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オチを求めるひとの、オチがない話

わたしはなにごとにもオチを求めるほうです。
「大阪人じゃないんだからオチがなくたっていいんだよ」と言ってくれるひともいますが、基本的にオチのないことはなるべく言いたくありませんし、よっぽど優しい気持ちのときじゃなければ聞きたくもないのです。

オチのないこと=結論がない、だけではありません。聞いている側にはどうしようもないこと(天気などの自然現象とか、話し手の体調とか、言う相手をまちがっていることとか)も、オチのないこととしてわたしのなかでは分類されます。

どうしてオチがないといやなのか。
おそらくわたしには「共感力」というものが欠落していて、そのためにオチがないことをいやがるのだと思います。

なにかイベントがある日の前日に、天気予報を見て「明日、雨かもしれない。どうしよう〜」などと言っているひとには共感できません。
心配するのはわからないでもないけれど、心配したってどうにもならないことをうだうだ言ってもしょうがない。
天気が心配なら、なにをすればいいのかあなたの考えを教えてよって思ってしまいます。オチがなくても相手の気持ちや言わんとすることを察してあげる、ということができないのです。

わたしに愚痴をこぼすひとって結構多くて、それはそれでいいのですが、愚痴をこぼす目的を最初に明確にしてから話し始めてほしいと思います。
ただ単に聞いてほしいだけなのか、アドバイスがほしいのか、優しいことばをかけてほしいのか、肩をもんでほしいのか……。
「聞いてくれてありがとう、スッキリしたわ!」「こういうときどうすればいいか考えを聞かせて」そういうのがわたしにとってのオチです。

「ツラい」とだけ言われてもわたしには何もできませんが、「ツラい。だから肩もんで」と言われれば、(時と場合によりますが)そうしてあげることはできます、たぶん。

大阪の方で大きな地震が起きました。SNSなどで遠方の被災者を慮る投稿を目にします。
そばにいないのに、経験していないのに、そういう思いがわき出てくるってすごいことだなと思います。これ皮肉ではないですよ、念のため。

かたやわたしは、自分のことしか考えていません。東京に大地震が起きたときのことを考えて、非常持ち出し袋の再確認なんかしてしまいましたが、それだけです。

なんでこうなるのか。
東日本大震災のときほど、情報を収集していないこともあります(あのときはテレビが有る実家に住んでいて、映像垂れ流し状態でしたし、自分自身も被災者でした)。
だから、大変なことが起きたという実感がわきづらい。

また、離れた場所(東京)にいて、かつ防災に関する専門的な知識もない自分ができることは今のところない、というのもあります。
現実的に無力な自分が、口だけでなにか言うことにひどく抵抗を覚えるのです。
なにもできなくてもひとびとを思いやることはできるでしょう。でも、わたしと彼の地に距離をとらせてしまうのは、自分の共感力のなさによるところが大きいようです。

共感力には想像力が含まれると思います。
彼の地のひとびとが今どんな思いをしているかを想像する力があれば、これ以上なにごとも起こりませんようになどと「祈る」ことくらいはできそうです。
想像できなければ共感できませんから、共感力があるひとには想像力も必ずあると思います。

ですが、わたしは目に見えることや経験したこと以外を想像することができません。だから、思いを馳せたり、無事を「祈る」ことをしたりできないのです。

別の方面で想像力を働かせることはできます。
たとえば、こういうふうにデータを作っちゃったら後々改変するときに不便だろうなとか、こういう手順にしたらミスするひとがいるだろうな、などという想像はできます。
これらは経験や観察から想像することができます。

でもこういうたぐいの想像力だけでは、共感に結びつきません。経験や観察からスタートした想像は、共感を経由せずに、その想像に基づく必要な処置をしておしまい、となってしまいます。

じゃあ、どうすんのよって結論にいきたいわけなんですが、困ったことにオチが見つかりません。
えーっと、共感力は自然に出てくるもので、無理に鍛えなくていいってことにしておきます。

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