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なぜ寄付するのか

先だって初めてクラウドファンディングで寄付をした。一昨年演劇を始めたときにお世話になった劇団がコロナ禍で財政が逼迫しているとのことらしかった。
応援したい劇団はここだけじゃないんだけど(劇団に限らないけど)、ご縁もあったし、ちびちびと分散させるよりもひとつのところにある程度の金額を集中させたほうがいいかと思って寄付をした。
ここ1年ほど芝居は観に行っていないのだから、そのチケット分プラス幾ばくかを、ほかに使うお金を切り詰めればいいと思ってしたことだけど、ほかを切り詰めたら今度はそっちにお金が回らなくなるじゃないかという堂々巡りになる。わたし一人が出すお金なんてたかがしれているのだけど。
全体から見れば、わたしごときはほんとうに微力もいいところであり、個人がちまちま寄付する非効率さってどうなんだろうと思わなくもない。

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寄付といえば思い出すことがある。10年くらい前だったか、当時勤めていた会社のグループ企業の社員に寄付を募る封筒が回ってきたことがあった。
なんでもお子さんがアメリカで手術を受けないと治らない難病で、そのための治療費などを寄付しようということだった。もちろん強制ではないし、金額も自由だった。

その封筒が回ってきたとき、わたしは一瞬考えて、お金を入れずに隣の席に回した。べつにケチったわけではないつもりだ。みんな500円から1,000円くらいで寄付していたから、それに倣えばいいだけだし、それくらいのお金は出せた。
間違いなどを防ぐためなんだろう、封筒にはお金を入れたひとの名前と金額を書く表が貼り付けてあり、一番上の枠には部長の名前で「¥10,000-」と書かれていた。
そのお子さんの事情は最低限の情報が封筒に同封されてあるのみで、親であるその社員とは見ず知らずだし、詳しいことはなにもわからなかった。

お子さんのことは気の毒だと思う。親ならどんな手を使ってでも治したいと思うだろう、たぶん。
だけど、こっちはなにもわからない。日本にはそれができる病院や医師は存在しないのか。アメリカで治療すればほんとうに治って、高い確率で普通の生活ができるようになるのか。一応治ったけど、QOLは著しく低いなんてことはないのか。
なんにも知らないままかわいそうとか、あるいは寄付しない罪悪感を感じたくないという理由だけでお金を入れたくなかったのだ。めんどうくさいよ自分。

めんどうくさい自分がどうして件の劇団へ寄付したのか。
罪悪感を感じたくなかったというそのことがわたしの背中を押した。その一方で感じたかったのは安心感である。一応自分なりにできることをやったのだから、劇団に万が一のことがあっても後悔はしないだろうという安心感を得たかった。微々たる金額で罪悪感をなくし安心したいという身勝手さよ。
一方、難病のお子さんへの寄付のときは、罪悪感を感じたのは封筒をスルーしたそのときだけだし、知らない相手の行く末にかんして自分のできることをやったという安心感をもちたいということもない。
非常に利己的で叫びたくなる。

大事にしているものってそのひとによってそれぞれで、それはそのひとの経験に大きく左右されると思う。
わたしも演劇をしていなければこうした文化芸術事業が存続することを願っていなかっただろう(なくなってから残念とか言うタイプ)。
自分が経験したり学習を通じて知ったこと以外、遠い場所、知らないひと、知らない分野のことにまで問題意識を持って行動はできない。自分の想像力がおそまつなんだろうか。

わたしに子どもがいたら、なんの迷いもなく1万円入れられたのかな。今でもスルーするのかな。

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