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どこまで先を見たらいいんだろう。

普通はなにかをやろうと決めたら目標を立てるんだろう。
このnoteだって、わたしのように気が向いたときに書くんじゃなくて、毎日、週に5日、1日おきなど、頻度を決めて書くひとが多いように見える。
運動だって、腕立て伏せを毎日100回とか、1日2万歩歩くといった数値を目標にしてやると思う。

そんなふうに目標を決めるのは続けるための動機になるし、運動なんかはある程度の効果があるであろうという数値を目標にしないと意味がない。
さらに数値目標の先には、なぜそれをするのかという理由(目的)があるはず。たとえば、文章がうまくなりたいとか、体を引き締めたいとか。

だけど、わたしは目標の先にある目的を決めてしまうと、ほぼ続かない。うすぼんやりと決めていることもあるのだけど、ほとんどのものごとにおいていわゆる「なりたい自分」というものを定めない。

(このご時世なので今はできていないけど)基本的に毎日1万歩歩くということを決めて、平常時はそのように実行しているのだけど、その先に確固とした目的があるわけじゃない。足腰だけは鍛えておいたほうが後々いいかもしれないという漠然とした理由でやっている。

毎日行っているストレッチや腹筋運動などの軽い自重運動に至っては、もはやなにも目指していない。いや、なにも目指していないというのは言いすぎだけど、せいぜい人間の体のあらゆる部位を、1日1回くらいは動かしてやったほうがいいんじゃないのかなというぐらいのものだ。
そのおかげで若返るとも劇的に健康になるとも思っていないし、どんなに気をつけたって病気なんてなるときはなるのだ。健康に気をつけてこまめに体を動かし、「自然食」を実践していた伯母が60代でガンで死んだときにそう思った。
かと言って、自堕落な生活をすれば日々不快になるので、自分の気分と体調が悪くならないために、その範囲において適当にやっている。

とにかく、はっきりとした見返りを求めずにやっていると、ものごとは意外と続く。
続くだけではなく、ある日その効果が不意に現れる。前屈して床まで手がつくようになったりとか、レッグレイズが腰を反らさずにできるようになったりとか。これが期待していない分けっこううれしいのだ。まるで引き出しの整理をしていたら、封筒に入ったままの1万円札が出てきたときのように。

「5年、10年先を見据えた行動をしましょう」「なりたい自分はどんな自分?」「私は1年後に○○になります!」
これはこれでいいと思う。ぜんぜん否定しない。だけど、わたしがそれをやると、未来を見る能力がなくて決められないせいと、無理やり決めたところで妙に力んで空回りしてしまい、うまくいかない。
先のことを決めておくなんて、せいぜい夕食はなに食べようかしらくらいのことしか決められない。

だけど、わたしたちの生活が実際にひっくり返りつつあるなか、そんな呑気でいいんだろうか。なにが起こるかわからない世界のなかで生きていかいといけないのに。
「AIに仕事を乗っ取られずに生き残る自信がある私」とか、「ウイルスに世界が侵食されても落ち着いていられる私」とか。巷ではサバイバルゲームが始まっているような気がする。
命とお金のためになにかしないといけないのかもしれない。でも、今夜の夕食のことしか考えられないわたしにはそれがなにかはわからない。どうしようかなと思う。

今日の夕食はチキンサラダです。歳とったらなぜかゆで卵と目玉焼きがへたくそになった。

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