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(うときゅういっきの「オマケの英語教室」上げ膳据え膳、逆効果?)

2022/1/15
(うときゅういっきの「オマケの英語教室」上げ膳据え膳、逆効果?)
今から10年程前インターネットのある書込みで以下の様な投稿を見て驚きと感銘を受けました。
その記事は別に英語について書いてあった訳ではないのですが、それを英語教育に置き換えて記してみます。
「英語を教えるのに大学教授レベルになる迄やってはいけないというなら飛んでもない時間がかかるし、又教授する側の人口も非常に限られたものになる。しかしもし今の自分が英語に関して知っているレベルが他の何人かの人に対して少しでも多ければ、その差分だけは知らない人に教える事ができるし、教えたっていいのではなかろうか。何も10年先を待つ必要はない。今からだっていいし、完成を待たずに途中から始めたっていい。歩きながら作り上げていけばいいだけだ。なので、自分はまずは今から何かを始める事にしております。そうすれば教授する側の人口が爆発的に増える事になり、正誤の戻り差分を除いても、全体としては底上げという意味で案外いい結果が出る様な気がする」
と。
それもあって今から5年程前にネパールカリー屋「ナマステエブリバディ」を始めたと同時に辞書を置かない考える英語教室「すすき野留学」を開校しました。
そうして仕事をする中でアジア系の外国人と接する中で
「英語を母国語としない外国人が英語を学ぶ方法としては、むしろ上述のケースの方が遥かに多い様だ」
と思うようになりました。
例えば親は子よりも英語に接した機会が多いので親が子にその差分だけ教える。
近所のおじさんはお父さんお母さんよりまた少しだけ英語に接する機会が多いのでその差分をお父さんお母さんに教え、その新たな差分を再びお父さんお母さんが子に教えたり、そのおじさんがダイレクトにその子に教えたりして子供たちは学んでいく。
といったようなケースです。
それというのも貧しい国々では我が国の様に教育制度や教育を受けられる家庭環境がそれほど整っていないからです。
それでも多言語国家等で共通言語としての英語を生活必須アイテムとして取得しようと思ったら「教育制度の拡充と家庭環境の改善」等あてにもできないし待ってもいられないからです。
そういう意味では逆に我が国では教育制度が「余りに早期に整いすぎていた」が為に、そうした貪欲さが生まれてこなかったのかもしれません。
わかり易く言うと
「ちゃんとした英語は親や近所のあてにならないおじさんなんかが教えるものではないからきちんとした学校で「のみ」教わってきなさい。そして又そうあって然るべきだから」
という訳です。
なので、我が国では教える側の人口と場所が限られ、且つ又そういった場所で教わる正しい英語以外は絶対にしゃべっちゃダメといったような風潮が出来てしまい、ある意味隔離された純粋培養状態が生まれ、生活の中で実験しながら身に着けるといった習慣が育たなかったのではないかなと独り、推測しております。

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