ポピュラーミュージックを補助線に読み解く戦後政治と、「対決より解決」についての小考

我が親愛なるフォロワっさんが、90年代のJ-POPについて、「大人VS仲間」「社会規範VS本当の自分」という“平成の対立構造”について言及しておりまして。

このへんのJ-POPのマインドって、実はがっつり戦後政治史が絡んできて、政治クラスタ的にも面白い話だと思うので、ちょっと書いてみようと思います。

『東西冷戦構造』『学生運動』『(当時の)日本共産党』『ソ連崩壊』とかのワードに「おっ!やってるねぇ大将!」となる皆さんにも楽しんでいただけるんじゃあないかな。

そして真面目な話、『対決より解決』という国民民主党のキャッチフレーズにもつながっていく話になるので、頑張って書きたいと思います。

なお、内容に関しては明確なソースが無いものも多く、当時を知る人々からの伝聞がほとんどです。しかも、その聞いた相手というのが、お名前を差し控えないとマジでマズい皆様ばかりでして…。なのでまあ、この記事は与太話ぐらいにお読み頂けると助かります。

それと、この記事はいわゆる「主語デカ案件」になってしまっているので、その点もご容赦下さい。「大衆音楽」という語を多用していますが、実際の大衆音楽は、いつの時代も多様であり、一概にこうだと言えるものではありません。大衆音楽シーンの一角に存在感を占めていた一部の潮流、ぐらいの意味合いで大目に見てもらえると助かります。


2020年~:「対決より解決」新・国民民主党

『対決型野党』か『提案(解決)型野党』か

現代の日本の政治シーンにおいて、時々話題になるテーマですね。国民民主党は一貫して『対決より解決』を掲げていますが、必ずしもスタンダードな姿勢ではなく、野党の姿勢としては”異端”と見る立場もあります。

むしろ従来の野党の立場からすれば、政権与党と『対決』することこそが、『野党の是』と言っても良いでしょう。『対決より解決』を掲げる国民民主党に対し、「対決しない野党など”吠えない番犬”と同じだ」という批判が加えられることも度々あります。

では何故、野党は『対決するもの』なのでしょうか?
権力の濫用を防ぐ、政権監視能力を担う、といった論もあり、また戦後の55年体制に由来するとの論もあり、その他さまざまな説明があります。

しかし、そうした論理を超えたところに存在する、ある種の根源的な『対決の精神』を紐解いていくと、そこには大衆音楽と政治との関りもまた浮かんできます。


第一章:東西冷戦構造の中で


1950年代~:日本共産党と「うたごえ運動」

戦後における政治運動と大衆音楽の関わりは、1960年代に生じた―――あるいは仕掛けられた―――いくつかのムーブメントが発端にあります。

政治と大衆音楽とを結びつける、戦後最初期の明確なムーブメントとしては、1950年代の「うたごえ運動」が挙げられるでしょう。

ちょっとwikipediaからの引用で手抜きしますが、こんな感じです。

うたごえ運動(うたごえうんどう)は、第二次世界大戦後の日本における合唱団の演奏活動を中心とした大衆的な社会運動政治運動である。共産主義もしくは社会民主主義を思想的な基盤として、労働運動学生運動と結びつきながら、全国各地の職場、学園、居住地に合唱サークルを組織し、1950年代から1960年代にその最盛期を迎えた。声楽家関鑑子が運動の創始者とされる[1]

https://ja.wikipedia.org/wiki/うたごえ運動

この「うたごえ運動」の創始者とされる関鑑子さんは日本共産党の党員であり、同党の政策の―――あるいは”文化工作”の―――実践として、うたごえ運動を創始したとも言われています。

なにしろ、この運動の(当時の)キャッチフレーズが、「歌ってレーニン、踊ってマルクス」ですからね。

当時を知る人々からは、「ロシア民謡や反戦フォークソングを歌って仲良くなったところに、共産党の運動員が若者たちに思想を伝道して…」といった感じで、ゴリゴリの共産主義のオルグ(思想工作)だったという証言も聞いています。

