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間違っていてもいいから。

早寝早起きをしようと昨日は22時に床に入ったのに、夜中から明け方にかけてお腹が痛くなってトイレに通い、残念ながら睡眠不足とあいなった。
二度寝して起きたらもう8時半なことにショックを受けつつ、お湯を飲みながらスマホを開いたら、Twitterのタイムラインがいつも以上に荒れていた。荒れの原因を見て、お湯吹いた。マスク2枚のときもコーヒー吹いちゃって、最近笑うことが満載。

ところでTwitterは、その匿名性から言いにくいことも言えてしまうという側面がある一方で、だからこそ多彩な意見が飛び交うところがわたしはおもしろいと思っている。
Facebookのような知り合いどうしのコミュニティ空間になると、どうしてもみんなお行儀よくなってしまう。
ネガティブな発言でひとを不快にしてはならないという暗黙のルールのもと、楽しいできごとや耳障りのいいことばの応酬になる。

かと言って、Twitterにありがちな、一つの視点のみにこだわって、そのひとの言わんとすることの理解からはなから辞退してしまっているものは、わたしだって不快に感じる。批判と非難はちがうはずだよね(どこかの老コピーライターがそれらを混同して炎上したらしいけど)。

とりあえず、そういったことを脇にいったん置いて、さまざまな意見を眺めていると、わたしはなにが正しいのかわからなくなってしまう。このことは以前も書いたような気がするけど、こんなふうにぐずぐずなのがわたしの常なのだ。いろいろなケースを考えすぎて、まるで「ジャムの法則」(選択枝が多すぎると、かえって選択できなくなる)のようになってしまう。

さまざまなケースを考えること自体は悪いことではないと思う。だけど、自分のなかに爪の垢ほどしかない英知を結集してでも、そして誤っていてもいいから、なんらかの結論を出していかないといけないと思い始めた。

わたしが結論を出したところで世の中に影響をあたえることは微塵もない。だけど、わたしはこの世界のメンバーの一人であり、だれかのやっていることにケチをつけることによって、逆に無力を味わうことはしたくない。
いや、そもそも自説をもっていない人間は、ケチをつける資格すらなく、一緒に踊らされるしかないのですよ。

ま、だからといって明日からなにが変わるわけじゃないが、一つ一つのことを丹念に考えて、自分なりの善を追究していきたいと思ったのだった。

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