うとQ世話し「うんざり」から「自分の中に軸がない」を経て「ニューノーマル考」迄

2020/9/16
(うとQ世話し「うんざり」から「自分の中に軸がない」を経て「ニューノーマル考」迄)
「うんざり」
という言葉を英語に置き換えると「too much enough」
それを今度は日本語に再度置き換えなおすと「あまりに十分すぎる(で、うんざり)」
要するに「多すぎる」「し過ぎ」「在り過ぎ」「過多」「飽和以上」という事です。
度重なる失敗や繰り返される不具合、不都合の感覚よりも、不必要なもの、余計な物、しなくてもいいようなものが多過ぎる感覚の方が近い気がします。
或いはもっと日常の一コマ的に言うと
「毎日同じメニューが出てくる」「どのチャンネルに切り替えても同じ番組をやっている」という「繰り返し」と「代わり映えの無さ」
更にこれを絵画的に表してみると
「一本立ちした木が、多くの蔦に絡まれて身動きできなくなっている絵」
要するに「がんじがらめ」
いい加減やめたいのに、止められない、というより抜け出せない。
悪路のぬかるみに嵌ったジープがいくらエンジンをふかして車輪を全力で高速回転させても「空回り」ばかりして抜け出せないのはおろか、逆に益々深みに嵌ってしまう「苛立ち」と「徒労感」
即ち「閉塞」
「なんで自分は必要のない虚勢ばかり張っているんだろう」という、気が付くと既にやってしまっている虚しい反射神経に実は「うんざり」
「なんで自分は人に合わせて意味のない相槌ばかりうっているんだろう」という陽炎の様な当たり障りの無さに実は「うんざり」
「なんで自分は人の目線に脅されて、黙ってみて見ぬ振り、無関心を装って逃げてばかりいるんだろう」そんな自分の十重二十重の事細かすぎる過剰防衛に実は最もうんざり。
それで
「自分の中に軸がない。他人の目線の中に軸がある。これでは人生辛かろう」
となり、逆に今回のコロナ禍で、その辺の「がんじがらめ」に穴が開かないか?縛りが解けないか?換言すれば「ニューな変化が起きないか」を無意識世界で内心密かに期待している
それが
「ニューノーマル考」
まで、多くの方々に拙記事を読んでいただいた理由?
実は、上記の「うんざり」「自分の中に軸がない云々」「ニューノーマル考」は直近の自分の記事の中で、断トツのご購読数を戴いた記事の略式タイトルの抜粋綴りでした。
それを俯瞰してみて、何となく以上のような事を想像致しましたので、ご報告がてら、本日は感想ベースの推論を記してみました。

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