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誰もが加害者になりうると思っていたほうがいい

「職場のお局様に目ぇつけられちゃってー」
若かりしころ、そんな話を女友達から聞くことが時々あった。
中堅などと言われるようになると、さすがにこんな話は同年代の女子からは聞かなくなった。
だけど、30代になると、今度は男友達からそんな話をされることが多くなった。彼らの場合は、お局様ではなくて、部長や課長など直属の上司から目をつけられるらしい。

お局様と部課長が誰かを目の敵にする。両者のその内容は同じではない。
うっかりすると女性から睨まれるということを、単なるいじめだと捉えてしまいがちで、部課長から目をつけられるのは、期待されている証拠だという勘違いもありがちだ。

いじめでも期待でもないんじゃないかとわたしは思っている。わたしの人間性のレベルが低いからこそ、いじめる側の気持ちがわかるような気がする。
わたしだって特定のひとに目をつけたことがある。そのときはいじめているという意味での目をつけていた自覚はあまりなく、むしろ自分のほうが被害者だとすら思っていた。

わたしが会社員時代に目をつけていた(と後から気づく)のは、同じ職場の五つか六つ年下の女性だった。彼女をMさんとしよう。Mさんは社内結婚して、子どもが二人いた。
Mさんも彼女の夫も明るくて素直で礼儀正しくて、まっすぐ育った感じがした。彼らを見ていると、ひねくれていないひとは、ちゃんとひねくれていないひとと結婚するんだなと、薄い諦観の気持ちをもった。

素直で明るいひとは、良くも悪くもひとを引き寄せる。話しかけると、相手が安心するような反応をするから自然にひとが寄ってくる。
その分、自分をしっかり持っていないと、言いたいことを無遠慮に言われやすい。それは本人が悪いんじゃない。他者が自分自身を制御しないといけないことなのに、それができていないだけだ。言いやすいからなんでも言っていいということではないのに。
かくいうわたしは、その制御ができていなかった。

普段からわたしは、子どもの保育園から急に呼び出されて早退するMさんをサポートしていた。
政府が子育て支援に力を入れ始め、社内ではワークライフバランスが謳われた始めた時期でもあり、独身のわたしにはそんなことはあんまり関係ないけれど、だからこそ協力しないといけないものなんだと思っていた。
でも、「独身をこき使いやがって、もう我慢ならねえ!」と思ったことがあった。

あるプロジェクトへの参加に彼女が手を上げ、わたしがそのサポート役を仰せつかった。
スケジュールなんて最初からわかっているはずなのに、彼女はプロジェクトが佳境に入ったときに、「家族でアメリカディズニーランドの旅、2週間」に行ってしまった。なんでも、長男の小学校卒業の記念なんだそうだ(なんてステキな! 時代は変わったのね!)。

いや、いいんだけどさ……。あ、ご長男くん卒業おめでとう! でもさ、その旅行の日程って、かなり前から押さえていたんでしょ? 秋ぐらいにディズニーランドがどうこうって言ってたの聞こえたもん。プロジェクトの進行スケジュールは12月には提示されていたよね? それなのに、なんで誰も頼んでいないのに「わたし、やります!」なんて手ぇあげちゃったわけ?

なんて思いながらも、そんなことを口にしないくらいのプライドは持ち合わせていたので、恐縮する彼女を「気をつけてねー」なんて言ってニコニコと送り出した。

Mさんのいない2週間、自分の仕事と、彼女が置いていった仕事のかけもちをし、毎日終電近くまで働いた。
ほかの若い社員や派遣社員が残業して手伝ってくれたおかげで、なんとか無事に乗り越えた。

それ以来、わたしはMさんが信用できなくなった。彼女はチャレンジしたい気持ちは人一倍強いけれど、それに行動が伴っていないと思ったからだ。
もっと広い心で彼女のやる気を助けてあげられるとよかったのだけど、わたしの心は猫の額より狭かった。

それで、Mさんと接するときの態度がちょっときつくなるようになった。
それまでだったら、Mさんが新しい仕事に挑戦したがったら応援したし、スキル的な部分でもサポートした。
職場は現状維持が好きな社員ばかりだったから、そういう前向きなひとを(おこがましい言い方をすれば)育てたかった。

でも、ディズニーランド2週間の旅以降は、彼女ができもしないのに新しい仕事をしたがると、たしなめるようなことをわたしは言うようになった。
サポート役のわたしの仕事が増えるということよりも、あれもこれも手に入れようとする欲張りな態度が気に入らなかったのだ。

1年後、Mさんは会社を辞めることになった。
その送別会の席で、Mさんはわたしに「送別会に来てくれてありがとうございます」と言った。「へ?」と思った。同じ部署なのに。

憶測だけれど、彼女はわたしにいじめられていると思っていたんだろう。嫌われているとも思っていたんだろう。
だから、送別会に来たわたしに向かってそんなことを言ったのだ。

わたしは彼女に目をつけたお局様だと思われていたようだ。あえて被害者と加害者という言い方をすれば、彼女は被害者でわたしは加害者だ。

わたしは彼女に対する態度がよろしくないなとは思っていたけれど、自分はあくまでも被害者だと思っていた。
彼女の仕事をカバーして、でも活躍したのも評価されるのも彼女ということになっていることに理不尽な思いを抱いていた。その、なんだか損した的な気分が、自分を被害者にしつつ、彼女に対する態度が荒れたことにつながったのだ。

犯罪のようなものは別として、日常のコミュニケーションの中では、ある部分について自分が正しいと思い、その正しいと思うことをまっとうしようとすると、加害者になりやすいような気がする。
その正しさが自分と相手とで合致していれば、相手も納得がいくから目をつけられたとかいじめられたなどとは思わないはずだ。
お局様も、部長や課長も、自分が正しいと思っている。だから、いじめられていると思わせるような行動を相手にとってしまうのだ。

これは正しい、あれは正しくないという判断は、ある程度は必要だと思う。
「私も正しい、あなたも正しい、みーんな正しい」なんてことを延々とやっていると、言葉が空中をただふわふわと漂っているだけになるような気がする。

実際にそういうひとたちの会話を聞いたことがある。相手のことは決して否定しないのだけど、結局のところ、各々が自分の主張をしているだけのようにしか見えなかった。ニコニコしながら、相手の話を聞いているようで聞いていないような会話になっていて気持ち悪かった。

だから、自分が正しいと思うことはかまわないと思う。
ただ、どこまで自分の主張を貫き、どこまで相手の主張を受け入れるかのバランスと、その主張のしかたが問題なんだと思う。

考えてみれば、小学生でも対応できるような問題ではないか。
なぜもっと冷静に紳士的に主張し合えないんだろうか。負けず嫌いからだからなのか、それとも自信のなさの裏返しなのか、そもそもコミュニケーション能力が熟達していないのか。
まあ、ひとを無意識にいじめてしまう原因はいろいろとあるだろうけれど、正しさはいつだって、ひとを追い詰める武器になるってことは覚えておいたほうがいいんだろうな。

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