2024東京15区補選、乙武さんについて思ったこと
東京15区補選、お疲れ様でした。
われらが国民民主党が力を入れて支援した乙武候補は、残念ながら結果至らず。まずは、厳しい選挙を戦われた皆様に敬意を表します。
今回の15区補選について、そして国民民主党の乙武氏の推薦について、様々な議論があると承知しています。
また、今回こうした結果になった要因についても、様々に複合的な要素があり、何か一つの理由や原因をもってして「これだ」と言うことはできないものと思います。
そのうえで本稿では、私自身がコンテンツ・マーケティングを生業の一つとする身ですので、その観点から感じたことに絞って、お話をさせて頂きたいと思います。
繰り返しになりますが、これからお話する内容のみが、全ての原因だと主張するものではありません。実際には、要因は複合的でしょう。また、客観的な根拠に基づくものではなく、あくまで推論に留まるものとなりますこと、ご了承下さい。
まず今回、乙武さんの訴えは、「障碍者福祉の拡充”だけではない”」と認識しています。それは要素として一定以上のウエイトを占めるとは思いますが、より本質的には、『今この社会の中で、困りごと”を抱えている人々の力になりたい』、そして『いつまで経っても変わらない政治を変えたい』という想いを、私は受け取りました。
そして、乙武さんの目に映り、耳に届き、政治を変えて解決したいと臨んだ”困りごと”は、身体障碍に起因するものに限らないでしょう。より幅広く、そして多種多様な”困りごと”に直面する人々の力になりたい。直面する問題を一つでも解決したい。そうした想いを持って立たれたのだと受け止めています。
(もしこの認識が間違っていたら申し訳ありません。が、おそらくそうだろう、という仮定に基づいて話を進めます。)
しかし、同じような受け止めを、多くの人が、同じようにできたでしょうか?乙武さんのメッセージは伝わったのでしょうか?
おそらく、答えはNOです。
その理由は、熱伝導ではありません。
熱は伝わってました。
問題は、メッセージの打ち出し方にあります。
乙武さんは、非常に個性的なお身体をお持ちです。それが故のご苦労も、そうでなければ得られなかったものも、きっと、どれも掛け替えのないものでしょう。
しかし、あえて不倫騒動などのイメージダウンを度外視して考えても、パっと見て伝わる客観的かつ表層的な情報は、『身体障碍を持った人が立候補した』という範囲に留まります。「五体不満足の著者」という情報が加わったとしても、本質的には同様です。
となると、「この人は障碍者福祉政策を推進する”ために”立候補したのだろう」という、ある種の色眼鏡でもって認識されると想像できます。
その色眼鏡を通して受け止めた時、『困っている人の力になりたいんです』というフレーズは、『(身体障碍によって)困っている人の力になりたい』と無意識下に置き換えられてしまいがちです。
『この身体を持って生まれて、多くの人に助けられて生きてきた、私にしかできない政治があります』というフレーズは、『(障碍の当事者である)私にしかできない(障碍者福祉を推進する)政治があります』という受け止めになってしまう。
本意としては、『困っている人』も『私にしかできない政治』も、もっともっと幅広い領域を包摂するものとしてお訴えになったとしてもです。その幅広さが、多くの人に共鳴する”言葉の形”になっていなかった。個人的には、そのように思えます。
『身体障碍を持った人が立候補した』
『障碍者福祉政策を推進する”ために”立候補したのだろう』
こうした色眼鏡を破壊する、強烈なハンマーが必要だったのではないかと思います。
しかし、そのハンマーが無かった。
なので結果的に、『何をしたい人なのか、よくわからない人』と見られてしまったのかもしれません。
たとえば…仮にですが、『障碍者のためだけに、皆さんに負担を強いるのではなく、みんなで一緒に豊かになれる、そんな社会を目指します』と言い切ることが、もしも可能だったのであれば、もう少しだけ、結果は違ったのかもしれません。
そして隣に立つ玉木さんが、『みんなで一緒に豊かになれる政策を、私たちは持っています。我々ならできます!』『右でも左でもなく、みんなで上へ!』とブチ上げれば、これは全然印象が違ったわけですね。
もしかすると、実際にそうした打ち出しをしていた場面もあったのかもしれませんが…。個人的な印象としては、その印象は強くは残っていません。
乙武さんが、『多様性は認めるものではなく、そこに在るもの』というお話をされていた場面で、そのエッセンスを感じ取ることが多少できた程度です。
乙武さんの本質は、一般的な『障碍者』のイメージにハマらない、型破りで強烈な個性にあると思っています。型破りなんですよ。あえて申し上げれば、不倫騒動も含めて。良い面も悪い面もどちらでもない面も含めて、何かと型破りなんですね。
というよりも…2014年のTEDでステラ・ヤング氏が…バチクソ面白いスピーチで指摘したように…我々の社会は未だに、社会が障害者を「感動ポルノ」にしてしまう風潮が、きっとあるのでしょう。そしてその「感動ポルノ」をテコに、社会福祉負担をおっ被されるんじゃないかと懸念する人々も。
そうして考えた時、乙武さんの型破りな個性は、この不毛で、誤解に満ちた、誰も幸せにならない分断を、ぶち壊せる可能性を持っているのではないかと思うのです。
にもかかわらず、総じて、今回の選挙における打ち出しは、『障碍者』の型にご自身をはめ込んでしまっていたように見えてなりません。
厳しい言い方をすれば、乙武ひろただという人物でなくても、障碍をお持ちの方であれば、他の人物でも同じことが言えてしまう内容ばかりが目立ってしまったように思います。
もちろん、誰にとっても身体は、自分のアイデンティティと一体不可分のものでしょう。乙武さんも、そのお身体でなければ得られなかった、掛け替えのないものが沢山あると思います。
しかしです。
もしも、カボチャの馬車に乗った魔法使いがやってきて、投開票日前日のキッカリ午後8時まで、乙武さんに魔法をかけて、生身の両手両足を与えたとしても、きっと、乙武さんは乙武さんのままなんです。良い面も悪い面も含めて。
だってそうでしょう?
両手両足が生えた途端、あなたの周りにいる人たちがサーっと離れていきますか?アンチがファンに変わりますか?んなこたぁないね!明日の昼飯のうどんを賭けてもいい。
その『変わらない部分』にこそ、この国の、『変わらない政治を変える力』があるんだと、個人的にはそう思っています。
以上です。