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好き嫌いがなくてエライ、のかな

「ほら、食べてごらんよ」
意地悪な姉が、わたしに刺し身を無理やり食べさせようとする。

母方の祖父母は、房総半島で隠居生活を送っていた。祖父も祖母も生粋の東京っ子だが、とくに祖父は憧れの田舎暮らしが楽しかったようだ。
わたしたちが遊びに行くといえば、祖父は張り切って市場に自転車を走らせて新鮮な魚をまるごと買ってきては、自らさばいて刺し身にしてふるまってくれた。

3〜4歳だったわたしは、なぜか刺し身が食べられなかった。食べてもいないのに。食わず嫌いだ。
家族はみんな「東京と違ってやっぱり新鮮でおいしいわね〜」などと言いながら食べているのを、不思議な気持ちで見ていた。

わたしは体が弱く少食だったので、代わりのおかずも必要なかった。祖母がつくってくれる茶碗蒸しが大好きだったから、それがあれば十分だった。

あるとき、姉がからかい半分でわたしに刺し身を食べさせようとした。いきさつは覚えていないし、わたしがなぜ食べる気になったのかも覚えていない。
でも、口にした瞬間「おいしい!」と思ったことは覚えている。

それからは房総の家に行くたびに、もりもりと刺し身を食べるようになり、姉は「食べさせるんじゃなかった」と後悔していた。

徐々に体も丈夫になり、量的にもふつうに食べられるようになった。それとともに、好き嫌いがなくなっていった。
唯一嫌いなものはコーラで、今でも嫌いだ(これも飲まず嫌い)。

でも、最近ふと思うのだ。
好き嫌いはないけれど、自分ではあえて食べないものってけっこうあるよなと。
「好き嫌いはありません」と豪語していたけれど、それはすべてが「好き」なんじゃなくて、どうしても食べられないものはありませんということだったのだ。

たとえば、好きだと思われて当たり前なあんこやチョコレート。
おみやげなどでいただけば食べるけれど、自分で買ったことは一度もない。

エビやカニもそうだ。
アレルギーでない限り、日本人はエビ・カニをありがたがる傾向にある。でも、わたしはすすんで食べることはほとんどないし、自炊では使ったことがない。
エビフライは嫌いじゃないけど、外食でオーダーしたのは今生で1回か2回くらいだ。
でも、宴会かなんかでどうだと言わんばかりにカニが出てくると、好きでもないのに「きゃ〜、カニー!」なんて黄色い声を出してうれしいふりをしていたもんだ。

そんな生活を何十年としていたら、何が好きで何が嫌いかがわからなくなった。おまけに「嫌い」「食べられない」ということに罪悪感を覚えるようになった。

数年前にちょっとした大きな病気になったために、食べられるものが限られるようになってしまった。
それでも「好き嫌いはないんだけどね」という前置きをしないと気がすまない。わたしは贅沢は言わないんだけど、体がダメなんでねという言い訳じみたことを言いたくなるのだ。たぶん虚栄心みたいなものから来るんだろう。

どんな食べ物もありがたくいただくことはいいことなんだけども、もうちょっと自分が何を好きで今何を食べたいのかに自覚的でいられないのか。

「好き」と「嫌い」を自覚しないことで、あらゆる感性が麻痺していくんだ。
何でも食べられると勘違いすると、食べられるけどあえて「食べたくない!」って言えなくなるんだろう。
本当はイチゴのショートケーキが好きなのに、断れずに大福を食べてしまって、イチゴショートのためにあけていたスペースがいっぱいになってしまう。

そうやって、本当に大事なことをとりこぼしてしまう。
頼りにされるのはありがたいけれど、「やりたくない!」って言えないがために、自分のためにやらないといけないことをやり損なってしまうのも、この何でも食べられる問題と同じだ。
自分の好きなもの、大事なことを自覚できる感性を取り戻さんといかん。

わたしが積極的に食べるもの。この世からなくなったら泣いちゃう食べもの。つまり、ただただ好きな食べもの。
それは、おにぎりとおそばと厚揚げです! って、安上がりすぎてちとさびしい……。

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