[コラム]墨田区議会に学ぶレジリエンス:しなやかな社会への小考
先ほど、国民民主党墨田区議会議員 ちょうなん貴則議員の投稿を見て、僕はめちゃくちゃビックリしました。
何故これに驚いたのか、という話をさせてください。
一言でまとめると、「計画のレジリエンス」という考え方に基づいた議論が交わされているように見えたからです。この考え方は、日本のさまざまな社会課題の解決に向けて、非常に重要なエッセンスだと個人的に思っています。
計画のレジリエンス
まず、「レジリエンス」というカタカナ語を多用することを、ご容赦下さい。これは適切な日本語訳が見当たらないのです。「回復力」とか「復元力」とか訳されますが、「計画の復元力」と言われても、なんのことかサッパリですよね。
適切な日本語訳が無いので、無理に不適切な日本語に訳すと、かえってイメージが掴みにくくなります。なので、申し訳ないけれど「レジリエンス」とカタカナ語で呼んでいきます。
計画は、計画通りに進まない
計画は、立てたらあとは実行するだけ。
私たちは常日頃から、そんな風に考えてしまいがちではないでしょうか。
しかし、現実的に考えてみましょう。
「計画が絶対に計画通りに進む」ということは、計画を立案した時点で、未来を完全に予知できていなければ不可能です。
そして当然の話ですが、私たちは、どれほど優秀な人や組織であろうと、完全な未来予知能力は持っていないわけです。
では、「未来に何が起きるかなんて、誰にもわからないんだから」と、計画を立てること自体を放棄したり、無意味化してしまうのは?それはそれで、物事をみんなで進めていくのに不都合が出てしまいます。行き当たりばったりになれば、みんな振り回されてしまって大変ですからね。
「じゃあどうすればいいの?」
という問いに対する答えが、計画のレジリエンスという考え方です。
計画のレジリエンスとは=未来の不確実性に対する「しなやかさ」
計画のレジリエンスとは、一言で言えば、「未来の不確実性を受け入れられる”しなやかさ”」と言うことができるでしょう。
まず、「未来は不確実であり、何が起きるかわからない」という客観的事実にしっかりと立脚すること。そして、その事実を受け入れて、変化する現実に合わせた柔軟な対応を可能とすることです。
柔軟な対応を可能とするためには、精度の高い現状把握が必要です。「今どうなってるの?」がすぐにわかる、細かい時間単位・短いスパンで計画の進捗状況を把握し、評価できる計画値を設定する必要があります。
そして何より、どんな計画も、推進するのは「人」です。
だからこそ、計画が属人化が起きてしまうと…「その人がいなければ進まない」という状況に陥ってしまうと…、その人が何らかの理由で離れざるを得なくなった場合など、一気に計画が破綻してしまう恐れがあります。なので、属人化を防ぐことは非常に重要です。
こうした要素を加味しつつ、「計画は立てたらあとは実行するだけ」ではなく、計画そのものをメンテナンスしながら(=状況に合わせて姿かたちを柔軟に変えながら)推進していく、継続的なスタンス。これが計画のレジリエンスの根幹と言っても良いでしょう。
この「計画のレジリエンス」という、非常に高度でふんわりした概念を、しっかりと土台に置いて議論している墨田区議会、すっげぇな…!と、僕がビックリした理由が、なんとなく伝わったでしょうか。
何よりこれは難しいだけでなく、「より良い未来の実現」に向けて、本当に真摯にコミットする姿勢がないとできません。どうすればより良い未来を導けるのか。そのことを本気で考えてこそ、未来の不確実性を直視できるからです。そして、その不確実性を直視し続けることこそが、何よりも重要だからです。
本当に街の未来に、より良い未来に、全員が全力でコミットしているチーム(議会と職員)でなければ、こういう議論は生まれてこない。すごいことだと思います。
レジリエンスの低さが、日本社会の本質的な宿痾ではないか?