1960年代:安保闘争と学生運動、『プロテストソング』となったフォーク・ミュージック

大衆音楽、とりわけフォークソングと日本共産党とが結び付いた1950年代を経て、1960年代には、安保闘争と学生運動の時代を迎えます。

1960(昭和35)年、日本は日米安保条約の改定問題を巡って混乱が続いた。5月20日の衆議院での強行採決をきっかけに反対運動は一段と盛り上がった。6月15日、全学連は国会構内になだれ込むなど警官隊と激しく衝突した。この衝突で東大生、樺美智子さんが死亡したほか学生・警官双方の重軽傷者は数百人にのぼった。学生たちは警察のトラックに放火し、深夜の国会周辺は凄惨な雰囲気に包まれた。1カ月後、新安保条約は6月19日午前0時、自然承認となった。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030036_00000

ある意味では、”革命のロマン”が若者たちの間に息づいていた時代とも思いますが、そうしたロマンに呼応するように、多数の『プロテストソング』が世に生み出されました。

とりわけ、日本のフォークソングの開祖とも言われる岡林信康の生み出した数々の楽曲は、

学生運動の中で活動家たちの愛唱歌にもなった「友よ」(69年発表)、反戦歌「戦争の親玉」(69年発表)、政治家や資本家、大国の横暴を笑いとともに批判する「くそくらえ節」(69年発表)や「がいこつの唄」(69年発表)、日雇い労働者の生活を歌った「山谷ブルース」(68年発表)、部落差別をテーマにした「手紙」「チューリップのアップリケ」(69年発表)、牢獄のような社会を打ち破り新しい世界を目指せと歌われる「それで自由になったのかい」(70年発表)

https://natalie.mu/music/column/377766

…といったように、日米安保闘争、そして学生運動と密接に作用していったことが知られています。

政治運動化するフォークソングへのアンチテーゼ:メッセージ性の無いカレッジ・フォーク

一方で、当時の大衆音楽、とりわけフォークやロックが、全てなにもかも政治運動化していたわけではありません。

政治性・思想性の強い、うたごえ運動に端を発する『プロテストソング』のフォークに対するアンチテーゼかのように、メッセージ性の無い「カレッジ・フォーク」というスタイルも定着しました。

第一次バンドブームと、「ロックは反体制の音楽」論争

1960年代には、フォーク・ミュージック(アコースティックギターを弾きながら歌うスタイル)だけでなく、いわゆるバンドブームも発生しています。エレキギターやエレキベースといった楽器を使った、グループで演奏するスタイルです。なので当時は、『グループ・サウンズ』とも呼ばれました。

『ロックは反体制の音楽だ』『ロックは反骨の音楽だ』といったクリシェ(常套句)も良く知られるところですが、では実際、1960年代当時のバンドマンたちはみんな「反体制ーッ!」「戦争反対ーッ!」とギターを掻き鳴らしながら叫んでいたかというと、必ずしもそうではなかったようです。

もちろん、フォークとロックはシーンの重なりも大きいですがら、そういった左翼的な思想を持つバンドも少なくはなかったようですが、全員がそうだとか、支配的な流れだったとかいうことは、おそらくは無かったんじゃないかと。そういう話を聞いています。

どちらかと言えば、ロック・シーンと左翼的な思想との結びつきが色濃くなっていったのは、もう少し後の時代ではないかと思います。

1970年代:ロックと政治、ベトナム反戦運動と「イマジン」

ロックと政治との関わりについて言えば、特筆すべきはやはり、ベトナム反戦運動と「イマジン」でしょう。

武力衝突の趨勢が、後方の認知戦/思想戦によって影響された事例であり、その認知戦/思想戦において大衆音楽が大きな影響力を発揮した事例でもあります。(※戦争や革命の中で音楽が大きな影響力を持った前例は、もっと古い時代にもいろいろあるのですが。)

