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成熟とは

うちにはペットがいるので出張や自分が病気のときなど同居人、あるいはそういうときだけうちに来てくれる程度に親しいひとがいるといいなと思うことがある。だけど平時は一人生活最高なので、ペットがいなければそんなことは微塵も思わない。こんなことを言っては、ひとを手段として扱ってはいけないとカント先生に怒られてしまう。

他人と住むとか親密に付き合うということと、ある程度の諸々の我慢はトレードオフなのか、それともそれを我慢とも思わないくらい成熟しているべきなのか。
結婚していた頃は、家の中のことではない別のことですさまじいことが起きていてそれどころじゃなかったので、日々の生活スタイルの折り合いをどうつけるかということにはあまり悩んだ記憶がない。なので過去の経験は参考にならない。

話は変わるが、昔勤めていたところで部署異動してきた女性がいた。彼女はちょっときっぷのいいところがあって、元いた部署では「ついてこれないやつは置いていく」的なスタンスでやっていたらしい(本人談)。
異動してきたときもわりに強気だったんだけど、わたしと組んで仕事をし始めたのが原因かどうかわからないが、しばらくするとすっかり自信をなくしてしまい、そのうち家庭との両立を考えネイルサロンを開業するとのことで退職してしまった。

そのころわたしは40歳くらいで、そのときは「ついてこれるやつだけついて来い」みたいなスタンスは好きではなかった。ついてこれないならついてこられるようにすべきだと当時の自分は考えていた。殊勝にも。
が、年齢を重ねて逆の方向に転換してしまい、今は「ついてこれないやつはほっておく」スタンスになってしまった。本来であれば、成熟すれば面倒見もよくなるはずなのに、年齢とともにあらゆる点でどんどん個人的な人間になってしまっている。

先だって古い物を整理してたとき、昔退職したときの寄せ書きを見つけた。そこには「仕事が早くて正確」とか「概要だけ伝えれば期待以上のアウトプットが出てきた」というようなことが書かれていて、それはそれでうれしく思うのだけど、それを読んでいてわたしはそこに書かれていることををひとに無意識に強要していることに気づいた。だから同じチームで働くと、離脱するひとがいることが時々あるのだ。

仕事を覚えるのが遅い、勘が悪くていつまでたってもできないひとなどのこともきちんとフォローしてあげるべきなんだろうけど、そんなことしても自分の得にならないので、こっちがストレス溜めて熱出すようなことまでして面倒みることは今はしない。
自分を犠牲(というと大げさだが)にしてまで、他人の面倒をよく見るという善き行いをして自己満足すること、また善き行いに対する良き評価を得たいという欲望がなくなってしまったみたいだ。

そういう自分に軽く落胆するけど、落胆するということは自分の人格にまだ希望を持っているんだろうなと思う。
でもエネルギーが、理性的であろうとする自分の希望に合わせていく方にもはや傾かない。理性的な部分の自分より感情的な自分の方が勝っているので、これが成熟とは反対方向になっている原因なんだろう。
お年寄りと赤ちゃんの相性がいいように、あっちの世界に近くなるほど未成熟な人間にまた戻っていくという法則を勝手に作り上げて、それを言い訳に今日も自分勝手にやっていこう。


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