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人生は群像劇

歳をとったらおばあさん役の端役をやりたい。そんなことを長年ぼんやりと思っている。
そんなことを話の流れで知人に話したら「あらー、目ヂカラあるし、メークしたら舞台映えしそうねえ」と言われて、なんだか気をよくした。ついでにそのひとには素人演劇のワークショップなんかも紹介してもらった。

そんな話をしていたら、演じることが結構好きであることを思い出した。
演劇部に入ったこともないし、小学校の学芸会でもセリフのある役は割り当てられなかったと記憶している。

会社の研修で、クレーム処理かなんかのロールプレイングをしたことがある。文句を言う顧客に対してどう対処するかということを、それぞれの立場になりきってやりとりするものだ。文句を言う側の役も言われる側の役も、わたしはやっていて楽しかった。
恥ずかしいのかバカバカしいのかわからないけど、ほかのひとたちは力を30%くらいしか出し切っていない感じでやっていたのに、わたしは楽しかったから結構本気出してやっていた。
(自分なりの)迫真の演技で怒っている顧客になりきり、お笑い芸人っぽく揉み手をしてクレーム処理をした。

普段は人見知りの恥ずかしがり屋のくせに(大人になってそこそこ克服はしたが)、みんなが恥ずかしいと思うところが逆だったりする。
他人になりきっているんだから、恥ずかしいもへったくれもない、素の自分をさらけ出すより、よっぽど簡単だと思うのだけど。

でも、こうした機会は近年ほとんどなく、「演じる」ということがすっかり頭のなかから消えていた。だけど、冒頭の知人との会話で、演じるということがわたしのなかで再び存在感を増してきた。

数年前までの机にかじりつきオフィスワーカーから、今はサービス業を2つ仕事にしている。
裏表があることはいけないことだと昔からなぜか思っていて、その癖が抜けきれていないので、仕事を始めたばかりのときは、自分を使い分けないで接客していた。これは精神的に非常に疲れる。

だけど、相手によって振る舞いを変えてみたら、とても楽なことに気づいた。
ホテルマンのように礼儀正しくしてみたり、フレンドリーなおばさんになってみたり、無知でバカっぽく振る舞って「えー、ほんとですかぁー、すごーい」とか言ってみたりする。
こんなことをする以前は、自分の狭量さから、わがままだったり無礼だったりするお客さんに腹が立って疲弊していたのだけど、今はそういうことがほとんどなくなった。

嘘をついているわけではない。すべてが自分だ。
ホテルマン的な自分のときも、バカっぽい自分のときも、正直に振る舞っている、言い換えれば自分をさらけ出して相手と接している。
使い分けないで相手と接していたときのほうが、自分を覆い隠していた。
正直に演じている自分と、素のようでいてエゴで覆い隠された自分。

「ほんとうの自分」とか「ありのままの自分」とかよく言うけれど、なにがほんとうでありのままかなんて、わかるわけがないだろうというのがわたしの意見だ。

人間にはいる場所や立場によっていろんな顔がある。
家にいるのか会社にいるのか、だれかといるのかひとりでいるのか。
息子や娘の立場、親、妻か夫か恋人、友達、部下、上司、教師、教え子、ご近所さん……。
だれもいないところに自分ひとりでいるからといって、それが本来の自分とは限らない。人間は自分に対してすら言い訳したり正当化したりするなどして、平気な顔をして嘘をつく。

そのどれをもひっくるめて自分だととらえていたほうがいい。親である自分も子である自分も、裏表のある自分も。
人生って群像劇だと思う。自分の人生を複数の自分が演じ、語っている。

でも、演じてもいいけど、自分をさらけ出さなければ、ものごとはうまくいかないと身をもって実感する。
自分をよく見せようとしたり、防衛したりしても、他人にはバレバレだから。明確にはわからなくとも、そういうひとにはみんななんとなく違和感を抱き、なんかわかんないけどやだなーって感情をもつ。

いろんな自分が自分というひとつの人生を語るんだけど、いろんな自分はそれぞれ正直に語っている。
正直でなければ人生は窮屈になり、怖いだけのものになってしまう。
そんなことに、半世紀近く生きてようやく気づく自分の「ありのままの自分」は、やっぱりバカっぽいのかもしれない。

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