簡単に説明すれば、まず、ベトナム戦争それ自体が、米ソそれぞれの代理戦争の側面を強く持っていました。従って、戦場における武力の趨勢のみならず、米ソ両国の政策決定が戦場に大きな影響を与える戦争だったわけです。

事実、米軍の撤退を招いた大きな要因は、当時の米国内における反戦運動の高まりにあったとされていますが、その米国内―――日本国内でも生じた―――ベトナム戦争反対運動の一部には、ソ連側からの支援が入っていたことも知られています。

ソ連からの資金援助

公開された旧ソ連共産党機密文書によれば、ベ平連のKGBとの結び付きは、吉川勇一がKGBの代表者に資金援助を依頼したことに始まる。当時のユーリー・アンドロポフKGB議長がソ連共産党中央委員会に提出した報告書には小田と吉川が名指しで登場しており、アンドロポフ議長は党中央委員会にて、ベ平連リーダーとKGBの秘密の接触を利用して、プロパガンダ活動を拡大し、日本から第三国へのアメリカ軍の脱走兵の違法輸送を達成するために必要な場合、物質的支援を含む委員会が活動を継続するのを支援することを勧告した。

さらにアンドロポフ議長は、この報告書を、KGBは、日本のベ平連のリーダーとの接触を維持し、この関係をソビエト連邦の利益に影響を与えることを支援するために、自由に使える非公式の手段を準備すると答えていた[18]

https://ja.wikipedia.org/wiki/ベ平連

このように、後方で生じた反戦運動もまた、それ自体が戦争の一部分であり、”銃弾の飛ばない戦線”を形成していたわけです。

そこで無自覚に運用された”兵器”は、銃や戦車や戦闘機ではなく、言葉であり、演劇であり、絵画であり、そして音楽でした。

もちろん、当時「イマジン」を歌って反戦を訴えていた人々は、心から平和を願っていただけであり、ジョン・レノンもまたその一人だったのだと思います。ソ連側に加担するつもりなど、一ミリも無かった人が大半でしょう。

しかし、ソ連はそれを利用しないほど”甘ったれ”ではなかった、というだけの話です。

なお、米軍のベトナム撤退をもって「平和運動で戦争を止めた」と、今もなお誤解している人々が多いようですが、米軍撤退後もベトナム戦争は続きました。プノンペン包囲、ホーチミン作戦、プノンペン陥落。どれも米軍の撤退後に起きた出来事です。

ベトナム反戦運動がもたらしたのは平和ではなく、いくつかの大規模攻勢と、南ベトナム側の軍事勝利でした。おそらくは、ソ連の思惑通りに。

さらなるキーワードとして:ヒッピームーブメント

このあたりの時代の音楽と政治/思想運動との関連には、ヒッピー・ムーブメントへの言及も、本来は避けて通れないところです。が、長くなりすぎるので省略します。

東西冷戦構造の中で:思想戦争の"兵器"として無自覚に運用された大衆音楽

「僕は若いころ、反戦を叫んでたくさん音楽をやってきたけれど、それも結局は、”思想戦の兵器”に成り下がっていただけなんじゃないかと、この歳になって思うよ。」

とある大先輩が、あまりに早すぎる人生の終幕を迎える前に、僕に話してくれた言葉の一つです。

東西冷戦構造の時代を振り返る時、日本の政治の風景、国内政治の保革対立の構造もまた、東西冷戦の”戦線”に位置付けられるように思います。

グローバルな米ソ対立の構造と、日本国内における保革対立の構造とは、鏡写しだったわけですね。

先ほど、ベトナム反戦運動にソ連側の支援が入っていた話をしましたが、一方で、親米派勢力にもまたアメリカ側からの支援が秘密裏に入っていたとされています。自由民主党だけでなく、現在の国民民主党の”祖先”とも言える民社党にも、米CIAからの資金援助が入っていた時期がありました。

