(うときゅういっきの「これから」 恐ろしい危惧 )前記事書き直し版

2021/11/25-2
(うときゅういっきの「これから」 恐ろしい危惧 )前記事書き直し版
白内障になってそれが天然由来か人工由来かに拘わらず外光そのものが一律にまぶしかったり、乱視気味になって物が正確に識別できなくなったりする等、活動が大幅に制限されて不自由極まりない生活を送る羽目になりました。
しかしその中で気づかされた事が幾つか御座いました。
一つは今まで思いつきざま吐き出す様に書いていましたが、それが出来なくなったので考えを頭の中に寝かせておく時間が増えた事。
今一つは、書く時間より人、特に従業員達と話す時間が増えた事。
そして三つ目は、目の保護を優先させる為に人とは違った振る舞いをせざるを得なくなった事です。
一番目と二番目については「書け」なくなった事で、その前段の観察時間と思考の溜め置き時間が増え、書く前に行う会話時点でのコミュニケーションレベル(少なくともこちら側からの伝達内容パフォーマンス)が格段に上がるという副産物を産み出しました。
平たく申し上げますと内容の「発酵濃密」と「日本人らしく複雑に化粧する」前のスッピン状態の「風通しの良さ」が同時に手に入った様なものでした。
しかし以下申し上げます三番目の事に関しましては、ある種の疑念と強い不快感を抱く結果となっております。
一例としてバスの中での体験をお話し申し上げます。
以前からバスに乗ると、その人がした事がおかしな事なのか真っ当な事なのか、と言う事は全くどうでも良く、単に他の乗客と違った事をしているというだけで周りが白い目を向ける傾向を感じておりました。
例えば自分を例に取れば、今コロナ禍で、車内に乗客が多いとみれば窓を開けたり、身体の使いすぎで腰が痛ければ楽な姿勢で座ったりする様な場合でも、それらの視線を感じた事がありました。
今回もバスに乗り窓際に座ると、横からの日差しがまぶしくて仕方ないので、即席の日よけとして拡げた掌で目に光が入りにくくしたのですが、その動作に「無言のクレームがついた」のです。
これが自意識過剰によるものであれば自分の自意識を修正すればいいだけの話なのですが、以前からの経験則でそれが客観的に見て自意識過剰の産物ではないことが直ぐ様見て取れました。
その無言のクレームとは
「我々と違う」
と言う上述の表現より遙かに強力な「縛り」である
「我々と同じ事をしていない」
という非難でした。
目立つ行為をガサゴソする等以ての他。
目立たぬようにきちんと座り、身動き一つしないのが我が国国民として当たり前の所作。
それを粛々としている「我々」と「同じでない」とは不届き千万。
将に「強烈な同調圧力」
「是では後代が育つ筈がない」
咄嗟に感じた、
我が国の未来に対する
「恐ろしい危惧」
でした。
後記)
画面凝視時間を短くしようとして書いても、後で納得がいかなくなり結局は書き直し。
他にも日々目通しすべき事務書類がワンサカ。
結果、全て元の木阿弥。
何をやっているのやら

よろしければサポートをお願い申し上げます。戴いたサポートは自分が書く上での活動費として使わせていただきます。