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蓋をされたそれはどこに行く

その日の朝は、地下鉄の構内から地上へとつながる階段の下まで風が吹いてきていた。階段にはだれもおらず、地上出口まで見渡せる状態で階段を上がっていった。なんだろう、この感じ。出口は光で白く、階段を上りきったらなにかが待ち受けてるんじゃないだろうか。あるいは別の世界がそこにあるんじゃないだろうか。

てなことはもちろんなくて、出口付近にはいつもと同じ銀行やファストファッションの店があり、いつもの道路と横断歩道があり、いつもと変わらないような人々がいた。

このときのこの感じって、純粋に自分のなかから出てきたものなんだろうか、といつもの道を歩きながら考えた。
こういうシーンって映画とかによくあるよね。行く先が真っ白になってて俳優の顔がアップになってそこに行ったら……、シーン切り替わるみたいな。わたしの感じたものはそういうのの影響を受けたものにすぎない、どこかで見た似たようなシーンを反芻しているだけのように思う。

こういうふうに日常で感じたものをを、映像やことばなどで表現するんだから、あらゆる分野の表現するひとってすごいと思う。わたしは表現されたものを見て、ああ、そういう感じあるなあ、わかるなあというのを後追いで確認するだけだ。

当たり前に日常的に感じたことをなんらかの形にして表現できるひとは、意識的か無意識的かわからないけど、自分の感じていることを常に自覚しているんだろうと思う。
もしかしたら感性っていうのは、感じる力というよりも感じたことを自覚する力のことなのかもしれない。もしそうであれば、感性は生得的なものではなく、どのタイミングでも豊かになれるのかも。

中学か高校くらいのとき、群ようこさんや林真理子先生のエッセイがおもしろくてよく読んでいた。だれでも経験したような感じが言語化されているので、共感を覚えるとともに、よくぞ書いてくれたというかゆいところに手が届く感、それにちょっと先を越されちゃった感(なにに?)もあった。
こんなエッセイ自分でも書けると言ったひとがいたけど、それは大きな間違いで、書けるものなら書いてみろと言いたい。同じことを感じていたということと、それを外に向けて表現することは違うのだ。

感じたことを自覚できるということは、表現だけじゃなくて日常生活でも役に立つと思う。
たとえば、やらないといけないことをすぐにやらないとか忘れちゃうことが多いひとのなかには、忙しさのせいにするひとが少なからずいる。もちろんそういう場合もあるけど、大抵はそのやらないといけないことを億劫に感じていることを自覚していない。だからいつまでたっても多忙のせいにして改善されない。
でも億劫さを自覚し、なにが億劫さを誘発しているのかが判明すれば、システムを整えることで改善できるんじゃないだろうか。

片付けのプロって、物を取りづらいとか出しにくいといったちょっとした不便に対して、物の置き場所を変えたり工夫を怠らない。わたしなんかは「取りづらいな」と思っていながらもついそれに甘んじてしまうのだけど、彼らはちゃんと自分の感じたことを自覚していて、その取りづらいといった不快さを解消しようといち早く動く。

ところでわたしは長年自分の感情に蓋をしてきたなと思う。うれしいことがあっても、そのあふれんばかりの喜びを味わわず、吹きこぼれない程度にちょっと蓋をしておいた。ネガティブなことに対しては、もっとギュウギュウにきっつい落とし蓋をして、見えないようにしていた。
そんなことばかりしているうちに、感じたことを、外にはもちろん自分に対してもうまく出せなくなったし、不快だとか不便といった感情にも気づかず、そのままにしてしまったりということになり、随分と鈍感になった。
そういう変な癖があることがわかったので、最近はふと思ったことをどうでもいいことも含めて手帳やTwitterに書き留めるようにしている。だからなにってわけじゃないけど。

自分の感じたことを自覚しないばかりか見て見ないふりすることは、どんなことにおいてもあまり役には立たない。
大勢のひとが絶賛しているものは確かによい評価を得るレベルのものなんだろうけど、自分はべつにそう思わないなと感じたらそれでいいし、かといってわざと天の邪鬼になる必要もなく。
自分の感覚や感情をわかっていないと、いろんな価値観を見聞きするにつけ、自分がどう思うのかも揺れてしまうんだけど、その揺れも自覚しつつ知識や情報や経験を得て、自分なりに見極めていかないとなと思う。わたしなんかは万が一のときに容易に「陳腐」な「悪」に手を染めかねない。

ということで、無駄な動きをしなければいけなかった鍋つかみの置き場所を変えて、不便で不快な感じを一つ解消いたしました。

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