当時を生きて政治に関わった日本人のほとんどは、保革どちら側であれ、あるいは政治的スタンスを持たない人々であれ、自らが東西冷戦の認知戦/思想戦に参戦していると自覚していた人は、決して多くはないでしょう。ただ自らの思う理想のために、懸命に何かに取り組んでいただけでしょう。今、我々がそうしているのと同じようにです。

そうした時代の中で、理想、思想、素朴な願いに呼応して生み出された数々の大衆音楽も、『今にして思えば』『無自覚のうちに』認知戦/思想戦の、ある種の兵器となってしまっていた側面が、まったく無いと言えば嘘になるのかもしれません。


第二章:ソ連崩壊後


あまりに長くなりすぎるので、1980年代はすっ飛ばします。

1991年~:ソ連崩壊による冷戦構造の終結と、行き場を失った”反骨の矛先”

1991年に決定的となったソビエト連邦の崩壊は、東西冷戦構造の終結をもたらしました。もっとも、この終結は表面的なものであり、水面下でなお対立が続いた先に2022年のウクライナ侵攻がある、との見方もあるようですが。

ともあれソ連崩壊は、日本国内においても、左派の人々にとって『精神的支柱の喪失』とも言えるほどの大きな衝撃をもたらしたと聞いています。

そしてその喪失は、米ソ対立の冷戦構造の中に無自覚に(あるいは自覚的に)位置付けられていた、一部の大衆音楽の担い手にとっても同様だったのではないでしょうか。

50年代に共産主義と、60年代に日米安保闘争と、そして70年代にベトナム反戦運動と結びついた政治的/思想的背景を持つフォーク/ロック/プロテストソングの文脈は、80年代には『反体制』『反社会規範』の文脈へと接続される中で、より抽象度を増して形而上的な性格すらも帯び始めます。こうした音楽シーンにおいては、党派性/思想性の希薄化は冷戦構造の崩壊より先んじて生じていたわけですが、それでもソ連崩壊の影響が皆無だったかと問われれば、おそらくは否でしょう。

『共産主義の理想と、打倒すべき資本主義』という大きな物語を失った左派の人々は、自らの思想の呼び名を「リベラル」と変え、あるいはエコ・ムーブメントへ、あるいは反原発運動へ、あるいは反基地・反自衛隊へと連なっていくわけですが…もちろん日本共産党のように、それでも共産主義の旗を掲げ続ける人々も残ったのはご承知の通りです。

そうした変化を迎えた90年代、音楽シーンはどうなったかというと、

「何もわかっちゃいない汚い大人」VS「おれたち若者」
「窮屈で理不尽な社会規範」VS「本当の自分」

という、党派性を離れた別種の対立構造を描き出すようになりました。

90年代の大衆音楽シーンを率いたプロデューサー達は、70年代・80年代育ちの人達がほとんどでした。東西冷戦構造の中で、明確な対立軸と明確な理想の中で紡ぎ出されたプロテストソングとその子孫たち、そこに受け継がれた「反骨の精神」を内在化してきたものの、いざ自分が楽曲やアーティストをプロデュースできる立場になった途端、その構造が消失してしまった。

そうした90年代という時代の中で、「今の時代の対立軸」として導き出されたのが、「何もわかっちゃいない汚い大人」VS「おれたち若者」であり、「窮屈で理不尽な社会規範」VS「本当の自分」だったのではないかと思います。

別の視点では:「モーレツ社員」と「およげたいやきくん」

さて、ここまで特に断りもなく話を進めてきましたが、音楽シーンと一口に言っても、その中身は多種多様です。ここで触れなかった潮流も各時代に様々にあります。

その一例として、「およげたいやきくん」のヒットを挙げておきましょう。この曲、当時のサラリーマンにめちゃくちゃ売れたんです。当時は「24時間働けますか」「モーレツ社員」という、今からするとトンデモナイ働き方が当たり前になっている時代でした。そんな中で、毎日毎日仕事づくめの自分と、「たいやきくん」とを重ねて共感した人が多かったんだそうです。

