ゲームと配信と人 - 視聴者としての観点と前回の反省

 ブロードバンドインターネット接続は未曾有の通信量をもたらしました。画像や音楽を大量に送受信してもなお使い切れない情報ポンプに、乗せるべきものはもう、ゲームと動画くらいしかありませんでした。当時のギークは、P2Pで拝借したゲームに、P2Pネット対戦ハックのパッチを当て、P2Pでそのゲームのプレイを垂れ流すと、それを受信したギークがまたP2Pで誰かに中継します。挨拶は「死ね」。ゼロ年代初頭のインターネットを偏見たっぷりに語れば、IT革命の薄皮一枚剥がした向こうは、P2Pの獣道に光速の汚泥が行き交うドブの底です。
 しかし、ITやら何やらは薄皮でも、ユーザーの面の皮は靴底より厚いものでした。PeerCastの配信ログがYoutubeにアップロードされては、それを目ざとく見つけた者が、その形を真似して独り言ちながらゲームを録画しアップロードします。この場合の面の皮の厚さは、Youtubeというリーガルな場にアングラ文化を持ち込んで名義上リーガル化したことではありません、生まれたてのYoutubeというプラットフォームに、ドブ底のヘドロをいきなりぶちまけたことです。他、アニメや音楽の丸々アップロードにより、Youtubeは当時もっともイリーガルな場へ……話が逸れました。
 形式に名前が付くのに、幾らかの時間がかかったと思います。明確に浸透したのはニコニコ動画全盛期、それはゲーム実況と呼ばれ、広く親しまれるものになりました。

 私は当時、ゲーム実況にハマり切ることはありませんでした。捻くれ根性で意図的に流行りから目を逸らしていた、と言えばまあそうなんですが、ニコニコ動画はトップページを殆ど開かず、レジュームした動画から日々変わるサジェストを辿る、手の届く範囲で閉じた巡回を行っている限り、流行りモノが目に付くことはなく、それも余程属人性の高い要素が無ければ、投稿者自体でサジェストが連続することも少なかったように思えます。
 興味のあるゲームタイトルを検索欄に入れて、出てきたのが実況付きだけだったので仕方なく見るその時、興味の方向はゲームタイトルのほうにあり、実況者自体に注目することはなく、恐らく同じ実況者に2度3度とお世話になっていた筈ですが、一度もそれに気づいたことはありません。

 実況のないゲーム動画の世界では、最も優れたプレイのもの一本が必要であり、それ以外の価値は恐ろしいほどに低い……限界まで浅い理解で言えば恐らくこうなります。しかし私の体験には殆ど常に、届かなくはない手頃な上手さの目標が必要でした。それは近所の友人の兄弟であったり、ゲームセンターの名前も知らないあのおじさんであったり、昨日の自分の到達点であったりしました。
 それらと同じ立場が、最も優れたものでない、前述でいうところの価値が低い動画にも取れるとしたら、人によって流動的なその少し上手いプレイにも、計り知れない価値があるのだと思います。そしてその少し上手いプレイに、最も優れたプレイと別の存在意義を付けるとしたら、例えば実況になるでしょう。であれば、ゲーム実況は恐らくゲームに必要だと思います。

 ゲーム実況の面白みはゲーム自体の面白みではなく、トーク自体の面白みでもなく、トークやプレイ、選択や決断ににじみ出るもの、人格が存在することです。
 ゲームと視聴者の間に実況者の背中が見える状態において、実況者への関心はなんなら悪い方でも問題ありません、死ねでもざまぁでも何らかの関心さえあればゲーム実況は十分面白くなります。どちらかに肩入れして鑑賞することが面白がるのに必要で、好きの反対は嫌いではなく、無関心なのです。
 私の両親は野球中継の延長に舌打ちするタイプの人種でしたが、楽天が東北だからで応援し始めた結果、態々球場に足を運ぶくらいのファンになりました。観戦とは決断や責任を仮託して行う勝負事で、肩入れするとはその勝負の結果のコピーを受け取るスペクターとなることです。
 実況者、投稿者自体への関心を持たないまま、その動画が含有する内容自体にのみ関心を持つ接し方では、それ以上には面白くならないのです。

 私が実況者自体へと関心を持つには、その人の声とアカウント名だけでは不足でした。必要だったのはアイコンとしての人の顔です。しかし、平気で顔出しする文化圏は私のような陰キャには匂いがキツく、動画の下のアカウント名の横のマークは広告と一緒に読み飛ばす脳内フィルタが利いています。印象から忌避感を抱かせず且つその人がその人であると判別できる個性、Vtuberのガワというのは、私のような人間が視聴者になるにおいて、とても都合が良いアイコンでした。
 その人が、前に見た動画のあの人である、と理解した上で眺める実況は、本当に楽しい体験でした。その人のチャンネルの動画一覧を眺めては並ぶタイトルから年齢や興味分野を推測し、ちらちらと見えるその人の哲学や人柄を片っ端から動画舐めては拾い集め、自身の中に偶像を作りながら新作動画を待つ。人々がゲーム実況に嵌まる理由、ゲーム実況の面白さを教えてくれたのは、Vtuberというテンプレートがもたらした清潔で無臭なガワでした。
 Vtuberにゲーム実況は必要か、よく言われる議題です。私はVtuberのVtuberらしさに興味を持っている視聴者ではありませんので、私にはわかりません。しかし私のような人間にとって、ゲーム実況にVtuberは必要でしたし、先述の通りゲームにゲーム実況は、恐らく必要だと思います。

 ゲーム実況を見る時、視聴者が期待しているものの多くはその人です。それがプレイでもトークでも、タイトルのチョイスでも、例えその人がゲームに従属しているとしても、あくまで視聴者側の観点での動画の楽しみは、ゲームではなく人のほうに強く帰属するものです。


 ところで、前回こんなものを書きました。つまらないので読んでくれとは言わない、むしろ読まないで欲しいのですが、引っ込めるのも格好悪いのでそのまま晒しておいてます。

 これを書いた時、まあまあ温まってたので某氏に「アーカイブ見たんですけどォ」とかケンカ売りに行ったりしたのですが、今にして思えば人の事舐めすぎだと思います。ゲームへの敬意は兎も角、人間への敬意を失い過ぎました。言ったことは引っ込めませんが挑発行為は恥ずべきものだと思います。
 直接リプライ等頂いたわけではありませんが、これのこと言っているのだろうというツイートで、「一般的にはプレイヤーが主でゲームが従、配信者は特に」というものを拝見しました。私がある時期から、視聴者として、ゲームではなく配信者を見に行っているなあという自覚を一度持ったのを、これで思い出したのでした。
 その自覚から憧れて真似事を始めた時、持っていた敬意やら何やらを、失くしたか置き忘れたかが故の行為だったという理解です。これは関係ないかもしれないツイートですが「気に入らないからで話を大きくしだしたらもうダメ」というのもタイムリーに刺さりました。自身への反省のために、今一度、視聴者としての姿勢を正しておこうという話でした。

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