父の死に関する台詞で始まらない。

イリーナが上空にあるテレビを付けると、大音量のマイリー・サイラスのレッキング・ボールが流れ出す。舞台装置は色が統一され、どちらかといえば古めかしさを感じさせるが、この歌が流れた瞬間、時間軸が観客たちは現代であることを意識させられる。

この時代を現代に移すのはクリャービンの演出の大きな特徴だ。この現代化という演出によって彼は作品が持つ問題を現代の時代に巧みに接続させる。その手腕がクリャービンに与えられる評価のなかで、かなりのウェイトを占めていると言ってもいい。例えば、モスクワのナチイ劇場で演出したチェーホフの『イワーノフ』も時代は現代に移されているし、ボリショイ劇場のドン・パスクアーレのように多くの古典作品のオペラの演出でも時代を現代、もしくは古くても10年ほど前に時代を移動させて上演している。


また、クリャービンは時代が現代であることを阻害するセリフは意図的にカットしている。三人姉妹では恐らく多くの人が印象的に思う、あの100年後200年後の世界を夢想するトゥーゼンバフとヴェルシーニンの哲学談義は削られ、チェプトゥイキンのバルザックの結婚話といった時間軸をあやふやにするものは削られている。

このセリフの取捨選択は時間に関するセリフだけではない。手話で表現する演出の影響もあるだろうが、セリフの冗長な部分やチェーホフ作品に特有の曖昧さはできる限り削られている。このことは俳優たちが演じる人物たちの性格にも表れているかもしれない。どちらかといえば複雑さよりも単純さによって、この物語が持つ悲壮さがより際立つように演出家の手によって些末な部分は剪定されている。しかし、その剪定がクリャービンの三人姉妹の読み込みの深さを土台としているために、三人姉妹の物語がより鮮明になっている。この部分を評価することもできるが、逆に不満に感じるものもいるだろう。

開幕の台詞がオリガとイリーナ、マーシャのあいだで繰り広げられるが、この作品では登場人物が一人を除いて耳が聞こえない設定になっている。そのため、ロシア国内での上演でも下の写真のように舞台の奥にロシア語の字幕が投影されて上演された。

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幕が開いて物語が始まったものの、観客はいつものように姉妹たちのやり取りに集中させてはもらえない。舞台の別の場所ではチェプトゥイキンとトゥーゼンバフがチェスを始め、自分の手を考えたり相手の手を待つあいだテーブルをこれ見よがしに(これ聞こえがしとも言うべきか)トントンと叩くのである。観客はどうしてもその音が気になってしまう。

ここで観客たちには選択肢が与えられる。字幕を見ながら姉妹のやり取りを見るか、それとも音のする方に意識を向けるか、うるさいと思いながらもいつも見ていた姉妹のやり取りを見るのか。そのあいだを視線を往復させるものには舞台の中央に男がいることがわかり、気になってしまう。

彼がアンドレイであることはバイオリンを弾いていることや、額縁をノコギリで音を立てていることで知らされる。こうして観客たちは思い思いの人物に目を向け、それぞれの見方で三人姉妹の世界に入り込んでいく。

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この演出がもともとの三人姉妹に書かれた、姉妹の会話に意図せずに割り込むチェプトゥイキンの「くだらない!」というセリフの侵入から取られていることが分かると、クリャービンの演出の巧みさがさらに分かるだろう。

すでに述べたようにこの演出では、登場人物たちは声のかわりに手話でコミュニケーションを取る。つまり、音による記号ではなく視覚による記号で意思疎通をはかっている。しかし、聞くことと見ることは等価ではない。声を手話に置き換えたことで、声によるコミュニケーションでは曖昧だった相手の話を聞いていることが、より明快になっている。手話では相手の言っていることを知るためには顔を向けて必ず見なければならない。そして、聞いて欲しい人は相手に見てもらわなければならない。そのため登場人物たちは自分の方を向いてもらうために相手に触れ、合図をする。逆に相手の話を聞きたくない(見たくない)場合には目を背ける。もしくは、見ようとしなければいい。こうしたコミュニケーション方法の変換が、チェーホフ作品でよく言われるディスコミュニケーションをいわば不可能にするだけでなく、語られるセリフをより重いものにしている。

このほかにも聞こえないことを利用した演出は散りばめられている。例えば。マーシャの口笛はホイッスルに置き換えられてけたたましい音を出すが、登場人物たちは誰ひとり気が付かない。これによって彼女の苦しみに誰も耳を傾けていないことが端的に示される。

その一方で、トラム・タム・タム♪ マーシャとヴェルシーニンのあいだで交わされる暗号は、二人のプライベートなSNS上での会話に変えられていることに、声によるやり取りよりも強い関係性を見た人も多いのではないだろうか。(なおこの時点で気が付くが、1幕からたまにトゥーゼンバフのスマホは音が出ており、妻からのメールを無視していたことが分かる。そこで、最終手段として手紙が送られてくるようになっている)