東西冷戦構造の崩壊と『連合』の誕生

ソ連崩壊と東西冷戦構造の終結に関連して、ここで『連合』についても触れておきたいところですが、これも書き始めると大変になるので止めときます。

1990年代後半~:政治性も対立軸も無い『ネオ・フォーク』ムーブメント

1990年代の後半に入り、ストリートから新しいムーブメントが出現します。ゆず、コブクロ、19、サスケ…etc、『ネオ・フォーク』と呼ばれるアーティスト達です。

彼らの音楽は、スタイルこそ従来のフォーク・ソングでしたが、その歌詞には政治的メッセージもなければ、何らかの対立軸を描くこともなく、ただ等身大の青春を歌う音楽性です。それが同世代の多くの共感を呼び、爆発的なムーブメントになったわけですね。

平成不況を反映した音楽も

一方で同時代には、平成不況の実感が反映された音楽もいくつか生み出されました。

応援ソングの系譜や、「今は不況で大変だけど、そのうちまた良い時代が来るから元気に頑張ろう!」といった楽曲、あるいは「良かった昔(バブル崩壊前)と切ない今の対比」という方向性ですね。

具体的にこれ、とは挙げませんが、思い当たる楽曲がある人も多いのではないでしょうか。

90年代後半~00年代:対立の消失と、大衆音楽の”脱政治思想”

90年代後半から00年代にかけて、大衆音楽のシーンで決定的に生じた現象は、「対立の消失」ではないかと思います。

冷戦構造の終結に伴い、それまでシーンの一角に確たる存在感をもって君臨していた『反体制』の音楽は、理想と共感、そして対立軸を喪失。次いで一時現れた「大人VS仲間」「社会規範VS自分」という抽象度の高い対立軸もまた、そもそも対立を必要としないネオ・フォークによって上書きされていきました。

「等身大」への焦点

代わって生じたのが、”等身大”というキーワードでしょう。
等身大の青春、等身大の日常。

大衆音楽が、同時代の多くの人々の理解や共感でもって”大衆の音楽”になるものだとすれば、90年代の後半には既に多くの人々が、”浮世離れした政治の理想”よりも、”等身大の日々”へと焦点を当てる―――当てざるを得ない―――時代になっていた、とも考えられます。

それまで右肩上がりの傾向を示していた実質賃金指数が、97年を境に下降トレンドへの転換してしまったことも、関連する事象かもしれません。

90年代後半に起きたことを一見すると、東西冷戦期には明確に存在していた「政治と音楽の関わり」が決定的にシーンのメインストリームから姿を消し、政治と大衆音楽とは袂を分かったように見えますが、その要因は、人々の焦点が理想から現実問題へと移り変わる中で、政治がその変化を捉えきれなかったのではないかと思います。


第三章 『対決より解決』の向こう側へ


冷戦期において、シーンの一角に確たる存在感を持っていた『プロテストソング』の血脈は、21世紀初頭にはほとんど姿を消していたと言っても良いでしょう。その再興を図る試みは幾度となく繰り返されましたが、いずれもキャズムを超えることはなく、党派性や思想性を持たない多くの人々が『反〇〇』の音楽を希求する現象は、今日に至るまで再生していないものと思います。

在りし日の冷戦は、とうに終わったのです。
多くの人々の間では。

しかし、一部の政治家と、政治に携わる人々の間では、未だに冷戦期の対立構造が”継承されている”のではないでしょうか。

2023年:国民民主党代表選 「古い政治」VS「新しい政治の風景」

2023年に行われた国民民主党代表選挙では、まさにこの『時代観』が本質的な争点の一つになっていたように思います。

『古い政治からの脱却』を訴える玉木候補(当時)に対し、『おかしな政権与党に厳しく対峙し、政策をただすことの、一体どこが古いのか』と前原候補(当時)は反論しました。