個人的な経験と見聞に基づく印象論ではあるのですが、僕は常々、我が国の社会には「当初計画信仰」とも呼ぶべき宿痾があると感じています。
完璧で変更の余地のない当初計画の立案を求められ、そして当初計画から実際がズレていった時に、それを問題だとし、すぐに責任追及や悪者探しがはじまってしまう。
「言ってたことと違うじゃないか!」「無責任だ!」「不誠実だ!」「ウソつき!」「どうするんだ!」「失敗を認めろ!」
…こんな感じですね。
しかし、こうした姿勢は、どちらかと言えば僕は歓迎できません。
「レジリエンス」という観点が欠如しているように思えるのです。
氷河期世代を生み出した、「人生のレジリエンス」の低さ
同じことが、私たちの人生にも言えます。
たとえば「新卒一括採用」「終身雇用」「年功序列」という雇用・労働の在り方です。今でこそ柔軟性が多少増してはきましたが、一昔前は、この『計画』から外れてしまったら、もう人生オシマイと言っても過言ではないほど、厳しい状況に立たされる社会環境がありました。今もまだそうなのかもしれません。
新卒で安定した職場に入り、終身雇用・年功序列で60代まで安泰。老後は退職金と年金で悠々自適。この『計画』のレジリエンスが極端に低いから、ここから外れてしまった人が大量に生じた『就職氷河期』が『問題』になってしまった面は、あるのではないかと思います。もちろん、それだけの問題ではありませんが。
税や社会保険料の支払いサイクルも、わかりやすい類例
もう一例を挙げるならば、わかりやすいのが税や社会保険料の支払いサイクルです。前年の所得に応じて負担額が決定される仕組みですね。
これは当然、「前年と同程度ないしは前年以上の、毎月安定した所得がある」または「翌年の公租公課負担のために貯金をしておける」という前提があってこそ、無理なく払える仕組みだと言えます。つまりは、年功序列・終身雇用を前提としたシステムだと言っても良いでしょう。
この「計画」から外れてしまったら、途端に支払いが苦しくなり、役所に相談に行ったりとか、まあ色々と『例外処理』で対応する必要が生じてしまうわけです。
要するにレジリエンスが低い。実態に合わせて柔軟に対応できず、短いスパンできめ細かな対応をすることもできない。
社会経済のダイナミズムが高まり、個人の家計や労働環境においてもまた変化が激しくなった現代において、これでは困ってしまう人が増えるのも当然ですし、自治体や国の税収に赤信号が灯るのも無理は無いように思います。
レジリエンスの高い、しなやかな社会
こうして考えていくと、今、そしてこれからの日本、これからの社会に求められるのは、レジリエンスの高い「しなやかな社会」ではないかと思うのです。
現実の、未来の不確実性に対して、優れた対応力を持つシステムを備えた都市と、その集合体としての国家。それがつまり、災害が来ても、病気やケガをしても、障害を負っても、職を失っても、介護が必要になっても、子育ての困難に直面しても、なにがあっても「安心して暮らせる街」なんだと思います。
残念ながら、今の日本社会には、まだまだ「レジリエンス」という考え方そのものが根付いていないように見えます。当初計画に絶対的な無謬性を求められ、そこから外れたらオシマイ。組織においては責任を追及され、個人においても自己責任だと見放される。それじゃダメだと言う人々も、大抵の場合は、『計画/設計』から外れた人への『支援/救済』を求めるばかりで、計画/設計そのもののレジリエンスという観点は乏しいように思います。
こんなことを常々思っているので、長期事業計画のレジリエンスに真っ直ぐコミットしている墨田区議会の皆様の様子を伺って、びっくりしたんですね。「レジリエンス」という言葉は出てこなくても、その本質を捉えて議論しているわけだから、こりゃすごいぞと。
こういう考え方ができて、議論ができて、制度設計ができる人たちが、もっともっと活躍して、輪を広げることができたら、きっと日本は、今よりもっと良い国になるんじゃあないかと思っています。
以上です。