リベラルと「寛容のパラドクス」について考える
「寛容のパラドックス」をご存知だろうか。
哲学者カール・ポパーが1945年に発表したもので、以下のように述べられる。
これを引いて、(おそらくは2010年代頃からだと思うが)、「不寛容に対しては不寛容でなければならない」という論が大手を振って歩くようになってきた。
要するに、
「ありとあらゆる意見に対して寛容であろうとすれば、不寛容な意見に対しても寛容であらねばならない。しかし、不寛容な意見に対して寛容になってしまうと、そのせいで寛容性が保てなくなってしまう。だから、寛容性を保つためには、不寛容な意見や姿勢は、受け入れてはならない」
という考え方だ。
この考え方はとても面白くて、「不寛容」と書かれた箱にどんな「不寛容性」を入れるかによって、とても不思議なことが起きるのだ。
例えば、以下の例を考えてみよう。
・A小学校では、「1+1=2」を正解と教え、それ以外の答えは間違いと教える。テストで「1+1」の答えに2以外を書くと、ばってんを付けられてしまう。
・B小学校では、「1+1」の答えは何でもよい。2でも3でも5でも1028でも。あらゆる答えが「そういう意見もあって良いですよ」「素晴らしい発想力ですね」と認められる。
さてこの場合、寛容性という尺度に限って言えば、B小学校のほうが明らかに寛容性に優れている。不寛容なのはA小学校だ。「1+1=2」以外の答えに対して不寛容なA小学校の教育は、寛容のパラドクスによって排除されることになる。
もう一つ、別の例を考えてみよう。
・A国では、法律に反して裏金を作った政治家は大臣を辞職し、責任を追及される。
・B国では、法律に反して裏金を作った政治家でも、大臣の職を継続できる。
A国とB国では、どちらのほうが政治に対して寛容だろうか。寛容性という尺度だけを見て考えれば、B国のほうが寛容である。A国は不寛容な国になる。
「人間だれしも欲望はある。裏金を作ってしまうような愚かさを持った人物こそが、誰一人として完璧ではない私たち国民の代表として、政治の場に身を置くに相応しい。そのような議員も包摂できる議会こそが、多様性のある寛容な議会なのだ」。
…と、寛容の精神から言えば、このようなことが言える。
逆に言えば、「裏金議員は辞職しろ!絶対に許さない!」という言説は不寛容であり、寛容のパラドクスによって排除されることになる。
さて、これは随分と困ったことになった。
「様々な意見があるのは素晴らしいことですね」というのは、概ねその通りだと思うからだ。
もちろん言論の自由市場論についても念頭にあるし、あるいは科学で言えば、1690年代の終わりごろから凡そ100年間に亘って続いたフロギストン説の過ちや、もっと有名な天動説の過ちなんかも念頭にある。『みんなに受け入れられない意見や学説が実は正しかった』ということは、歴史的に何度も起きているわけだ。
しかし一方で、じゃあ地球平面論者の船長が指揮を執り、オカルティストの航海士が羅針盤がわりに風水盤を持ち込む、『多様な意見クルーズ世界一周の旅』に乗船したいか問われると、いかんせん、それは勘弁してほしいのだ。純粋にもう、生きて帰れる気がしない。
現在の科学が間違っている可能性もあるからと言って、反ワクチン言説に加担したり、そうでなくても中立的な立場を取ることにも、心理的抵抗がある。
ましてや、裏金問題を起こした議員を、「これも多様性だ」と言って養護するなど、無理筋も良いところだろうと思えてならないのだ。
「寛容のパラドクス」も、あるいは「多様な意見を尊重しましょう」も、つまるところ、ある程度は”恣意的に運用しないと破綻する”スタンスなんじゃあないだろうか。よくリベラル嫌いの人々からは「リベラルのダブルスタンダード」と言われるし、僕もそういうダブスタは好きじゃあないのだが。
しかし同時に、「多様な意見があるのは良いことだ」と思いつつも、反ワクチン言説や、田んぼにジャンボタニシをばら撒くことや、あるいは学歴至上主義みたいなレッテル張りとか、そういった色々なものを許容できない自分がいるのだ。これは困ったことである。
しかし、そもそもがダブルスタンダードを前提に、「恣意的な運用をしなければ破綻する性質」を根本的に備えたロジックなのだとしたら?
洋画の登場人物みたいに、目を丸くして、手のひらを上に向けて、肩をすくめて見せたい気分になる。
しかし思えば、どうしてこのような寛容/不寛容の話になってしまうのだろうか。
つまるところ、
「バカげた意見はバカにされるし、愚かな意見は愚かだと言われるが、しかしバカげた意見も愚かな意見も、それを『表明する権利』は守られなければならない」
というのが、リベラリズムの基本的なスタンスではなかっただろうか。これならそもそも、パラドックス自体も生じないし、恣意的な運用も必要ないのだが。
もしかすると、「表明する権利」が「否定されない権利」にすり替わっているのだろうか。
だとすれば、「否定されない権利」が担保される社会=寛容な社会となり、その「寛容性=否定されない権利」を保つためには、不寛容を排除しなければならないが、しかし何をもって『排除すべき不寛容』とするかは恣意的に(ダブスタ的に)運用しないと、おかしな話になる…みたいな。
うむ。やっぱりよくわからんが、たぶんきっとこういうことなんじゃあないかな。