党の運営方針など、さまざまな面において、激論を経て相互理解へと至ることができたであろう両候補が、決定的に相容れなかった部分がここにあるのではないか、と私は見ています。(なので、前原さんの離党に対して、それほど驚きはありませんでした)。

「対決より解決」:”東西冷戦の遺構”からの脱却

玉木候補(現代表)の訴える『対決より解決』。ここで言う『対決』とは、我が国の政治の風景に取り残された、”東西冷戦の遺構”それ自体ではないかと思っています。実際は知りませんが。

米ソの熾烈な対立と競争、世界中で繰り広げられた代理戦争。日本国内においてもまた、米国の影響を受けた政治勢力と、ソ連の影響を受けた政治勢力とが、時として無自覚に、あるいは自覚的に“代理政争”を繰り広げていた時代。

プロパガンダに端を発する『プロテストソング』としてのフォークと、ロックを『反体制の音楽』と位置付ける人々によって奏でられた音楽が、ポピュラー・ミュージック・シーンの一角に存在感を占め、それによって政治思想と音楽シーンの一部とが、良くも悪くも密接に結びついていた時代。

そうした時代に形象された―――あるいは時代を形象した―――政治対立の構造。ソ連が崩壊し、冷戦構造が少なくとも表面的には終結して数十年、なおも我が国の政治の風景に遺り続けた”政治遺構”

それこそが、玉木氏の言う『対決』の正体ではないかと、個人的にはそう思うわけです。

2024年:変わりつつある政治の風景

しかして今、2024年。この国の政治の風景は、変わりつつあると見ています。

2024年4月9日、セキュリティクリアランス法案が賛成多数で可決しました。

かねてより本法案の必要性を訴えていた国民民主党はもちろん、当初は難色を示していた立憲民主党も賛成に回っていることは、戦後政治史の一つの重要なターニングポイントなのかもしれません。

東西冷戦の遺構を色濃く残していたのであれば、『絶対反対』『対案は廃案』となっていたでしょう。しかし、そうはならなかった。

「対決より解決」は、遅かれ早かれ、国民民主党の専売特許ではなくなるでしょう。「対決」が東西冷戦期の政治遺構を指すのだとすれば、です。

そんな旧時代の対立構造に囚われている場合ではない。
年々厳しさを増す安全保障環境。輸入物価高騰とエネルギー価格の高騰。急激に変化するグローバル経済環境。人工知能・機械学習をはじめとする新しいテクノロジーの出現。のっぴきならない少子高齢化。

山積する喫緊の社会課題を前にして、「旧時代のイデオロギー対立をやってる場合ではない」というのが、党派を問わず、多くの政治プレイヤーの実感ではないかと推察します。

まとめに変えて:2023年8月 どぶろっく/Trigger

さて、我が国の戦後政治史の出来事と、音楽との関わりについて、駆け足で振り返ってきました。大衆音楽(ポピュラーミュージック)という補助線を引くことで、意外といろいろなものが見えてくるものだなあと、自分で記事を書きながら思ったところです。

ソ連崩壊を経て、それまで一部密接に関わっていたフォーク/ロックと政治思想とは、結果的に袂を分かつ形となり、今日に至っているわけですが、まあもともとが共産党のプロパガンダだもんなあ…と思うと、袂を分かっている今のほうが健全な気もします。

しかし一方で、大衆音楽は常に時代の世相を幾分か反映するものでもあります。90年代の青春ソングやネオ・フォークによって政治思想からは脱却しても、社会・経済の様々な状況と、その時代に生きる人々の実感は、同時代を生きるアーティスト達によって、何らかの形で表現されてきました。

まあ、なにはともあれ。

『どぶろっくが政治ネタをやるほどの異常事態』となっている昨今のエネルギー情勢については、ここで語るまでもないでしょう。

では、今回はこんなところで。