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最初のテレビに流される歌以外にも、このスマホや自撮りといったギミックも上手く使われている。第3幕は暗闇のなかではスマホが光源となり、停電がおさまると一斉に充電に全員が走るのは、台風が直撃して停電したばかりの私には、より身近な表現だった。

この見る、見ないによるコミュニケーションの際立った場面が、第2幕のサリョーヌイがイリーナに愛を告白する場面だった。サリョーヌイはイリーナに見てもらわなければ自分の気持ちが伝えられない。しかし、イリーナは見ようともしてくれない。そこで彼女が寝ているベッドを持ち上げ、顔を背けようとする彼女の顔を叩いてしまう。クローゼットに逃げ込んだイリーナにサリョーヌイは必死に訴えようとするが、最後には自分でクローゼットの扉を閉めてイリーナを閉じ込めてしまう。そして、そのイリーナを暗闇の中に押し込めた状態で、扉に向かって手話を続ける。この場面の断絶は笑いを伴いつつ、イリーナの拒否とサリョーヌイの一方通行具合を鮮やかに浮き彫りにしていた。

そして、このとき舞台中央ではどうにかして浮気相手のプロトポーポフに会うためにどうにかして家を抜け出そうとしているナターシャが描かれている。彼女にも注目していた人は抜け出そうとしては抜け出せないという行ったり来たりの可笑しさに笑い、イリーナに見つかってからの開き直りには衝撃を受けただろう。

そのあとの第2幕の終わりにあるイリーナのモスクワへという叫びは、スケッチブックにモスクワへと文字を書きつける行為に変換されていた。誰に言うわけでもない想いを、文字によって表現するこの変換にも、本来の声による叫びよりも強い余韻を残していた。

1幕の終わりも、芸劇では分かりにくくなっていたが、奥に行ったナターシャが食器か何かを倒して音を出し、観客たちの目がそちらに向くようにシグナルが出されている。そして、アンドレイの告白があり、2幕ではそれまで部屋にばかりいたアンドレイが、最初から妻と共に舞台の前にいるところから始まり、屋敷のなかでの関係性の変化が幕開きだけで表現されていた点も鮮やかだった。

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そして、第2幕には一人だけ声でしかコミュニケーションが出来ない人物が登場する。本来は耳が聞こえないフェラポントが、手話が出来ずに声でしかコミュニケーションが取れない人物にひっくり返されているのである。彼は一人だけ相手に届かない声で喋りまくり、アンドレイは手話が分からないフェラポントに自分の抱えた苦しみを通じないことが承知で語りかける。それにしてもロシア語がわかると、フェラポントが出てくるとなぜかホッというか安心する自分がいた。この妙な安心感はロシアの人たちも感じたのだろうか。

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登場人物たちは耳が聞こえないが、音が感じられないわけではないことは、いくつかの場面で表現されている。第1幕のローデとフェドーチクが持ってくる駒を、登場人物たちはテーブルに耳を付けて感じ取る。

第2幕ではバカ騒ぎをするために、iPodを大きなスピーカーにつなげて大音量を出して踊りだす。私は最初にこの場面を見たときには、スピーカーにイリーナが触れているとはいえ、みんなで踊る場面のためミラーボールのように視覚に訴える表現の方が良いのではないかと思った。しかしながら、繰り返して見たときにイリーナたち全員が靴や靴下を脱いで、裸足で床の振動を足の裏で感じようとしていることに気が付き、なるほどとも思わされた。(このほかドアベルが電球の明かりによって示されるなど、耳が聞こえない人たちの生活が細かく示されてもいた)

そして、この音は最後の最後に観客たちにも与えられる。文字通り痺れる結末だった。

停電した第3幕では、暗くて見えない部分が多いのだが、人物たちはその暗闇のなかでも思い思いの行動を取っている。特にマーシャはヴェルシーニンが去ったあと、彼の軍服がかけられた椅子に移動し、誰もいない場所でその軍服をつかみ身を包んで悶えている。

アンフィーサはオリガの部屋で寝ているが、よく見ると彼女のお腹が大きいことがわかる。本来の三人姉妹では彼女は年老いたために仕事ができず追い出されそうになるのだが、ここでは彼女が身重になって働けなくなったこと、そしてその赤ん坊の父親がアンドレイであることがほのめかされる(ナターシャの英語の台詞が盗人となっていることから)。

そんな彼女を追い出そうとするナターシャの卑劣さも際立つが、彼女が追い出そうとする理由は自分の夫の子どもを身ごもっていることで強まっていることも示されている。

また、登場する人物が質素な下着や薄着姿なのに、一人だけトゥーゼンバフはチェックの寝間着を着ている。彼が自分の甘やかされた過去を話すかわりに、衣装だけで彼のお坊ちゃま振りが示されていた。

3幕の最後、マーシャとヴェルシーニンが出ていくと、不意に起きだしたフェドーチクはスマホの明かりで上司が寝ていたベッドが空いていることに気が付き、それまで寝ていた固い床から移動する。たったそれだけなのだが、ヴェルシーニンが居なくなったことがあらためて強調され、二人の愛引きと幕の終わりの余韻をさらに増す効果になっていた。

