クソゲーの効能・用法

 いち消費者がゲームを批評するという烏滸がましい行為に挑む時、我々に必要なのは十分な準備と謙虚な姿勢です。向き合う際にはピュアに近い視点で取り組み、振り返る時には多くのサンプルと見比べ、最後に何と結論を出しても、所詮自分は創作物にたかる蛆虫の一匹だと頭を低くして生きる位の覚悟で臨むべきである……私はゲームのほうが人より偉いと信じて生きているビデオゲーム信者です。

 ところで、クソゲー、やってますか。

 良い物の良い部分を、振り返って的確に見つけるためには、他の物から良い部分を抽出する訓練が必要だと考えます、逆も然り。名作のみを知る人生は趣味を全うできるのでしょうか、少なくとも私は、サンダーフォース3のテンポの良さに気付くには、アローフラッシュとウィップラッシュのステージ構成を比較するような経験が必要でした。文脈的に2本のことをクソゲーと言っているように思えてしまうのは私の失敗です、遊べないような代物ではなく、十分楽しめるものだったと補足しておきます。
 ピュアな視点で取り組むのは困難です、なにせ他の物を知っている上、いずれそれらと比較する心積もりですから。テクスト論的な観点を今から持つことが不可能な、謂わば汚れてしまった状態であれば、可能な限り多くを知ってその中心点に立ち、可能な限りそれを意識しないよう立ち回る必要があります。その為には上にも下にも、右に左に、手前奥、ゲームの評価軸がたった3つな筈はありません。あらゆる次元で多くのサンプルを用意しておく必要があります。

 これらの取り組み方に近いことをしているか、或いはアプローチが違えど近い結果を手にしていると、私が勝手に視線を送っている業界があります。プロのゲームライターの方々と、所謂クソゲーマーの方々です。

 クソゲーを遊ぶ際、最初からクソだと思えば全てに文句が出てしまいます。一つクソを踏んだとして、目に見えてクソが散らばってるとして、それでもピュアな視点を維持しなければなりません。そしてあらゆる要素とクソを慎重に切り分け、まとめて悪く言わないよう良い部分を抽出しなければなりません。
 クソゲーに対して真面目に取り組むというのは、こういった取り組み方を矯正する作用があると思います。私にとってそれは得難い経験でした。

 しかし私の信ずる所において、ゲームが上、プレイヤーは常に下なのです。例えそのゲームが本当に何もかも褒める点の無い、真にクソゲーだったとして、それがクソであることとプレイヤーが偉いことには全く相関性はありません。ましてやKOTYまとめに載ってるタイトル群には一通りの批判点、叩いてヨシの正義棒が用意されているようなものです、バカにすればするほど自尊心がレベルアップしていく素晴らしいサンドバッグです。
 それを叩いて自分が偉いと勘違いしない方法、所詮自分は、創作物にたかる蛆虫の一匹だと、強く念じ続けることです。

 ゲームのことをクソゲーと呼ぶのは表現の自由の一端でしょう、しかし自由には責任があります、人の尊厳のための権利を行使するのに、人は尊大であってはならないのです。
 評価も批判も自身の持てる全てを持ち出して検証し、異論に正しさを見れば自身の尊厳をかなぐり捨てて論の正しさにこそ価値を見出す、そんな人間でありたいと思っています。その通りであるかというのは疑問を抱き続けていますし、そうであることが不可能でも、そう努めることは無駄ではないと信じています。

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