多様性という名の混沌

何か…理由はなんでもいいが、『気に食わないヤツ』がいるとする。
目をつぶって、耳をふさいで、

「いやだいやだ、あんなやつの存在は、おれは絶対に認めないぞ!アーアーアー!みえなーい!きこえなーい!」

とやったところで、その『気に食わないヤツ』の存在は、消えないんだ。
依然として変わらず、ヤツはそこにいる。

ヤツはそこにいるんだ。

気に食わないが、しかし居る。
その”厳然たる事実”を認識すること。
その事実認識に立つことが、多様性社会・共生社会の第一歩だと、おれは思っている。


自分にとって都合の良い、美しい、自尊心を満たしてくれる、そんな属性の持ち主だけの多様性。

『良い人だけの社会』。

そんなものは多様性社会でもなんでもない。
単一の美学と価値観によって規格化された、全体主義社会だ。

多様性を標榜する全体主義者からの脱却。
”シン”の多様性を備えた社会。

それを指向するならば、覚悟が問われる。
多様性という名の混沌を直視する覚悟だ。


人の考えや価値観は、時として「道」や「方向」に例えられる。

多様性の”無い”社会というのは、全員が同じ方向を向いて、全員が同じ歩調で歩く社会だ。だから、誰もぶつからない。衝突は起きない。

でも、多様性の”高い”社会は、そうじゃない。
一人一人、向いている方向が違う。進む先も違う。歩調も違う。
だから、衝突が起きる。すぐに、しょっちゅう、誰かとぶつかる。

おれが言いたいことが伝わるだろうか。
多様性の高い社会とは、本質的に混沌だということだ。

カオスなんだ。
そこら中で衝突が発生する、安心・安全・平和とは程遠い、危険で混沌とした社会だ。それが多様性社会だ。認めたくはないだろうが、しかし、そうなんだ。

みんな同じ考え方や価値観なら、衝突しないし、居心地がいい。ユートピアだ。いろんな考えや価値観のやつらが混在してる状態は、その真逆だ。そこら中で衝突する。居心地なんぞクソほど良くもねえ。オンボロのバスでカッ飛ばす未舗装の山道みてえに。そりゃもう、ガタガタよ。

「多様性という名の混沌」ってのは、そういうことだ。
多様性社会とは、混沌として、そこら中で衝突の発生する、居心地の悪い社会だ。その事実に向き合うことが、共生社会への第一歩なんだと、おれは確信してる。

なぜって、そうしなければ、『多様性を標榜する全体主義者』の罠に陥るからだ。自分にとって都合の良い多様性だけを『認め』て、そうじゃないものを排斥する、単一の美学と価値観で規格化された全体主義社会になっちまう。

多様性の持つ混沌性から目を背けてしまったら、多様性を喪失するんだ。


だから必要なのは…おれが必要だと思うのは…「多様性を標榜する全体主義者」じゃない。

混沌を直視する覚悟だ。
そして、その混沌の中から、なんとかして秩序を導き出していく、賽の河原に小石を積み上げるような歩みだ。


多様性の混沌に、人類はどう向き合ってきたのか。

ぶっ殺してきたのさ。

「自分たちにとって不都合な人々」を、ぶっ殺して、閉じ込めて、書き記したものを焼き払って、そして”無き存在”にしてきた。

いや、訂正しよう。
この話は過去形じゃない。
今もまだ人類はそうしてる。

ウクライナで起きてることは知ってるだろう。
中東もそうだ。
アメリカでもしょっちゅう起きてるそうじゃないか。
ヨーロッパでも、他の地域でも、世界中で。

つまり、おれの言う「多様性の混沌」「多様性のもたらす衝突」というのは、そういうことなんだ。秩序を導く何かがなければ、殺し合いが起きるってことだ。それが多様性なんだ。厳然たる事実としてそこにある多様性は、社会に殺し合いをもたらす。秩序を導く何かが無ければ。

だから『覚悟が必要』だと言っているんだ。
キラキラしたもんじゃない。一歩、ほんの一歩のかじ取りを間違えれば、殺し合いになる、そういう危険なモンを何とかしようって話なんだからな。覚悟がいるんだ。


だからこれは、安全保障の話なんだ。
「社会的安全保障」とでも呼ぼうか。秩序と多様性を両立させるための何かだ。

たとえば、A国とB国が軍事衝突をしている。
戦線に行って、『争いはやめて仲良くしよう!』と訴えたら、どうなるか?
双方から銃弾が飛んできて、あの世行きだ。身を挺した生前の善行を天使に褒めてもらったところで、地上では相変わらずのドンパチが続く。

必要なのは、「仲良くすること」じゃない。
それは理想だとしても、必要の先にあるものだ。
まず必要なのは、「ドンパチをしない状態」だ。

別に仲良くなる必要はないんだ。
共存共生とは、「仲良くなる」ことじゃない。
表面的に仲良くふるまうことを強制することでもない。

「関わらない」とか、「距離を取る」とか、「静観する」とか、「緩衝地帯を置く」とか、いろいろな方法がある。

おれたちの仕事だってそうだろう。
どうしてもウマの合わない同僚二人に一緒に仕事をさせなきゃいけなくなったら、緩衝役を入れたりする。それと同じだ。

「敵対」か「同盟」か。
「あっち陣営」か「こっち陣営」か。
そんな二元論的な世界観じゃなくて、グラデーションを持った、なだらかで、あいまいで、旗色の不鮮明な関係性をいかに構築していくか。

ショー・ザ・フラッグ。

「お前は敵か!味方か!どっちなんだ!?味方ならば結束して戦線に立て!さもなくば敵だ!」

そんな姿勢の持ち主ばかりじゃ、秩序と多様性の両立はできない。
いつまで経っても、「あっちVSこっち」の、全体主義者同士の醜い争いが続くだけだ。

それとも、結束主義者と呼んだほうがいいかな?
結束主義の日本語訳は、ファシズムだ。


多様性は混沌だ。並みならぬ知恵と、工夫と、覚悟でもって、多様性と秩序との両立を保つ努力を続けなければ、それは容易に悲劇をもたらす。

しかし同時に、多様性は力だ。単一の美学と価値観で規格化された集団は、脆弱性に対する針の一突きで瓦解する。だが、秩序と多様性との両立に成功する集団は、そう簡単には瓦解しない。

そして何より、多様性は可能性だ。新たな価値は、常に多様性の中から生まれる。単一の美学と価値観で規格化された集団は、あっという間に発想力の限界に追い込まれる。それがその集団の、文明としての進出限界点になる。多様性と秩序との両立が無ければ、いずれ必ず行き詰る。新しい価値を、新しい選択肢を、新しい道を切り拓くことができなくなる。

多様性の持つメリットだけを喧伝し、デメリット…混沌という深刻なデメリットに対して…見て見ぬふりをするのは、現実的な視座じゃない。

両方をちゃんと直視する必要があるんだ。
覚悟をもって。

まあ…とはいえ、おれにはそんな覚悟はないから、こんなところで、続きは静観させてもらうよ。

どこに向かっていくのだろうかね、我々の住むこの国は。