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裸の年寄り

たいがいの日本人は、すごく仲良くなった場合とか、親戚である場合を除いて、おおよそ5歳以上年上のひとに対しては、敬語を使うんじゃないだろうか。

年長者は敬いなさいということを子どもの頃から言われてきた。
とはいえ、思春期になれば親や先生に反抗したり、見知らぬひとを「オバサン」などと意味もなくバカにしたりしたんだけど。

なんで年上だからといって無条件に敬わないといけないんだろう、年齢とともに人間は自動的に偉くなるのだろうか。
年が上だからといってなんでも知っているとは限らない。いろいろ知っていたり、経験が豊富だったりする若いひとだっているのに。
若者だった頃は、そんなことを思っていた。

でも、自分が半世紀近く生きてきて、年上を敬わないといけない理由がちょっとわかった気がする。

最近、はさまれているな―と思う。年上を敬うべきという考え方と、若いひとを侮ってはいけないという考え方にはさまれていることをひしひしと感じる。

年上のひとたちに対しては、一応敬意をもって接する。
一方、若いひとたちに対しては、「今どきの若いもんは……」なんてことは思わない。

自分が年上だからといって、若いひとに自分の考えが正しいと押し付けることはできない。彼らは、わたしたちがそうだった頃より、明らかにいろんなことを、自分のことも世の中のこともちゃんと考えようとしているひとが多いのだから。

大学に入って卒業して就活してっていう道を歩むのが、わたしの世代ではほぼ正しいとされてきた。だから、何も考えずにその道を多くのひとが歩んだ。
ごく稀に、意図的にそっちに行かないひともいたけど、それは逃避ととらえられることが多かった。
意図的にではなく、不覚にもみんなが行く道を行けなかったわたしのような人間は、自らを出来損ないだと思わされる雰囲気があった。

今は、みんなが同じ道を歩むことが、昔に比べれば減ってきている。
考え方が多様化したってことが、流されずに自分で考えるということを習慣づけているのかもしれない。あるいはその逆か。
それができる今の若いひとたち(もちろん若くなくてもそういうひとはいる)のことは、年長者なんかよりも敬う、というか尊重するに値すると思う。

年寄りは頭が固いとは昔からよく言われていることだけど、確かにそういう側面はいつの世でも否めない。
新しい考え方がすべて良いとは言えないかもしれないけど、少なくともそれが良いのか悪いのかを検討する力はいくつになっても持っていたいと思う。「若いもんは黙ってろ!」ではなくて。

頭が固いって不要なプライドをもっていることだと思う。
そういう年寄りは、若いひとを尊重することが若いひとにおもねることと同義に思ってしまう。それで、プライドが邪魔をして自分が採るべき新しいものごとについていけなくなる。
状況が変わっているのに、いつまでも同じ考え方に引きずられているのはおかしいってことは、当たり前なはずなのに。残したほうがいいものと残さなくてもいいものを選別したほうがいいのに、その選別ができない。そもそも選別する動機すら生まれない。

だからこそ、年上を敬わないといけないのだ。表面的に、でいいから。
自分以外の考えに聞き耳をたてようとしない年寄りは、意見を言おうものならそれを悪い意味での反論ととらえ、場合によっては怒り始めるのだから話し合いにならない。
だったら、自分が内心どう思うと「はいはい」って言っておけばいいのだ。言っても言わなくても結果が同じなら、省エネのほうがいい。
それが年上を敬うということなんだと、自分が年寄りになって思った。

したり顔でいいこと言ったなと思ったとき、そしてそれに対してうんうんとうなずかれているときがいちばん危険。
バカには相手の本心が見えない。
裸の王様にならないように気をつけなくっちゃね。

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