終わり際の「なんて騒々しい夜なの」このセリフ。そのことをここまで強く感じた第3幕は初めてだった。

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第4幕が始まると、それまであった舞台装置は後ろに移動され、圧迫感の無い空間が広がっている。上の写真にあるように人々は旅行鞄の上に座るのは、これはロシアの旅の無事を祈る風習である。桜の園のラストシーンでもこの風習が描かれているが、それを知らない人たちには少し滑稽に映ったかもしれない。

突然に開けた空間は、まるでそれまであった家が、彼らを閉じ込めていた牢獄だったかのような印象を与え、それぞれに旅立っていく人たちを解放しているかのような印象を与える。

あのレッキングボールでまさに壁が壊されたともいえるだろうか。

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4幕のトゥーゼンバフのイリーナとの別れ、マーシャとヴェルシーニンの別れ、そして決闘による男爵の死、怒涛のような事件が姉妹たちを襲った後に、オリガ、マーシャ、イリーナそれぞれのセリフが字幕に映し出されながら、もはや手話だけではなく身体全体を使って3人は叫び声を上げる。

本来この場面は言葉で語られるがゆえに、俳優が未熟だったり演出が微妙でそれまでの過程がイマイチだと興ざめして空虚に響くのだが、最後までこの作品は完ぺきだった。その完璧さはある意味でチェーホフのあずかり知らぬものでもあろうが、まさに非の打ち所がない演出だっただろう。

そして、この作品は現在の世界の演劇界に対するクリャービンからの強烈なメッセージも含んでいる。

現在、世界の演劇をめぐっては、アヴィニヨン、エジンバラ、シビウといった演劇祭が毎年開かれ、日本でもフェスティバル・トーキョー、今回の東京フェスティバル(ややこしい)など、世界各地で異国の作品が見られるようになっている。

よく言えば、国外の素晴らしい作品が演劇祭でまとめて見られ、世界のトップクラスの演劇が多くの人たちにアクセスができるようになっている。そこには多額の国や自治体からの補助金が流れ込み、莫大な金が動くようになり、大きなマーケットを作っている。しかし、芸術祭の監督が気に入った作品や演出家、劇団を呼ぶようになり、その監督たちの横のつながりによって世界の演劇が作られているとの批判もある。

そして、観客たちはこうした演劇祭で、異国の作品を字幕で意味を見ながら見ている。有名な作品であればまだしも、新しい作品では舞台よりも字幕を見る方に気が取られ、舞台を見ているのか、字幕を見ているのかよくわからなくなってしまうことすらある。

そして、そもそも語られている言葉がわからずに、作品を見ることで本当に作品がわかるのだろうかと字幕操作の仕事をしている私自身疑問に思っている。そうした背景もあり、どちらかといえば視覚的に訴える作品が優先され、内面の葛藤を描くような言葉の劇はフェスティバルに招聘されにくくなっている。

チェーホフの作品もフェスティバルで上演されるものは、突飛な、アヴァンギャルド風であったり、ダンスのようであったり、そうした作品に目が集まってしまい、チェーホフの物語性はどこか行ってしまい、そもそもチェーホフでなくてもよいような作品があふれている。

そんな状況を逆手に取り、クリャービンは字幕を最初から使うことで全世界で通用する、チェーホフの本質に触れられる舞台を創りあげた。

既にこの演出への評価は固まっているが、この三人姉妹は単なる優れた演出のチェーホフ作品という枠を超え、演劇史に刻み込まれる作品であろう。その目撃者の一人となれたことを心から嬉しく思う。

(余談)
今回3回見て、そのどれもが精密機械のように同じように演じられていたが、これはロシアの一流の劇場に行けば驚くべきことではない。ただ、実は3日目に役者ではなく裏方のミスがあり、舞台上の小道具が一つ足りない状態になっていた。
 しかもその小道具はオリガとアンドレイのやり取りのなかで使われるのである。
 小道具が無い状態で、俳優はこのやり取りをいったいどうするのか私はドキドキしていたのだが(恐らく劇場のなかで気が付いていたのは舞台上の俳優たちと私だけだっただろう)、オリガとアンドレイはその小道具が無いことをきちんと手話でやり取りをして、そのまま乗り切ったのである。
 つまり彼らは本当に手話で会話ができるレベルにまで習得し、決してただ動きを暗記しているだけではないのだった。その瞬間、私は一人で鳥肌を立てていた。

舞台写真は以下のサイトより拝借しました。
http://red-torch.ru/program/info/three-sisters/
https://news.ngs.ru/more/2257803/
http://teart.by/ru/about/archive/tri-sestry.html
http://nsknews.info/materials/nastoyashchiy-shok-spektakl-tri-sestry-otsenili-vo-frantsii/
https://www.mk.ru/culture/2015/10/11/tri-sestry-popali-v-stranu-glukhikh.html

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